11 悪魔
「試合、勝ちましたね。おめでとうございます」
長船が開口一番そんな祝辞を述べたので奥野は首を傾げた。
「よくご存知ですね。俺みたいな下位の試合結果なんてスポーツ新聞にも載らないと思うけど」
「新聞なんて読むまでもありませんよ。あの試合見てましたから。いや、生で見たのは初めてですけど、凄い迫力ですねえ」
長船はにこやかに種明かしをした。まさかあの会場に長船がいたとは思わなかった。同時に気まずさも覚えた。
「あの試合、見てくれたんですか。なんか、つまんない試合だったでしょ。客席から野次も飛んでたし」
「いやいや、とんでもない。ナイスファイトでしたよ。正直、奥野さんってロッキーみたいにがむしゃらな人かと思ってたのですが、とてもクレバーなファイトをされるんですね。失礼な先入観を持ってた自身を反省しています」
そこまで言われるのは嬉しいが、若干こそばゆい。それとも見る人が見れば分かるのだろうか、と、好意的に受け止めたくもなる。
「でも、なんでわざわざ試合会場に足運んだんです? 誰か知り合いのボクサーでもいるんっすか?」
「何言ってるんです。奥野さんの応援に行ったんですよ。まあ、途中から相手のファイトにも心打たれましたけどね」
「俺の応援に? いや、光栄ですけど、なんでまた」
長船との繋がりなどたかだか動画撮影に協力してもらったのみ。顔見知り程度でしかない。
「う〜ん、そう改めて聞かれると恥ずかしいのですが、奥野さんのファンになっちゃった、とでも言うべきですかねえ。知り合いの誼というのもあるんですけど」
正直返答に困った。自分のような下位のボクサーにファンなどにわかに信じられない。ただの社交辞令と勘繰ってしまう。
「ファン……っすか。嬉しいっすけど、俺なんか応援したっていいことありませんよ。ご存知の通り下位を低迷してるし、判定で勝つのがやっとの選手ですから」
「ご謙遜を。ボクシングのルールはよく知らないのですけど、詰み将棋みたいでとても興味深かった。それにファンになるかどうかに選手の強さは大して関係ありませんよ。奥野さんの人柄とか、ボクシングにかける情熱とかに魅了されたんです。もっと自信を持って下さい」
本気で言っているのだろうかと疑うほどの評価だが、見え透いたお世辞を言う男にも見えない。動画撮影の組手ではいいように転がされただけに同情されているだけのようにも思えた。
「ところで、試合中盤で見事な右が炸裂しましたね。あれで勝負が決まったと正直思いましたが、相手もタフでしたねえ。ただ、なんとなくパンチにためらいのようなものも感じられましたけど、負傷でもされてるんですか?」
鋭い問にドキリとした。この男は何でもお見通しなのか。それとも武道家とはそういうものなのだろうかと戦慄する。長船は不安げな顔で奥野の表情を覗き込んでいる。下手にごまかすのは不誠実のように思えた。
「いや、驚きです。よくそこまで分かりますね。実は俺、右に骨折癖が付いちゃってて、強打できないんです。それ以来ポイント稼ぎの試合しかできなくなっちゃって、いや、それだったらもう引退しろやって話なんスけどね、ただ、なんつーか、まだなんかやり残したことがあるような気がして、そんでごまかしごまかしやってる、っつーか……」
言いながら言い訳がましくなっていると思ったが、なぜか長船には嘘はつきたくなかった。軽蔑されても誠実でありたいと思った。そんな奥野の言い分を長船は真剣な面持ちで聞いていた。
「なるほど……対戦相手が急に粘り強く見えたのはそういう理由もあったのですね。いや、それにしても凄い。そんなハンデを抱えていながら勝っちゃうんですから。やっぱり凄い選手ですよ。奥野さんは」
長船の励ましに奥野は救われた思いがした。そんな励ましをずっと待っていたような気がした。いつの間にか堤防は西日の朱に染まり、2人はしばし無言のまま西の空を眺めていた。
「いっけね。俺、ロードワークの途中でしたわ。こんなに遅くなっちゃ、さすがにサボってたのがバレちまう。んじゃ、そういうことで、今日のとこは失礼します」
奥野が腰を上げる。と、長船は少し引き止めるようなそぶりを見せた。
「いえ、私の方こそ練習中にお邪魔して申し訳ありませんでした。ときに……もしもその右、以前と同じ、いや、それ以上の破壊力を得られるとすれば……いえ、何でもありません。次の試合も決まったら教えて下さいね」
そう言って長船は西日に視線を戻した。奥野はもう一度聞き直したかった。自分の右が戻る? 信じられないが、当の長船は素知らぬ顔で西日を眺めている。その端正な横顔を見ているうち、この男は悪魔の手先ではあるまいか、そんな風に思った。