さようなら 2
いじめ表記があります。
ご不快に思われる方は閲覧にご注意ください。
施設は、四人一部屋で、寮生活のような感じであった。
広くはないが、カーテンでベッド回りを覆うと、ちょっとしたプライベート空間が出現する。
今は、他の子が里親とのマッチングで優莉の部屋は一人で使っている。同じ年齢の子ではなく、年長の子が年少の子を看るよう、部屋割りは年齢がバラバラだった。一人は寂しいけれど、一人でも多く高里夫妻のような人に巡り合えればいいと、優莉は思う。
園長先生に赤面しながら帰りの報告をすると、ふくよかな笑顔で迎えてくれた。そして、唇に人差し指を当てるような仕草をして、「みんなには内緒ね」と声には出さずに言ってくれた。
その儀式を終えて、ようやく部屋の前にたどり着く。今日ほど一人の部屋が嬉しいと思ったことはなかった。引き戸の扉を開けようとすると、ふとすぐ近くに人が立つ気配がした。
「ずいぶん遅かったね」
優莉は、首根を氷でなぞられるような悪寒を感じた。
振り向くと、そこには無表情で立つ少女がいた。同い年の大原陽菜だ。
優莉は、それほど好き嫌いがないので人間関係に苦労はしないが、この陽菜だけは少し苦手であった。それは、何故か優莉に対してだけ、一方的な悪意を陽菜がぶつけてくるからであった。
陽菜は、誰もが羨むような美しい黒髪をしており、顔も誰が見ても美少女と頷く愛らしいものだ。そして要領が良く、人の心を掴むのがうまい。そうして孤児というペナルティすら逆手にとって、周囲を自分のペースに巻き込むのだ。
陽菜の我儘なら、大抵の人間が許す、そんな子だ。
陽菜は、十歳の頃に両親が事故で無くなって引き取られてきた。元が裕福な家だったようで我儘な気質を持っていたようだが、施設へ来た当初より年々その性格がエスカレートしてきているように思われる。
そんな陽菜が、自分の体裁も気にせず嫌っているのが優莉だった。彼女に何かした覚えなど全くないのだが、事あるごとに優莉に突っかかってくるのだ。いや、突っかかるというよりも、優莉が持っているものを自分が持っていないと気が済まないという感じだ。
ある時は、クリスマス会で優莉がもらったぬいぐるみを欲しがり、ある時は英語スピーチの代表者の資格を横取りしたり、あるいは優莉に好意を寄せてくれていたクラスメイトを自分のものにしたりと、物でも人でも自分に無いものを優莉が持っていることに凄まじい嫉妬をぶつけてくるのだ。
過去に一度、優莉を望んでくれた里親に、陽菜があることないことを吹き込んで破談にしたことがあった。そのことがあってからは園長が気遣って、優莉に里子の話が来ても大っぴらにすることはなくなった。
優莉の養子縁組の少し前、陽菜はその要領の良さから、裕福な家に引き取られることになった。同じ市内の里親だったため学校もそのまま通っていたが、その時になって初めて優莉に対して優越感を持ったのか、しばらくは何もしてこなかった。
ところが、優莉が陸上部に入って頭角を現すようになり、生徒会から声がかかったり、人気のある先輩から声を掛けられたりするようになると、またあの干渉が始まった。小さな嫌がらせや中傷のようなものなど、陽菜自身では手を下さず、取り巻きが創意工夫を凝らして仕掛けてくる。優莉も大人しく引き下がるような性格ではないが、小さいころからの経験で、抵抗せずに陽菜の目に入らないようにすれば被害が少なく済むことが分かっていたので、部活以外の目だった行動はしないよう気を付けていた。
髪だって、長いのが気に食わないと、一度接着剤を付けられたことがあったので、部活で伸ばすのも面倒だったので、それ以来髪はボブぐらいで簡単に一本に括れるくらいまでしか伸ばさなかった。
その、嫌がらせも取り合わないところが更に気に食わないようであったが、相手に合わせて自分の品位を下げるような真似をするつもりはなかった。
ただ一つ失敗したのが、高校の志望校を深く考えずに進学校にしたことだった。
将来、両親のように獣医師になりたいと思っていたので、医学関係に強い高校を選んだのだが、それが陽菜の志望する高校よりもレベルが高かったのだ。陽菜が優莉よりも劣る高校に行くはずも無く、優莉が両親のことで回りが見えなかった時期に、推薦を蹴っていつの間にか優莉と同じ高校へ進学を決めたのだった。
自分など構わなければ、その容姿と要領の良さで、いくらでも望む人生が手に入ると思うのに。優莉はそう思い、ため息をつく。
入学からひと月が経っているが、噂では陽菜は既に幾人か付き合っている男性がいるらしい。上級生や他の学校でも評判になっているのが、そういうのに疎い優莉の耳にも入ってくるほどなのだから。
「別に。ここを出たあなたには関係ないでしょ」
陽菜がここにいることを暗に咎める。陽菜は既に新しい家庭を持つ人間だ。自分のようにやむにやまれぬ事情で戻ってきた訳ではない。それなら、何故わざわざ施設に現れて、そんな不快な顔をするような真似をするのか、理解に苦しむ。
自分とは距離を置け、そう何度も示しているのに。
おそらく、今日何か腹の立つ出来事が学校であったのだろう。最近は、そう言った優莉にまったく関係のないことでも、うっぷん晴らしのためかわざわざ突っかかってくるのだ。最初は陽菜の方に言いくるめられて、優莉に敵意を向ける子もいたが、最近クラスメイトは既にそのことに慣れてきて、「大変だね」と労ってくれる子も出てきていた。まあ、優莉を構うととばっちりが行くので、誰もが優莉を遠巻きにするのだが。
「それで、何の用?用がないなら、もう遅いから、帰った方がいいよ」
素っ気なく言うと、陽菜はスマートフォンを突き出した。優莉は保護者同意がもらえないし、持つ必要も無いので持っていないが、陽菜は随分と早くから養親に買ってもらっていたようだ。だが、問題はそれではなく、その画面に写ったものだった。
先ほどの哲也とのキスが写されていたのだ。
額へのものだし、優莉には疚しいことは何もない。だが、他人に自分のこういった姿を撮られたということが無性に気持ち悪い。
「どういうことよ」
陽菜が低い声で問う。いつものヒステリックな騒ぎ声ではなく、その抑えた声音が却って陽菜の苛立ちを物語っていた。
「それこそ陽菜には関係ないことでしょ」
プライバシーについて怒っても、陽菜にはきっと響かない。ならば、こちらが冷静にならなければ話にならない。まずは、その写真を消させなければ。
「人のそんな写真撮るの悪趣味よ。消して」
元から感情を表に出すのは得意ではない。今はそのことを感謝した。
「陽菜、お願い。西野さんにも失礼だよ」
ゆったりとお願いするが、哲也の名前を出した途端、陽菜の眼に強い感情が灯った。その直後、優莉の頬に陽菜の平手が打ち据えられた。
「何であんたは、あたしのものを盗っていくの!」
一瞬、我が耳を疑った。
陽菜の言葉が飲み込めず、自分よりも背の低い陽菜を見下ろしながら固まった。じわじわと頬が痛みを訴えだす。
「哲也さんは、あたしが先に好きになったの!横取りしないで‼」
陽菜の眼には、これまで見たことのない憎悪があった。初めて向けられる感情に、それを見ただけで身震いが止まらなかった。……初めて?
ふと自分の心に芽生えた疑問に首を傾げるが、次の陽菜の放った声で我に返った。
「あんたが手に入れられるものなんて、この世に一つもないのよ!全部あたしのものなんだから」
ああ、そうか。と優莉は冷静に思う。
どこのガキ大将の論理だ、と思ったが、思えば常に陽菜が向けてきた感情の根底はここにあったのだ、と急に理解した。
陽菜は、優莉が手に入れたものは、自分が前から欲しかったものだという思い込みに支配されているのだ。思えば、今まで陽菜が執着していたものは、優莉の手から離れると興味を失っていた。
急に目の前の少女を憐れに思う。何故、それほど自分に執着するのかは分からないが、こんな呪縛のような執着は苦しいだろう。
だが、優莉にも譲れないものがあった。ずっと傍にあって、これからも掴んでいいと言ってくれたその手を諦めたくない。
「陽菜。例えわたしが横取りだったとしても、西野さんが選んだのはわたしなの。それにわたしは、十年前のあの日から、西野さんが好きだよ」
怒りたくても怒れない。でも譲れない。優莉は優しく陽菜を見つめた。
何故だろう。どんな仕打ちを受けても、面倒に思いこそすれ、陽菜を嫌いになることはできなかった。わたしも大概どうかしてるな、と自嘲気味に優莉は思う。
憎しみを向ける陽菜に、無意識に手を差し伸べる。その滑らかな頬をそっと掌で包むと、俄かに陽菜の瞳に哀し気な色が宿った。そして、ほんの一瞬であるが、その黒い瞳に慕わし気な光が過った。
何かが、繋がる。
そう思った次の瞬間、その思いは脆くも崩れた。
陽菜の眼に憎しみが戻り、いや、先ほど以上の憎悪が掻き立てられていた。
乱暴に手が振り払われると、陽菜は優莉の髪を掴んで引きずった。
「あ、あんたなんか、あたしの前から消してやる!」
「や、やめて、陽菜!」
自分よりも小柄な陽菜の手をほどけなかった。凄まじい力で優莉を引きずる。
どれぐらい引きずられただろうか。ハッと気が付いて、優莉は青ざめた。
陽菜は後ろに体重をかけるようにして、優莉の方を向いていた。つまりは行く手を見ていない。
「陽菜!危ない!」
言うのと同時に陽菜の足がガクッと落ちた。階段だった。
陽菜がバランスを崩し、驚愕で目を見開いて仰け反っていく。
咄嗟に優莉は陽菜に手を伸ばし、その手首を掴んだ。
もう二度と、この子だけを死なせたりしない!
刹那、脳裏に浮かんだ言葉に優莉は戸惑った。自分の行動にも。
だが、優莉は必死に陽菜の身体を抱え込み、自らの身体を下にして庇った。これは、自分は完全に死ぬな。でも陽菜が助かるならいいや。そう思って目を瞑った。
しかし、その最期はいつまで経ってもやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前は真っ暗だった。ただただ落下感だけは続いていて、奈落の底へ落ちていくような得も言われぬ恐怖があった。
だが、不思議と優莉には死の恐怖は感じられなかった。それよりも、何故か強い既視感を覚える。
落ちていく途中で陽菜が正気付いた。周りの状況を知って悲鳴を上げる。
「いやぁぁぁ!助けてぇ!」
「陽菜、陽菜。大丈夫よ!」
錯乱する陽菜を抱きしめ、頭を抱えるように撫でる。こんな異常な状況なのに、優莉は冷静だった。自分はこの感覚に覚えがある。
落ちるうちに陽菜は少し小康状態になった。そして、優莉の身体にしがみついた。
「怖い、怖いよ」
「大丈夫だから。わたしが絶対に助けるから」
闇の中を落ちていくうちに、何故か陽菜のことを愛おしく感じてくる。華奢な身体を抱きながら、しゃくりあげる背中を宥めるように叩く。
この先には、きっとアレがあるはず。
優莉は確信をもって前を見据える。
「見えた」
落ちる感覚に慣れてきた頃、目の前、というか落下する方向に一筋の光のようなものが出現した。やはり、と優莉は思う。
何の記憶か分からないが、自分はこの「道」を知っていた。
「陽菜、見える?あの光の向こう。あそこに行けば安全だよ」
その光は点から丸へ、徐々に大きくなっていく。それを知らせるように陽菜の背中をポンポンと叩く。すると陽菜は身体を揺らした。
光は目の前一杯に広がった。もうすぐだ。
「……姉さん」
「え?」
陽菜が低く呟く。その声に一瞬優莉の心臓が跳ね上がる。恐怖や嫌悪じゃなく、これは喜び?
陽菜の顔を見ようと、少し身体を離すと、陽菜が艶然とした、しかし見たことも無い狂気に満ちた微笑みを浮かべていた。
「……陽菜?」
「あんた、邪魔なのよ」
光の輪をくぐるそのほんの一瞬手前。
優莉は陽菜にその身体を突き放された。
光に飲み込まれる陽菜を見た直後、身体全体を大きな掌で殴られたかのような衝撃を受けた。
周りの闇と同化するよう、優莉の意識も闇に飲まれた。
また明日投稿します。
しばらくは1日1話更新します。