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厠倶楽部  作者: 厠 達三
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戻れない海 9

 ひと月の労働期間を無事に終え、最後の検査でも陰性と判定された。とはいえ船から降りたところで住む場所もない。仕事のアテもない。困ることに変わりはないのだが、それでもこの船で働くのはもううんざりだった。結構な給料が出ているはずなので当座はしのげる。その間に何とかすればいい。外に出れさえすばどうにかなる。

 退去の準備を済ませ、手続きを終えるまで気が気じゃなかった。何かことが起こって下船が許されないんじゃないかとずっと心配だった。が、そんなハプニングなどなく、一緒に乗り込んだ数人のメンバーと無事、下船のボートに乗ることができた。途中で脱落した奴もいたから少し人数は減ってるが。


 ボートが船から離れる。名残惜しくもなかったが、船を見送った。あの船の中ではまだ戦いは続いている。俺なんかいなくなっても誰も困らないし何も変わりはしないのだろう。

 と、船の欄干に立ってこちらを見送っている者がいた。目を凝らせば俺に詫びたあの紳士的な男のように見えなくもない。あの人はいつもああやって下船する人間を見送っていたのだろうか。


 とても後ろめたかった。あの人は戻りたくても戻れないのに、俺なんかよりずっと患者のために働いているのに、それなのにずっと感染症と戦わされる。俺みたいな弱者をストレスのはけ口にすることもなく、逆に気遣ったり礼を言ってくれるような人が。俺はそんな人を置いて、自分一人がシャバに戻れるのが嬉しくて仕方がない。でもしょうがない。そういう契約なんだから。俺は何も悪くない。悪いのはああいう人に犠牲を強いるシステムだ。それを作った奴らだ。俺はただそのシステムに従ってるだけなんだ。他に何ができるっていうんだ。


 そんな言い訳をずっと心の中でしていた。願わくば感染症が一刻も早く収束して、あの人も家に戻って、ボーナスをたっぷり貰ってほしい。あの人の苦労が、いつか報われることを祈る他はない。

 そんな気持ちを込めて、俺はあの人に向けて手を上げかけたその時だった。


 あの人は欄干を乗り越え、そのまま海中に消えた。


 冷静に考えると異常な光景だったはずなのだが、あまりにも自然で、俺の心には何の感情も湧かなかった。


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