7 深層
プロボクシングの公式試合はよほどのビッグマッチでもなければ一日に数試合行われる。注目度の高い試合はメイン扱いになる。奥野はスーパーフェザーだがランキングが低いので第一試合に組まれた。
控室にて奥野と平岩が試合開始の呼び出しを待つ。ここまで来て特に交わす言葉もない。静かな室内に時計の音だけが響く。
人事は尽くした。後はベストを尽くすのみ。実力はほぼ同程度、勝ちたい気持ちはどちらも同じ。勝敗を分けるのはほぼ運という場合も少なくない。だが選手の事情は千差万別。
今回の奥野の相手、フラッシャー城なるボクサーは全盛期にスピードスターなどと呼ばれ、フットワークと軽快なコンビネーションを得意とした奥野に似たタイプらしい。だが30の坂を越えたあたりから自慢のスピードも影を潜め最近はすっかり下位ランクを低迷。そうなると対戦相手もなかなか見つからなくなる。このあたりも奥野によく似ている。
年齢制限の37歳に近いフラッシャー城が対戦相手に指名してきたのも勝てると踏んだからだ。そこには引退前にせめてもう1勝挙げて花道にしたいという切実な想いが窺える。その気持ちは而立に差し掛かった奥野にも痛いほど分かる。だがそんな私情を挟むわけにはいかない。食うか食われるか、相手の事情に忖度する余裕はない。
平岩が試合に前向きだったのもオイシイ相手だと踏んだからだ。鴨がネギ背負ってやってきたと。引退を控えていようが思い出作りだろうが、指名してくれたからには1勝を拾うために意地汚く頂戴する。それがプロの世界だ。
とはいえ油断はできない。引退間近のロートルでも必死なのは変わらない。甘く見ていれば食われるのは自分なのだ。今まで奥野が控室で何度も考えたことだ。お前が俺を食いたいなら食われても文句は言うなよ、と。
だがこの日、いつもと違い奥野の思考の深層には長船が棲み着いていた。
長船の流派では戦わないことを信条としているらしい。やむにやまれぬ場合でも戦うのは下策。身を守る以外で戦うなど論外である、と。では試合で戦うのならOKなのだろうか。いや、敵意のない試合ならそれは戦いとは言わない。もし長船がプロボクサーになって、こうして控室にいたら大人しく試合に臨むのだろうか。いや、戦いが目的でないのならその仮定は成り立たない。では街の喧嘩に巻き込まれた場合は?
恐らく逃げるか、あるいは頭でも下げて許しでも乞うのだろう。時には土下座してまで。それが究極の護身術とやらなのだろう。武術の使い手が街のチンピラに頭を下げてまで許しを乞えるのだろうか。あの長船なら事もなげにそうするような気もする。
ではそのチンピラが他の弱者に暴力を振るっていたら長船は無視して関わらないのだろうか。それも護身と言えなくもない。
ならばなぜ技を鍛えるのか。人を斃す技術を持っていれば振るいたくなる時もあるだろう。戦わないのが上策というなら武器など持たなければいい。
武器を手にしながらそれを自制するために己を鍛えるのだろうか。
究極の護身、それは己に克つということでもあるのだろうか。確かに戦わなければ負けることはない。だが勝つこともない。
人は勝ちたいから、負けたくないから努力するし向上心も持てるのではないのか。勝利したときの達成感があるから生き甲斐も持てるのではないのか。
戦いもしない、勝ちもしないのに、どうして己を鍛えるモチベーションを持続できるのか。
長船ならその答えを知っているのだろうか。
そんな意味のない堂々巡りも試合開始を告げる呼び出しが来て終止符を打つ。
「行くぞ、健斗」
「はい!」
後はもう試合に集中するのみ。先刻までの自問自答は忘却の彼方に追いやった。