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厠倶楽部  作者: 厠 達三
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13 誘惑

 あれから数日、どうにも練習に身が入らない。コンディション維持のためのトレーニングだがそれとて疎かにはできない。

 それというのも長船のあの一言が原因だった。あの一言が奥野を呪縛し離れない。失くした武器を取り戻したい。ずっとその未練に囚われてきた。忘れろと言う方が無理な相談だった。あのとき、長船は少し言いにくそうに言っていた。つまりまともな方法ではないのだろう。


 検索すれば古流には凶器を隠し持つ暗殺術はじめ、目潰し、金的はもちろんのこと、耳をちぎったり鼻孔を裂くというえげつない技もあるらしい。殺し合いの術だそうだからその程度の裏技はあっても不思議はない。もしかするとそういう類の技なのかもしれない。それでも__


 それでも、凶器でも裏技でも、右の破壊力が戻るなら、と、つい誘惑に負けそうになる。グローブに鉄板でも仕込んで威力を取り戻したい、と思ったことも1度や2度ではない。

 話だけなら聞いてもいいではないか。明確なルール違反なら一蹴すればいい。もしかすると長船は自分を試してるだけかもしれない。そんな魔法みたいな方法などなく、武道家として奥野のわだかまりを諭したいだけかもしれない、などと自分に言い訳しながら長船に連絡を試みようと決断するのにそう時間はかからなかった。


 以前動画撮影した時にメアドは交換している。先日堤防で話した時ですが、と、当たり障りのない文面で送信。後は返信を待つのみ。

 返信が来たのは翌日の夜。その間、奥野はひどく待たされた気もしたが常識の範囲内とは言える。それほど奥野は返信を待ちわびていた。

 しかし返信には長船の携帯番号が記されているだけで詳しい話は電話で、とのこと。証拠を残すのを嫌がってるのか? と疑いつつも即座に電話、というのも、がっついてるような気がしたので断腸の思いで翌日に持ち越すことにした。その引き延ばしに何の意味もないとは思いつつ。


「こんばんは、長船さん。メールに電話番号があったのでこちらにかけさせてもらいました。いま、大丈夫っすか?」

『ええ、大丈夫ですよ。私も夕飯が終わってテレビ見てたとこです』

 少し拍子抜けしながら適当な世間話から話の本題を切り出す。

「……で、この前なんすけど、俺の右が治る、みたいなことちょっと言ってましたよね。あれって、どういうことなんスか?」

『ああ……あれですか。いや、あれに関しては差し出がましいことを申しました。忘れて下さい。大した意味はないのです』

 やはり言いにくいことなのだろうか。しかしそう言われてしまっては逆に聞きたくもなってくる。

「いや! ぜひ話だけでも聞かせて下さい! もし秘伝とかだったら決して口外しません。お願いします!」

 自分でもここまで食い下がるとは思わなかった。電話越しなのについ頭を下げてしまう。長船はしばし沈黙。

『私の想像に過ぎないのですが、拳の骨折癖なら古流の技で簡単にカバーできるかなと思ったまでです。確証はありません。下手をすると奥野さんのスタイルを崩すかもしれませんし……それに、ボクシングのルールに抵触するかもしれません。凶器を隠し持つようなものですし』 

 やはりまともな方法でもないらしい。多少の落胆はしたが長船が冗談で言ったわけでもないと知って少しの安堵も交じる。長船がそれでもまだ聞きたいかと念を押すので、応じると例の堤防で話しますと日時を指定した。聞く気がなければ来なくても良いと。


 やはり自分は試されているのだろうか? それともこのネタで強請るつもりか。いやいや、プロとはいえ下位ボクサーの懐事情など一般人でも知っている。強請りの線はありえまい、等々考えながらも奥野の腹は既に決まっていた。



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