心を支えるもの 3
いつもより少し長めです。
リドワールが迷走しております。
ティナが去った後、人気の無くなった路地に二人取り残され、リドワールが胸に痞えていたことをユーリに問いただした。
「そういえば、シェリルとかいった娘がアレンと何かあると言いたげだったようだが、何故もっと強く否定しなかった」
それは礼を失する言い方だとは思う。今やリドワールは、アレンとユーリは親子なのだと疑う余地はないと思っているが、始めはリドワールもユーリとアレンが男女の仲なのではと訝しんだ覚えがある。だからその考えに至ったのだが、そのことをユーリはどう考えているのか、リドワールとしては知りたいと思ったのだ。
ユーリは意外なことを聞かれたという顔をしたが、小さな唇を一度引き結んで、それからはぁと息をついた。
「わたしが、ユーフォルト家に取り入って養子に入り、母が亡くなったことで父の妻の座に就こうとしている、という噂があるそうです。それに、そもそも母が亡くなったのもわたしが何かしたんじゃないかって」
リドワールは聞いたことを少し後悔した。
アレンは四〇を前にしても未だ若々しく、同性の自分から見てもとても魅力的な男性だと思える。おまけに隠棲しているとはいえ元は伯爵位を持つ貴族で、かつては国に冠すると言われた高潔な騎士だ。
レティアが亡くなった今、彼の傍らは未婚の女性には大層魅力的に見えることだろう。またアレンは、身分に拘らない人間であったから、誰にでもその空席は手に入れるに難くないものに思えたに違いない。
だがそこには、娘として届け出ているとはいえ、誰よりも親し気な妙齢の女性がいる。他人の悪意がどういう風に人を傷付けるか、リドワールは良く知っていた。
それにしても、レティアの死にユーリが関与していたなど、最低の部類の噂だと思う。そして、今にして思えば、最初自分も同じように考えていたことを猛烈に反省する。ましてや既知であるアレンの人品まで疑うようなことを想像していたのだ。
口には出さなかったが、相手に伝わらなければいいという問題ではない。自分が、自分の嫌悪する人間と同じ思考を持っていることが恥ずかしかったのだ。
ユーリの表情が暗く曇った。
「でも、母が亡くなったのは、本当にわたしに非は無かったのでしょうか」
ユーリはその治癒力をもってレティアの病の進行を遅らせていたという。だが、遅らせることはできても治すことはできなかった。それをユーリは悔いているのだろうか。
「だから、わたしと父の噂は否定することはできても、母についてはわたし自身も分からないのです」
レティアはユーリと出会った頃、余命一年と言われていたのが二年生きられたとアレンは言っていた。それは間違いなくユーリの力だ。
「そんなことはあるか!」
思わずリドワールは否定する。ユーリはびっくりしてその大きな瞳を見開く。
「実は、私も最初は同じことを思った」
その言葉には、ユーリもさすがに少し衝撃を受けたようだった。それを見て、自分の罪深さを実感する。
「だが、今は違う」
どうしてもこれだけは伝えなければと思う。
「お前の手は、私の傷を癒した。知っているか?心に疚しいことを抱えた者が放つ魔力は、それが必ず現れる。だが、お前の魔力は濁りがなかった」
リドワールはユーリの前に立ち、その夜の帳のような黒い瞳を真っ直ぐ見据えた。
「全てを知ることができるのは誰にも出来ないと、お前が私に言ったんだ。それは、お前にも言えることじゃないのか?」
ユーリは訝し気に首を傾げる。
「死に至る病を治せるのは神だけだ。お前はお前のできる最善を尽くした。だからレティアの死はお前の咎ではない」
不意にユーリは顔を歪ませた。
「レティアの死の責を負わなくていいんだ」
ユーリが目を瞬いた。その動きの度に大粒の涙が零れ落ちる。
レティアが死んで一年が経つ。だがユーリにとっては、まだ一年なのだ。その痛みはまだ生々しく、どれだけ隠しても不意に表に出てくるのだろう。
泣かれるのは嫌だった。
涙を見せまいとして手で顔を覆おうとするのを止め、その手を引いて再びユーリを引き寄せた。今度は頭に手を添えて胸を貸すようにその涙を覆い隠す。
「服が濡れてしまいます」
「乾く」
リドワールから離れようとして、くぐもった声で可愛くないことを言うのを、バッサリと斬り捨てる。その頭を軽く叩くように撫でると、観念したのか遠慮がちにリドワールにほんの僅か身を寄せてきた。コツンと胸に頭を預ける感触がした。ユーリが頼ってきたことに、リドワールは小さくはない庇護欲を抱く。
自分の肩までしかないユーリの身体が一層小さく見えて、自分が守らねば消えてなくなりそうに思えたのだ。
何故かそうすることがひどく自然に思えた。まるで生まれる前からそうしてきたかのようだ。
やがて体の震えが止まって離れる気配があり、少しゆっくりと手を放す。
「申し訳ありません。変なところをお見せしました」
もう震えも無い声でユーリが言うが、その目元はしっかりと赤く、顔を伏せる前より頬が涙で濡れていた。普段気丈なユーリの涙を見て、少し罪悪感めいたものを覚えた。
「いや、あの者らにあまり言い返さなかったお前を見て、少し歯痒かったから、不用意なことを聞いてしまった。だが、あれだけのことを言われていて抵抗をしないのは善人ではなく怠惰だぞ」
それは言い返さないことが諦観の末なのかと思うと、とてもあの二人が腹立たしく思え、そんな自分を持て余して、ついユーリを責めるような言葉になってしまった。
もっとユーリは自分を主張していいはずだ。そう言いたかったが、何故か素直にそうとも言えない。ユーリは、それも分かっているのか、リドワールに小さく笑う。
「リドワール様は、不器用な方だと分かりました」
「な、何だ、急に」
「だって、わたしに言わなければいいことも、隠さず告げてしまうから」
それは、先ほどのユーリを疑っていたことへの告白のことだろう。言葉に詰まっていると、ユーリは重ねて言う。
「自分を有利にするための嘘や隠し事をしないのは、ご立派だと思います」
「……そんなことは、ない」
実際、自分が不利になれば、それを切り抜けるために様々な画策をする。ユーリにそんな風に言ってもらう資格がないのは分かっている。面と向かって褒められたようでどうしようもなく面映ゆい。それを見てユーリが微笑む。どんなに悪く解釈しようとしても、好意的な微笑みだった。
「それから、わたしは善人ではないし、怠惰になる気もありませんよ。だって、凄い復讐を考えていますから」
「ん?」
とても笑顔で言うようなことではないが、珍しくユーリは悪だくみをするような表情で言った。
「あの人たちはわたしが父さんの近くにいることが気に入らないようですから、だからわたしは、幸せな結婚をして、それを父さんに笑顔で見送ってもらうんです。そう父さんと約束しました」
一瞬、何が復讐か分からず、間抜けな顔で固まってしまったリドワールに、ユーリが悪い笑みを朗らかに変えて言う。
「そうしたら、わたしと父さんの噂が真実でないことが分かって、みんなとても後悔すると思うんです。ね、立派な復讐でしょ?」
リドワールはようやくその「復讐」に気付いた。確かにそれなら、今まで心無いことを言ってきた人間には大変効果があるだろう。それは、誰も傷付けない「復讐」だ。
リドワールも知らずに微笑んでいた。
「そうだな。それは凄い復讐だな」
そして、とても優しい「復讐」だ。不幸の連鎖ではないこんなやり返し方を誰もが出来ればいいのにと思う。それは、アレンとユーリの心根が正しいから思いついたことなのだろう。
そこに至るまでには、二人は散々傷付いて、互いに涙を飲んだに違いない。でなければ、芯の強いユーリが、あれほど脆く涙を流すはずはない。それを、他人を貶めずに自らを救えたユーリのことが、他人事ながら誇らしい。リドワールは、他人の悪意から逃げ出すことで自らの心を守ったが、こんなやり方もあったのかと、ユーリを少し眩しく感じた。
本当に、親子二人を羨ましく感じることでいっぱいだと、決して不快ではない感情で満たされた。
珍しく穏やかな肯定の意を示すリドワールに、ユーリは嬉しいのか目を細めると、まだ目じりに溜まっていた涙が一粒滑り落ちた。それをユーリが手で咄嗟に目を拭おうとしたので、少し留めるようにまた手を取った。
「強く擦るな」
そう言って指先にごく弱い氷魔法を纏わせ、ユーリの顔を上向かせて目元をそっと拭った。涙で赤くなった目元は、冷やされて徐々に元の色を取り戻していく。それを感じたのか、ユーリがゆっくりと目を開ける。黒曜石のような瞳がリドワールを映すのを、何処か夢の中の出来事のように感じる。
「……あの、ありがとうございました」
小さな声でユーリが遠慮がちに声を掛けた。気付けば、意外な近さにユーリの顔がある。涙を見せた照れはあったが、またいつものように冷静なユーリの顔だった。
この距離で、何の動揺も見せないユーリに、いい加減国の至宝と言われた美貌の矜持が傷付く。
「ユーリ、私を見て、何も思わないのか?」
リドワール以外の人間が言ったら、自己愛が強すぎて引かれると思われることを言った。それでも、少し譲れないものがあるリドワールは、もう少し顔を近づけた。
ユーリはそのリドワールに対し、かなり引き気味になって応える。
「えっと、とてもお美しいお顔でいらっしゃいます」
言葉の後に、「それが何か?」と続きそうな気配がして、自分の行動に改めて羞恥心が湧いた。
『……何をやっているんだ、私は』
普段から容姿を目当てにする女性を軽蔑していたのに、いざ顔に興味を示さないユーリを前に、それを誇示するような態度をとってしまった。恥ずかしいを通り越して、自分に嫌気すら差す。
それにしても、自分に興味を抱かせ、ユーリに何をしようとしていのか。
己の行動の軽率さに、リドワールは少し打ちのめされた。
「……何でもない。忘れてくれ」
「はい」
小気味のいい返事が返り、更にリドワールは打ちのめされる。
ユーリとは反対側を向いて口に手を当てていると、「あの」と遠慮がちに声が掛かった。
「なんだ?」
「あの、リドワール様は、お顔を気になさらなくても、とてもお優しい方ですから、わたしはお仕えするのが楽しいです」
聞きようによっては、リドワールが自分の顔に劣等感を抱いているのを慰めているようにも取れるが、リドワールはその意図を良く読んでいた。ユーリは、身分や容姿が優れているからリドワールに仕えている訳ではないというのだ。
思わぬ攻撃を仕掛けられた。何かに射抜かれたように、胸が痛いほど脈打ったのだ。
今までユーリを邪険にこそすれ、優しくした覚えなどなかった。それなのに、ユーリは「優しく」て「楽しい」という。
リドワールは今日までを思い出していた。ユーリとは、家からここへ来るまでの道中、特に何も話すことは無かったが、気疲れも無かったのだ。知り合って間もない人間に、これほど気を使わないのはリドワールにとっては珍しい。
思えば、刺客に襲われてからは、ほとんどを家で共に過ごし、ユーリは付かず離れずの距離であまり存在を感じさせないようしていたように思える。初めのうちは近くにいることさえ煩わしさを感じていたが、いつの間にか同じ部屋にいても気兼ねをしなくなった。
ユーリは常にリドワールを尊重する。だが干渉はしない。その距離感に気付かぬうちに安心を覚えていた。
王宮にいた時には、誰に対しても感じえなかったものだ。王の下ですら、それは義務感や忠誠心であって、安らぎではなかった。
あの家は、リドワールにとって居心地の良い場所になっていた。
それが、リドワールの一方的なものではなく、ユーリもまた良い感情をもって自分を受け入れてくれていることに、少なからぬ喜びを覚えた。
それにしても奇特な娘だと思う。リドワール自身、ユーリに対するこれまでの態度は、柔らかく言っても尊大だった。それなのに、そんなリドワールのことすら受け入れてしまうのだから、奇特としか言いようがない。
リドワールは、あの家へ早く戻りたいと思った。
「そうか」
様々な思いがあったが、口に出したのはたったそれだけだった。それでも、自分の心はユーリに伝わったと思う。
信頼を滲ませ見上げてくるユーリの頭を軽く撫でると、少し気持ちよさそうに目を細めるユーリに、「帰るぞ」と言って、自然に手を取って歩き出した。
「あ、あの。手……」
そこで初めてユーリが頬を薄く染めて戸惑いを見せた。慌てるユーリを無視し、一層つないだ手に力を込める。
おそらくユーリの赤面は、「小さい子供みたい」と思っているに違いないが、たまに冷静さを欠いた表情は悪くない。
ユーリに対する警戒心は、もうどこにも無い。
……リドワールよ。
国の至宝が惨敗です(笑)
急にスキンシップ多めになって、結構分かりやすいヤツです。