戻れない海 6
俺と同じ一般職員が医療スタッフに手を上げて即日解雇された。その気持ちは分からなくもない。俺だって殴りたくなるスタッフの1人や2人はいる。リピーターによると解雇されればもちろん給与なんか出ない。むしろ殴られた医療スタッフはほくそ笑んでるかもな、なんて笑いながら言っていた。どうやらこの職場にコンプライアンスなんてものは存在しないらしい。
この船にはカーストが厳然と存在する。収容されてる患者が王様で、看護に当たる医療スタッフが召使。俺らのような何のスキルもない一般職は奴隷としてストレスのはけ口にされる。そうとしか考えようがない。
俺達奴隷は虚無的な清掃作業に従事し、命令されれば拒否権なく王様のお世話も時にさせられる。その際ついでに召使の福利厚生の装置としても機能する。それができないなら首を切られる。それがこの船の現実。
そんな虚無感を抱えはじめた頃、ホールでの休憩中、一人のリピーターが声を掛けてきた。
「どうだい? 最低な船だろ? こんなところで働いてる俺が碌でもない奴だと思うだろ?」
その問は当を得ていた。何を好き好んでこんな職場に何度も勤めるのか気が知れない。向こうもその自覚はあるのだろう。同じ職場にいる俺も大差ないんだろうが。
聞けばそのリピーターはここに来る前、自殺を考えていたと言った。笑いながら言ってるのでどこまで本気かは測りかねるが__結局、死ぬ度胸が持てなくて投げやり気味にこの船に飛び乗ったということらしい。
「でも不思議なんだよ。ここにいると死のうって気にならないんだ。今日を無事に生きて終えればそれだけで満足なんだ。生きてるって実感が湧くんだよな」
確かに、こんなところで働いてたら生きるのに必死で余計なことは考えられない。リピーターは缶コーヒーを飲みつつ続ける。
「考えようによっては、ここは幸せの国なんじゃない? 働いて、ウイルスに感染さえしなけりゃ生活が保証される。外みたいに衣食住にカネはかからない。SNSもないからあれこれ考えなくてもいい。重症患者を見てたら自分はまだマシって思える」
理屈は分からなくもないがどう考えてもまともじゃない。休憩時間が終わり、重い腰を上げる。
が、少し考えてそいつの言い分にどう反論できるのか考えてみたが、大した論拠が浮かばなかった。
ここでは俺らはカーストの最下層。下働きばかりで上に上がれる見込みもなく、ただ医療スタッフに罵られる毎日。しかしそれはどこの職場も程度の差はあれ大差はない。罵られるのも俺がまだ仕事に慣れてないってのもある。要領さえ掴めばうまいサボり方も身に付くかもしれない。実際、リピーターはうまくやり過ごしている。
娯楽もないからカネを無駄に使うこともない。衣食住も保障はされてる。外に比べればまだ手厚い環境とは思える。境遇としてはひどいが。
俺もリピータと同じように要領よくやれるようになれば、こんな船でもまた戻りたいと思うようになるのだろうか。
しかし、その認識は甚だ甘いものだと思い知らされることになる。