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厠倶楽部  作者: 厠 達三
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戻れない海 10

 過酷な職場から開放され、日常に戻った俺はあの人がニュースになっていないかネット、新聞、週刊誌、テレビ等をチェックしたがなんの事件も報じられていなかった。いや、そもそも事件にすらなってないのかもしれない。職員が誤って海に落ちた。すぐに救助されて何事もなかったのかもしれない。もしそうならどれほどいいか。あの船の公式HPでは相変わらず求人フォームが幅を利かせている。職員が海に落下したなどとはもちろんどこにも書いてない。いや、そもそもそれを知ってどうなる? 最後に見たあの光景はきっと目の錯覚だったのだと自分に言いきかせる。


 ついでに久々に触れたネットであの船の仕事について調べてみると8次か9次くらいの下請けだと知った。つまり、俺の給料は10箇所くらいの連中に中抜きされてたわけだ。それがなければ俺はいったいどれくらいの給料を手にできたのか、考えただけで唖然とした。やはりあの船はとんでもないカースト船だった。

 俺の給料を中抜きした連中はあの船の現実など知りもせず、日々を送っているのだろう。


 その後、俺は入った給料を元に、住む場所と仕事を確保。もう二度とあの職場に戻りたくないがため、ガムシャラに動きまわった成果だ。ここまで俺が必死になったのは生まれて初めてかもしれない。人間、死ぬ気になればどうにかなるもんだ。でも、俺はまだ死ぬ気で頑張れただけまだ幸せだったかもしれない。あの船ではそんな希望も持てない。閉じ込められ、自由を制限され、人道の名のもとに酷使される。あそこで働かされる医療スタッフは出口のないトンネルを延々と歩かされる。頑張ったところで何かが好転するわけでもない。もし、俺がもうひと月あそこに拘束されるとなったら、やっぱり思い余って海に飛び込んだかもしれない。


 そうなのだ。人が自ら命を断つ時は、もうそれ以上頑張れなくなった時なのだ。生きる気力を失くした人に頑張れなんて言っちゃいけない。死にたいなんて言うななんて言っちゃいけない。本当に死にたい人は死にたいなんて弱音を吐くことさえ許されないのだから。


 あの船に乗って良かったと言えるのは、ウイルスからの身の守り方が身に付いたことだ。飛沫感染を防ぐコツ、適切な消毒の仕方やマスクの着用法は身に付いた。さらに感染症に罹ったらどんな目に遭うのかも思い知った。そしてどれほどの人間に負担をかけるのかも。


 だが、陸の上では以前と変わらない光景が広がっている。相も変わらず大勢の人間が所在なさげに街中を行き交い、たむろし、飲酒さえしている者もいる。それがこの世界の変わらない現実。変わったのはあの船に乗った俺の方だった。もう俺は以前の俺には戻れない。この日常を、その他大勢の人間と同じ目で見ることがもうできない。

 多くの人は感染症を他人事のように考えている。夜、飲みに行けないと、客が来ないと大騒ぎしている。大騒ぎできる元気があるうちはまだまだ大丈夫だ。それだけの元気があるなら頑張って大人しくしてろ。死ぬ気になれば大抵のことは頑張れる。遊びに行けないくらいで死にはしない。

 お前らが頑張らないために、これ以上頑張れない人を作らないために。


                                       ~了~

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