20 恐怖
異様なムードだった。劇的KO勝利なのに静まり返る会場。その静寂の中、乾いた拍手の音だけが響く。レフェリーは淡々と奥野の勝利を宣告。敗れた謝敷はずっとリングにうずくまっている。こんな所で躓くなど想像すらしていなかったのだろう。その一点に、奥野が付け入る隙があった。
やがて長船の拍手も止み、会場を静寂が覆う。奥野はまるで会場全体から刺すような視線を向けられている気がした。いつか見た、炎上する天守閣の夢のような。
自陣に戻ると平岩は呆気にとられた顔で奥野を出迎える。かける言葉すら見当たらない様子だった。
「健斗……お前、まさか……」
奥野は無言でいたが、しばらくして平岩は思い出したように口を開く。
「い、いや。やったじゃねえか。あの謝敷相手に、凄え大番狂わせだ。で、どうだ? 右の拳はなんともねえか? ちょっと見せてみろ。また骨折してたら事だ」
そんな見え透いたことを言いながら平岩は奥野のグローブを外しにかかる。今まで試合直後にグローブを外したことなどない。外したグローブを平岩はそれとなく確認するがもちろん何もない。
次いで平岩が素手になった奥野の右手を確認する。もちろん凶器などあるはずもない。平岩が狐に摘まれたような顔をする。
「健斗、お前、右が治ったのか? いや、そんなはずはねえよな。一体、何が起こったんだ?」
やはりトレーナーの目はごまかせないと思った。カウンターが綺麗に入った、などと言った所で通じはしないだろう。奥野は無言を貫くしかできない。
一方、リングに目を向けると謝敷がセコンド陣の肩を借りてリングを降りる姿が見えた。未来のチャンプとまで言われる男をKOで下したのに気が晴れない。静まり返った客席を直視することもできない。奥野も平岩と共にリングを下りかけた時、レフェリーに呼び止められた。
「申し訳ありません。対戦相手のジムから異議申し立てがありまして、そちらのグローブをコミッショナーの方で預からせていただきたいのですが」
平岩は一瞬躊躇したが、
「ああ、どうぞどうぞ。気の済むまで調べてくれ。せっかくの勝利にケチが付いたら台無しだからなあ。はっ、ははは……」
平岩が愛想笑いをしながら抱いていた奥野のグローブをレフェリーに渡す。何も出ないのは分かっているが、奥野は初めて自分のしたことの恐ろしさを知った。
しかもこの会場には一人、事の真相を知る男がいる。それも今の奥野には恐怖でしかなかった。