2 優越
今までプロ、アマのリングで何度も本気の相手と対峙してきた。スパーリングは数えきれないほどやったし、動画投稿を始めてからはもう数人の相手と異種格闘技戦まがいの組手をした。だが長船の所作はそのどれにも該当しない。気迫がない、威圧がない、気負いもない。有り体にいえば掴みどころがない。いちおう手は構えてはいるものの、押せば倒れそうな普通の袴姿の青年が突っ立っているだけ。これでは多少セーブしているとはいえ殴りかかりにも行けない。だが動画の撮影となればそんなことも言ってられない。奥野は気合を入れなおし、改めてガードを上げ、ウィービングで距離を詰める。しかし長船からの応答はない。
真面目に組手をやる気があるのか? 奥野に不安がよぎる。下手に殴って怪我でもされた日には事件やニュースにでもなってライセンス剥奪、そのまま引退。最悪逮捕。そんな漠たる不安が奥野を呪縛する。その呪縛を見透かすように長船の所作は全く変わらない。戦いたいのに戦えない、そんな歯痒さがあった。
だが一旦GOが出れば戦わずにはいられないのが格闘家。呪縛から目を背けるように、奥野は得意のフットワークで距離を詰め、ほぼ本気のジャブを長船の顔面に向けて繰り出す。
…… …… …… ……
『え〜、今回の拳闘道場破りチャンネル、残念ながらまた負けちゃいました〜。悔しい! これで通算6戦全敗……いや、今回の経験を糧に次こそは勝ちをもぎ取ってやりますよ! ちなみに俺の激闘の記録は概要欄に貼っ付けておきます。この動画が面白かった人は是非、登録お願いします。また見て下さいね〜!』
ここで撮影が終了。
「いや〜、ありがとうございます、長船さん。無理なお願い聞いてくださってありがとうございましたー」
撮影も終わり素に戻った奥野が改めて長船と握手を交わす。緊張から開放されたのか、長船も若干自然体に戻って見えた。
「ああ、気にしないで下さい。ウチは門下生もいませんから。逆にいい宣伝になりそうです。動画アップされたら是非、教えて下さいね」
「いや、そりゃもう! こちらからお願いします。あとできれば登録も」
「ええ、今日からしておきますよ。でも……失礼なこと聞くようですけど、プロのボクサーさんが動画とか上げて大丈夫なんですか?」
「あっ……ははは……いや〜、いちおう協会に許可は貰ってはいるんですけどね。ただ、やっぱり印象はあんまりよろしくないかな〜。そのうち警告貰ってできなくなるかも」
「そうですか……でも貴重な体験をさせてもらいました。プロボクサーの拳を実際に体験できるなんてなかなかできるものではありませんから。いや、やはり凄いですね。本気で来られたらとても勝てる気がしません」
ただの世辞か本音かは計りかねたが、意外であり少し嬉しくもあった。まるで勝てる気がしなかったのは奥野も同じだった。
「そ、そうスか? 照れるなあ〜。長船さんの屈指流ってのも凄いですねえ。なんつーか、暖簾に腕押しっつーか、パンチが当たる気が全然しないんですわ。ただ立ってるだけに見えたんだけどな〜」
「まあ、古流は護身が主な目的ですから。相手の攻撃を躱す、いなすことに主眼が置かれてます。でもさすがにプロの打撃となれば限界があるでしょうねえ」
ふと奥野は疑問に思った。護身にしても守ってばかりではいずれジリ貧になるのではないか。戦国時代、戦場で培われた実戦武術ならやはり相手を殺す目的の技もあったのではないか、と。気になったので奥野はその疑問を遠回しに向けた。長船も少し答えに戸惑ったようだ。
「う〜ん、仰りたいことは分かります。ただ古流全てが戦場で編み出されたわけでもありませんからね。思想の違いのようなものは流派によってあるとも思います。私も他流にまで詳しいわけでもないので……ただ、究極の護身なら目指すところは一緒なのかなと」
「究極の護身? なんスか?」
「大まかにいえば戦わないことですね。降参する、負けを認める、逃げる、許しを乞う、といったところでしょうか」
なんだかはぐらかされているような気がした。ギャンブルで負けない秘訣はやらないこと、というような観念にも似ている。もっとも、対外的にはそういう体面を取り繕うのも武道なのかもしれないとも思ったが。
「そりゃ戦いを避ければ負けることはないと思うっすけど……でも武術ですよね? 体鍛えて戦う訓練はやってるんですよね?」
「ええ……ですから実際に戦うのは下の下ですけど、だからといって鍛えなくていいってわけでもありませんよね。あとは、修養とか、健康目的とかあるんじゃないでしょうか」
少し肩透かしを食った気もしたが、確かに護身術なら技に溺れて悪事に利用されるリスクは回避できるかもしれない。組手の最中、奥野は呪縛されたような感覚を憶えたが、これも護身の極意のひとつのような気もした。
結局禅問答のような会話でお開きとし、奥野は屈指流道場を辞した。他種の格闘術から何か参考になるものはないかと多少の期待はしたものの、今回はさすがに応用できるものはなさそうに思えた。街の喧嘩に巻き込まれた際には学ぶべきところもあるとは感じた。が、それにしてもお世話になることは一生ないなと、奥野は多少の落胆をしつつも、古流という未知の魅力に触れた経験に密かな優越を覚えていた。