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厠倶楽部  作者: 厠 達三
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どうする信忠

 天正10年6月2日、妙覚寺に宿泊していた織田信忠の元に急報が入ったのはまだ夜の帳も落ちきらない頃だった。


 惟任日向守謀反。


 この報せに耳を疑わない者などいないであろう。信忠もにわかに信じられない。しかし軍勢の規模、旗指物、鉄砲部隊の練度から間違いなく明智光秀の軍であるのは疑いようはない。その程度の判別もできない無能はいない。


 だがそれが事実としてなぜ光秀は謀反などという暴挙に出たのか、どうにも理に適わない。光秀ほどの智慧者なら多少の不満や欲求があったとて、真面目に勤め上げた方が遥かに安全確実だ。謀反などという前時代的な丁半博打に打って出るメリットは殆どない。成功するも地獄、失敗するも地獄の修羅道だ。


 とはいえ光秀の思惑はさておき、天下最強と言っていい軍団が攻めてきたからにはもう一刻の猶予もない。謀反のセオリーでいえばまずは主君の首、次いで一族郎党の命。光秀にしてみれば僥倖なことに本能寺には父の信長はじめ、ここ妙覚寺には家督を譲られた自分、そして叔父の長益、長利らとその子息も揃っている。本能寺には敵の本隊が攻め入っているであろうから父の生存はもう絶望的であろう。ならばさっさと脱出するのが最善だ。ここで踏み止まって抗戦するメリットは光秀の謀反以上にない。

 

 集まった家臣、郎党、馳せ参じた村井貞勝こと春長軒も脱出を提案している。それが最も得策で常識的な判断であるのは疑いようもない。織田家の家督を譲られた身としてはその選択を即座に採るのが正解と言える。

 が、ここで信忠の後ろ髪を引いたのは、その後継者という自身の立ち位置であった。


 同年3月、長篠の戦いで奮戦し、武田滅亡に大いに功績を挙げた信忠ではあったものの、やはり譜代の家臣、そして院政を敷く父によってほぼお膳立てされたものではあった。もちろんそんなお膳立てに気付かず満足できるほど信忠は暗愚ではない。ひとつ失点でも挙げようものなら即座に後継から降ろされるリスクは常にある。どんな時でも判断を誤ってはならない。


 奇しくも今の自分が置かれた状況は父と似ているのではないか? 信忠がまだ物心つく前のことだから伝聞に過ぎないが、父が桶狭間で今川義元を討った武勇はもはや伝説になっている。

 その際も父は10倍にも敵する今川勢に臆することなく敦盛を舞い、熱田神宮に戦勝祈願しながらも、雨中の電撃作戦で義元の首を取り今川を滅亡に追いやった。三国志や源平合戦さえ霞む伝説だ。


 そんな武神さながらの男を父に持つ自分もまた、天から命を受けている、信忠は幼少からそう信じている。どんな危難に陥っても天命ある者は必ず生き延び、命を果たす。今がその時ではないか? と。


 いや、あのいたずら好きでどこか子供じみた一面もあるあの父のこと、この謀反自体、壮大な仕掛けである可能性は充分に考えられる。実は自分は試されているのではないか?

 一旦そう考えるとますますそうとしか思えなくなってゆく。あの生真面目な光秀が謀反とは考えられない。逆に父、信長からそんなバカバカしい芝居を持ちかけられて真面目に行えるのも光秀しかいないような気もする。

 もしそうならここで自分はどのような選択を採るのか、そこが重要になってくる。

 凡百の者ならさっさっと逃げるのであろう。それが一番賢くて普通の判断だ。だが信長は普通を忌み嫌う。


 もともと傾奇者の気風も強い信長は危機に際して奇手が打てる人間を評価する。逆に小利口で小器用な人間はとことん遠ざける。そうやって卓越した能力を持った人材を集め、競わせ、活用し、目的を次々と果たし天下布武などという荒唐無稽な夢もほぼ実現して見せた。それが父、信長という男だ。


 考えてみればここには信長が愛して止まない家康、宣教師、商人、そして茶器も集まっている。それらを見捨てて逃げるような嫡男を信長は、家中は、天下はどう判断するだろう?

 逆に光秀に対して抗戦するならばまずは二条御新造の誠仁親王、和仁王の安全確保、そして二条御新造に立て籠もり明智軍と干戈を交えるのが正道ではないだろうか。寡兵とはいえ自分の下には精兵千余騎。ひと晩持ち堪えれば畿内の有力大名も夜明けには駆け付けるのではあるまいか。


 そうして武働きを存分に見せつければ信長がいつものように光秀を従えて現れ、自分を真の後継者として認め、天下に号するのではあるまいか。

 いわばこれは最後の戦乱。それが終われば後は文治の時代が始まる。その総仕上げとして信長はこんな大芝居を打ったのではないか。そう考えれば全て合点がいく。


 周囲の者達は固唾を呑んで信忠からの下知を待っている。ここで判断を躊躇うようでは天下人失格。信忠はすみやかに応える。我らは手勢をまとめ二条御新造に布陣、明智勢に徹底して抗う、と。もちろん一同は呆気にとられ、反論もいくつかはあった。が、もう信忠の決断は変わらない。

 このとき、自分の人生がここで終わるとは信忠は本気で思っていなかった。



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