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厠倶楽部  作者: 厠 達三
97/120

21 奥野

 1980年代、米国で行われたボクシングの試合にて、トレーナーが選手のグローブの中綿を抜く不正行為を行った。

 そのため対戦したビリー・コリンズは視力を失い引退を余儀なくされ、その後、車の運転中に事故死している。一説には自殺とも言われる。発覚によって選手の勝利は抹消。また、不正に手を染めたトレーナーは選手と共にライセンス永久剥奪、さらに実刑判決を受けている。世に言うビリー・コリンズ事件である。


 あの試合から既に一週間が経っていた。コミッショナーからは特に何もなく、奥野の勝利は公式に記録された。それなりに注目されていた試合だったらしく、一般スポーツ紙にも小さな記事で試合内容が掲載されていた。もっとも、謝敷の調整不足という論調ではあったが。謝敷のKO勝利を掲載しそこねた苦肉の策であったのは想像に難くない。

 そんなことを考えつつ、奥野はいつもの堤防に寝そべり、空の雲をぼんやりと眺めていた。

 と、視界に長船の顔が入ってきた。示し合わせたわけでもないのに、もうこの堤防で落ち合うのが恒例のようになっている。


「奥野さん、見ましたよ。スポーツ新聞。なぜ引退したのですか? 引退は負けたら、って仰ってたじゃないですか」

 苦言を呈する長船だったが詰問調ではない。残念そうな表情だった。

 一部のスポーツ紙では謝敷の敗戦に関連する形で奥野の引退を報じたものもあった。試合の翌日、平岩を通さず奥野が勝手に協会に引退届けを提出したのだった。奥野が上体を起こす。

「いやあ、別に勝てたら引退はしないなんて一言も言ってないっすよ。ま、あん時は俺も勝って引退なんて考えてなかったけど、心境の変化というか、勝って気持よく辞めればいいタイミングかな〜、なんて」

 軽くごまかしたが長船の悲しげな顔を見てさすがにごまかしは良くないと思い直す。

「いや、すんません。ウチの会長ともひと悶着あって、ちょっと腐ってたんです。辞めた理由は、もう俺がボクサーじゃなくなったから、とでも言うべきでしょうか」


 長船が奥野の隣に腰を下ろす。


「なんつーか、違ったんすよ。右の威力を取り戻して、強い奴に勝つことができれば、また心の底から笑える、昔みたいに上を向いて行けるって、ずっと思ってたんです。で、突貫を手に入れて、昔以上の威力になって、そのおかげで強い奴にも勝てたけど……全然嬉しくなかったんすよ。そん時に気付いたんです。俺はもうボクサーじゃないって」


「勝ちたい気持ちはあったけど、勝つことが全てではなかった、と?」


「そういうことなんですかねえ〜。いや、そんなカッコいいもんでもないかな。俺にも上手く説明できないんですけど。だから、突貫がどうのじゃなくて、俺自身、もうこの道に見切りをつけてたんでしょうね。とっくの昔に。んで、強い奴との試合でKOで勝てて、いい思い出もできたし、ここがいい辞め時かな〜って」


「しかし、いずれにせよ突貫が奥野さんの気持ちを切ったことに変わりはないんですよね。やはり私は間違ったことをしてしまったようです」


「いや! そうじゃないんっすよ! すんません! 俺、嘘つきました。ホントはそんな殊勝な気持ちじゃないんです」


 奥野が胡座から正座に座り直して長船に向き合う。


「実は俺、怖くなったんです。突貫っていう、ルールから外れた武器使って勝って、それがバレたらって考えたら怖くなって、それでバレる前に引退したんです。だから長船さんは全然悪くないんっす!」

 奥野がその場で頭を下げる。実はそれだけでもなく、このネタで長船に脅迫でもされるのでは、という不安もあったのだが、さすがにそれを本人には言えない。が、当の長船は申し訳無さそうに奥野を宥める。

「ああ、頭など下げないで下さい。まさか奥野さんがそこまで思いつめていたなんて。やはり私が愚かだったんです。正直に白状しましょう」

 長船が意外なことを言うので奥野は意表を突かれた。


 実は長船は動画撮影の組手の時点で奥野の右拳の状態をほとんど掴んでいたらしい。そこでなんのかんの理屈を付けて奥野に接近、突貫を伝授させる方向に持って行きたかったとの事だった。


「実を言うとね、私はずっと古流の力を世間に認めさせたかったのですよ。奥野さんもご存知のように古流は舞踊か芸能の類と思われがちです。でも違うんだ、何でもありなら強いんだ、本当は危険なんだってことを知らしめて世間を見返してやりたかったんです。でもルールのある試合では本当の実力なんて測れませんよね。しかも護身を信条とする古流では近代格闘技にはほぼ通用しません。そんな時に奥野さん、貴方が現れたのですよ」


 奥野は長船の中にそんな激情が潜んでいたことが意外でならなかった。


「奥野さんの右なら突貫ですぐ破壊力を得られることは分かっていました。後は奥野さんの地力と突貫の威力で華々しい活躍をされれば、それで私の気も晴れると思ったのです。誰にも分かってもらえなくても、古流の技術ひとつでプロ格闘家を復活させられれば、それで私は満足できると思ったんです。そして予想通りの結果を奥野さんは出してくれました。感謝してます。しかし、奥野さんの心までは分かっていなかった。私はプロの格闘家は目の前の1勝のためなら多少の不正は平気でできるものだと思い込んでいたのです。謝るべきは私の方です」


 そう言って長船も頭を下げた。奥野は複雑な心境だった。


「じゃあ、俺は長船さんに半分利用されてたってことっすか……」

「なんの弁明もありません。本当に申し訳ありませんでした」

 とはいえ奥野は腹も立たない。利用はされたのだろうが、突貫を習得し、それを試合で使ったのは奥野の意志だ。長船は協力してくれたに過ぎない。

「いや、長船さんも謝んないで下さい。なんも悪いことはしてないんっすから……」


 それから2人はしばらく無言のまま、空の雲を眺めていた。まるで長年の親友のように。


「で、奥野さん。引退して、これからはどうなさるおつもりです? やっぱり所属ジムでトレーナー業でも始めるのですか?」

「ん〜、それも考えたけど、俺にトレーナーの資格があるのかな〜って。それよりまず古流の凄さを伝える動画投稿者でもやりつつ、ライセンス取得が現実的っすかねえ。ただ、さしあたって今すぐやんなきゃいけないことを済ませるのが第一ですねえ」


「今すぐ、やらなければいけないこと?」


「ええ。実はさっきまでずっと悩んでたんすよ。でももう覚悟決めました。今から謝敷のジムに謝りに行きます。あの試合、実はこんなことやってましたって。許してもらえるかは分かんないけど、とにかく謝ります。謝敷がショックから立ち直れなくなる前に」

 そう言って奥野が腰を上げる。続いて長船も立ち上がる。


「そうですか。いや、そうですね。では、私も一緒に謝りに行きます」

「は? なんで、長船さんが?」

 呆気にとられる奥野だったが長船は無邪気に笑う。

「だって、奥野さんに突貫を教えたのは私ですから。共犯者なのですから一緒に謝るのは当然です。では、覚悟が鈍る前に早く行きましょう。あ、私はジムを知らないので奥野さんに先に行ってもらわないと。さあ、さあ」


 長船が奥野の背を押す。奥野はボクシングの道を失ったが、もっと大きなものを手に入れた充足で満たされていた。


                                       〜了〜



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