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厠倶楽部  作者: 厠 達三
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戻れない海 8

「一般スタッフのかたですね。いつもお世話になってます」

 マスクしてるので顔はよく分からないが、40がらみの男はそう言って俺を労った。身構えたものの、ただ単に声を掛けただけにも思える。しかし油断はできない。


「なにか……すみませんね。心ないことを言う人が多くてご苦労が絶えないでしょう。普段はあんなこと言う人たちではないんですけどねえ。一般スタッフの人には本当に助けてもらってます」


 男は医療スタッフとして謝罪とまではいかないものの、申し訳ない気持ちを詫びるつもりでもあったのだろうか。見慣れない男だがこういう人もいたんだろう。ま、ムカつく人間の方が印象には残りやすいし。一般職員に当たり散らしてるようなスタッフは防護服でよく分からないが少数なような気もする。みんながみんなそういう人間ってわけでもないのだろう。


「いいですねえ、ここからの眺めは。私もよくここに来るんですよ。陸の明かりが懐かしい。もうどれくらいこの船に乗っているのか、分からなくなってしまいました」

 男は欄干から身を乗り出して言った。考えてみれば俺ら一般職員はひと月で下船できる。しかし医療スタッフはそうもいかない。降りたくても降りられない事情でもあるのかもしれない。もしかすると医療スタッフは俺ら一般職員が羨ましいのかもしれない。


「ここで外を眺めていると時々思うんですよ。このまま海に飛び込んで、泳いで陸に上がれはしないだろうか。家に戻って、家族と一晩でも過ごせないだろうか、とね」


 男は背を向けたままそんな物騒なことを言った。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、海の水はまだ冷たいだろう。陸に上がる前に溺れるのが関の山だ。俺も同じことを全く考えないでもなかったのだが。


「冗談ですよ」


 男は寂しげな笑みを浮かべて言った。しばらく景色を眺めていて辺りも暗くなり、どちらともなく甲板を後にした。正確には男が海に飛び込みはすまいか、心配で見守っていたというのもある。男が船内に戻るのを見届け、俺も欄干から海を見下ろす。思わず引き込まれそうになる。あの男の言ったこともあながち冗談でもない気がした。

 もしやこの船は、感染者が脱走しないためにずっと沖に停泊しているのではないか。そんな疑念が湧いた。


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