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厠倶楽部  作者: 厠 達三
85/120

9 姑息

「いいぞ健斗。やっこさんはもう限界だ。次のラウンドから行っていい。だが焦るのは厳禁だぞ。有効打当ててポイント稼ぎに専念しろ。KOは神様のご祝儀くらいに思っとけ」

 インターバルも終わって第4R。平岩はさすがに冷静だ。奥野の弱点をしっかり認識している。


 平岩の見立て通りフラッシャー城は酸欠状態。精神力で辛うじてファイティングポーズをとっているに過ぎない。対して奥野が攻勢に出る。

 左ジャブから右フック。ガードを固めているものの有効打を容赦なく叩き込む。と、突如フラッシャー城が右の大振り。難なく躱したものの万一当たれば一発逆転の破壊力。やはり相手は体力の限界。一発逆転のカウンター狙いということはもうスタミナ切れを自ら暴露したようなもの。とはいえまだまだ油断はできない。大振りでもどんなラッキーパンチに化けるか分からない。

 たまに飛んでくる大振りカウンターに注意を払い細かく有効打を当てていく。スタミナ切れの相手にそう難しい作業ではない。軽いパンチでも当てればポイントになるのだ。が、見ている観客は気に入らないのか野次を飛ばして煽ってくる。しかし奥野は野次が飛ぶほど冷静になる。


 選手には観客の反応で実力を発揮するタイプ、逆に観客を気にして実力が出せないタイプがある。奥野は前者と言えるしその自覚もある。逆にフラッシャー城は萎縮するタイプに思える。観客席からしっかりやれなどと野次が飛ぶと奥野はその期待を裏切りたくなる。だがフラッシャー城は野次られてますます焦っているように見受けられた。

 焦るあまりか、テレフォンパンチの大振りを放ってきた。それを冷静に見極め左のボディー。沈んだ顔面に向けて放った右ストレートがクリーンヒット。そのままダウン! ……と、思われたがフラッシャー城はロープを掴んでダウン回避。やはり引退の懸かった相手は根性が違う。奥野の感嘆を余所にゴングが鳴って第4R終了。

 決定的な有効打は当てたものの、その代償として右の軽さを相手に教えてしまった。この勝負の綾がどう響くか。奥野の勝利はほぼ揺るがないとはいえ、まだ予断は許さない。


 第5Rもほぼ同じ展開となった。だが息が上がっているはずのフラッシャー城も残る体力を総動員して勝負に出る。やはり右の軽さを知られたのが痛かった。フラッシャー城は奥野の右を恐れず向かってくる。その一点に希望を見出したのだろう。だが奥野とて星を献上する趣味はない。左をコツコツ当ててポイント稼ぎに専念する。右も貰ってくれるのなら遠慮無く打ってポイント稼ぎに利用する。KOなどできなくても判定で勝てばいい。いや、そこにしか奥野が採れる戦略はないのである。


 そんなポイント稼ぎ作業に観客の不満は溜まる一方。元々いた相手応援団に加え、奥野は完全にヒール状態。しかしそんなものは奥野のメンタルには露ほどの影響も及ぼさない。

 真面目にやれと野次が飛ぼうが、ちゃんと打ち合えと言われようが奥野の戦略に変わりはない。ただ目の前の仕事を淡々とこなすのみ。

 そんな面白みのない展開のまま最終第8Rも終了。奥野サイドの戦略通り、勝負は判定へ。

 判定の結果3−0で奥野の勝利。有効打を積み重ね、ダウンに等しい一発も当てた。誰が見ても納得の判定だった。

 試合も終わってフラッシャー城とグローブ越しに握手。儀礼のようなものではあるが、相手へのリスペクトは嘘偽りではないし、同じボクサーとして対戦相手に抱く友情のような気持ちも真実であった。



挿絵(By みてみん)

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