14 突貫
指定された日時、太陽が西日に変わる頃合いだが、奥野が到着するとすでに長船が座っていた。伝えられた時刻より30分も早めに来たのに、と、呆れるより敬服しつつ声をかけると長船はいつもの人の好さそうな笑顔を向けた。
「ああ、奥野さん。来てくれたんですね。しかも待ち合わせより30分も早く。いや、私も今来たところだったんです。お互い、せっかちな性分のようですねえ」
そんなとぼけたことを言うのでいくらか緊張が和らいだ。話だけ聞いて断るのも少し気が引けたが、この調子ならさほど深刻な話でもなさそうだった。奥野が隣に腰を下ろすと長船が訥々と語り始める。
「まず、最初に申し上げておきますが、屈指流には、というより現代医学で治せないのなら奥野さんの拳を完治させる方法はありません。ただ、古流にはそういう場合を想定した代替の技もある、という程度です。パンチの威力を取り戻すこととは別問題です。またボクシングのルールに抵触するのかも私にはよく分かりません。もしかすると奥野さんの信念にも反するものかもしれません。知らない方が幸せかもしれません。それでもまだ聞きたいですか?」
一転、真剣な面持ちで聞いてきたので奥野も無言で首肯。長船も小さく頷く。
「とはいえ、実際に凶器を隠し持つわけでもありません。ただ、スポーツではそれと大差はないかもしれません。ルールの不備を突くかもしれない、姑息な手段です。そもそも大抵の古流は拳をあまり使いません。奥野さんもご存知と思いますが、手の機能を活用した方が効率がいいからです。でも、打撃が全くないというわけでもありません」
長船は右拳を握りしめて奥野の前につき出す。人差し指と中指の第二関節がコブ状になっていた。
「屈指流の秘伝ではありますが、最近は色々な媒体で紹介されてるのでもう秘伝と言うほどでもありません。比較的簡単で、実用性も高いので秘伝なわけです。ただそれも時代の変遷で大して意味もありませんけどね。要はこの第二関節を武器化するというだけのことです。簡単でしょ? 一般的には中高一本拳。屈指流では突貫と言います」
それなら奥野も何かで見聞きした覚えがある。しかし指の関節が拳の代わりになるものだろうか? 拍子抜けすると共にどうにも心許ない。訝る奥野を余所に長船が説明を続ける。
「ま、裏技ですけどね。打撃面が小さい方が貫通力が増すうえ、これなら拳が壊れる心配もありません。実戦ではこれで相手の目や人中といった急所を狙います。もちろん破壊力もあるのが前提です。とはいえ空手家のように何十枚もの瓦を割るほどの威力も必要としません。甲冑の隙間や面頬……板切れ一枚割ることができれば充分です」
説明は分かるのだが奥野はいまだに半信半疑だった。
「ううん、そうですね。奥野さん、試しに肘を突き出してくれません?」
言われるまま長船の前に右肘を突き出す。
「いくつかの古流は相手の突きを肘で迎撃する技がありますが、この突貫なら肘も粉砕できます。軽くですが、打ってみますね」
言われて奥野も打撃に備える。
ゴツンという衝撃と共に肘に激痛。長船は手加減して打ったようだが、こんなものを2、3発も食らったら確かに肘の骨がいかれてしまいそうだった。
「これが打撃面の小ささの利点です。肘は大抵、拳より打撃面が小さいから拳に対して有利なのです。なら、肘より小さい打撃面なら更に有利なのは当然のことでして。ましてや人間の手の骨格は打撃には向いてません。古流が手を拳としてあまり使わないのは実用性に欠けるからです。しかしこの突貫なら拳を使わず木製の胴丸程度なら軽く抜けます。なら、生身の人間相手なら充分な威力があるわけです」
これが長船の腹案であることは分かった。これなら地面を蹴って、とかいう古流独特の打撃よりは使えそうだ。ルール違反かもしれないが自身の拳であることに違いはない。ただ問題は練りあげるのにどれほどの年月を要するのか。しかしそこも長船は全く心配ないと言った。
「習熟期間についてはさほど問題ありません。正しく鍛えれば半年でそこそこモノになります。真面目に取り組めば1年で使えるようになるでしょう」
その程度なら充分実用に耐えうる。が、やはり長船は念を押してきた。
「そういうわけで使用にはほぼ問題はないかと。ただ……プロボクサーが使っていいかの判断は私にはつきかねます。奥野さんがいいと仰るなら、伝授はやぶさかではありませんが」
いつの間にか辺りは薄暗くなり、長船は帰っていった。奥野は1人堤防に残り、己の拳を見つめ、ずっと自問自答した。