変化 3
周囲がザワザワしてたのは、噂が広がっていたんですね。
人の噂と悪事は千里を走るらしいですから。
きっと音速くらいで走りますね。
市に到着すると、入る前に馬を預ける。そしてそのまま二人で目的の店を目指すのだが、それがまた困難を極めた。
十歩進むごとにユーリは知り合いに掴まり、挨拶とリドワールのことを聞かれるのだ。その度にユーリは丁寧に応対する。
「ユーリ、久しぶりだね。元気だったかい?」
「はい、〇〇さんも」
「ところで、その綺麗なお兄さんは、もしかしてあんたのいい人かい?」
「この人は父の親戚で、今度南の方に赴任される騎士さんなので、うちに一時的に滞在されています。今日は街を案内しているんです」
「……ああ、そうかい」
話す人間の性別、年齢は様々であるが、概ねこのようなことを言っていた。リドの滞在の行は打ち合わせで決まったものだが、騎士のあたりは出来れば騎士以外のものが良かったのだが、アレンもユーリもここは譲らなかった。
リドワールを商人や農民などと紹介すれば違和感しかないというのだ。仕方なく「平の」騎士ということで折り合いを付けたのだが、確かに目立たぬようフード付きのマントを街中で着用しているが、帯剣もしているので、騎士でなければ冒険者か傭兵でないと説明がしづらかった。
だが、その説明をすると、皆不思議なほど納得をしてそれ以上絡んでこなかったので、少し煩わしいが良しとする。
何度目かのやり取りでリドワールが小さくため息をつくと、ユーリが苦笑をして少し顔を寄せてきた。
「父さんの言ったとおり、皆さん信じてくださいましたね」
小さな声で囁いたので、本当はちゃんと聞こえているが、違和感の無いようにリドワールも仕方なく顔を少し寄せる。不本意ながら頷くと、ユーリは小さく笑う。
その途端、周囲からけたたましい音がして、見れば幾人かの男が絶望に打ちひしがれたように地面に膝を突いていた。ここでも騎士団と同じ現象が起きていて、リドワールは深い溜息をつく。ユーリの人誑しは、ここまでくると才能としかいいようがなかった。
ふとこれまでを思い出し、そういえば若い女性だけは、あまりユーリに話しかけてきていなかったように思う。若い女性が少ないのかと言えばそういうわけでもない。リドワールを見る視線を感じてそれを辿ると、数人の若い娘がこちらを見ている場面に幾度も遭遇した。
何となく小さな違和感を抱いたが、ユーリが至って普通なので、自分の気にし過ぎかと思い直して、ユーリの黒い髪を目で追う。
「リドワ……」
店の前でリドワールを呼ぼうとしたユーリを睨むと、しまったという顔をしてユーリが止まる。意外とそそっかしい。
「リドさん。最初にここで買い物をします」
すぐに失敗を訂正して言うユーリに頷いて見せると、露天ではなく店の中に入っていった。
「ノルさん。こんにちは」
「ユーリちゃんかい。今日は一人……じゃないね」
「はい。この人は……(以下省略)」
ノルと呼ばれた中年の男性は、リドワールを上から下まで一通り眺めると、特に詮索するでもなく商売人の顔になった。
「で、今日は何にする?」
「今日は、バターをたくさんいただきたいんですが」
「それは良かった。ちょうど今、朝作ったのが入ったところだよ」
そう言って奥に声を掛けると、ノルの妻らしき女性が一塊あるバターを三種類持ってくる。ユーリとリドワールを見て街中の人間と同じ反応をするので、また似たような説明をするのかとうんざりしたが、ノルが要領よく説明してくれたので、ホッとする。
出されたバターは値段が違うようで、ユーリはそれを見比べてうんうん唸っている。どうやら味と値段を天秤に掛けているらしい。
悩むユーリにノルが小指の爪の先ほどバターをそれぞれ切り分けて、試食をさせてくれた。一緒にリドワールにも渡してくれる。味見をすると、味の違いは顕著であった。リドワールはユーリに尋ねる。
「これはどれぐらいの量が必要なんだ?」
「ええと、クッキーとパイを作りたいのと、フレンチトーストにも使いたいので、ニガルくらいかと……」
ニガルならば目の前の一塊の半分ほどだ。提示された値段でいえばユーリが悩んでいるもので八十と二百センスだ。
「主人。これをこのままいただこう」
そう言って一番高価なバターの塊を指して財布を出すと、ユーリがギョッとして、リドワールを遮った。
「リ、リドさん!ダメです、こんな高価なもの」
確かに他のバターのおよそ倍の値段がするものだが、そんなに驚くほどの値段とはリドワールには思えなかった。
「何故だ?世話になっているのは私の方だ。食費くらいは賄うのが当たり前だろう?」
「お気持ちは有難いです。ですが、リドさんは支度金しかお持ちではないでしょ?それは食費に使ってはダメです」
支度金は、今度の余計な任務が入ったことで、旅先で盛装をするための準備金を支給されたものだ。それは即ち税金であり、ユーリは食費のために浪費してはならないと言っているのだ。
少し頭が固いが、良識の有る言に好感を抱いた。自分でも珍しいと思うが、苦笑でない笑みを浮かべていた。
「心配するな。これは騎士団に預けてある私の資産だ。何に使おうと誰に咎められるものでもない」
先ほど支度金を受け取る際に、預託金を騎士団の会計を通して引き出した。冒険者ギルドの特許である特殊な染料を使い、預託金の額を記載した木札を窓口に提示すると、その木札の階級に応じた限度額の払い出しを受けることが出来るのだ。ちなみにリドワールの木札は最高の階級で、王都からの支度金と変わらない金額が今手元にあった。
「でも、日持ちが……」
「私がいるから大丈夫だ」
一応この国屈指の魔力を持っているリドワールに掛かれば、食品の鮮度はそれなりに長期保存できる。今の貯蔵室の温度を下げるのは造作も無い。
「あの、父からお金を預かってるんです。リドさんに負担させたら、叱られます」
「私からアレンには説明する。それにお前たちの食費も面倒を看られないと思っているのか?」
ユーリにとっては、四百センスのバターも贅沢品なのだ。気後れしているのかもしれないが、リドワールの財を頼らないのは好もしい。リドワールを何とか説き伏せようとしているが、そろそろ限界にきているようだった。
「えっと、あの……」
四苦八苦するユーリに止めを刺すべくリドワールは追い打ちを掛けた。
「私は、いい材料でお前の美味い料理を食べたい」
大抵の人間は、リドワールが真摯な眼差しでこう「お願い」すれば陥落するはずだった。見ればノル夫妻は赤面してこのやり取りを凝視している。こういうのはあまり好きではないが、強情な娘に言うことを聞かせるには一番だろう、と腹黒いことを考えていた。
と、思っていたのだが、ユーリの反応は思っていたものと違っていた。
眉間にしわを寄せて考えていたが、ついに諦めたようなため息をついた。
「仕方ありません。わたしもお約束した手前、美味しいものをお作りしたいですから。でも今回だけですよ」
どうやらユーリの中でリドワールは、食いしん坊的な位置づけになってしまったようだ。何故こうなった、と内心首を傾げたが、先ほどの言葉に嘘はないので結果良しということにする。
渋々というユーリを説き伏せて会計を済ますと、ノルに厩の詰め所にバターを届けるよう頼んで、店を後にした。
リドワール自身は気付いていなかったが、結局のところ「クッキー」の一言でつられたものなので、ユーリの見立ては間違いではなかったのだが。
そして幸いなことに、ノル夫妻の呟いた言葉を耳にすることはなかった。
「あの美貌を真顔であしらうユーリはすげえな」
「っていうか『お前の飯が食いたい』て、ほぼ求婚だったよねぇ」
この国の単位について
メルテは距離。メートルに似てますが、約1kmです。
ガルは重さ。1ガル0.5kgくらいです。
センスは通貨。1センスは約25円。
高い方のバターは100グラム500円くらいですね。日本よりお高いです。
リドワールはバターで約1万円出そうとしてます。あれ?計算合ってる?
まったくどこの富豪だって言うんでしょうか。
あ、そういえばお金持ちでした。