さようなら 1
はじめまして。
重い表現の多いスタートですが、基本的に明るい話が好きですので、暗いお話が苦手な方はもうちょっと先まで我慢してお付き合いください。
序盤は「うーん」となるかもしれませんが、徐々にホッとする展開にしていきたいです。
優莉は六歳より前の記憶が無い。
いや、正確には六歳なのかどうかも分からない。幼い頃の記憶が薄いという意味ではなく、ある時以前の記憶がまったく存在しないのだ。
両親はなく、名すら知らなかった。ただ、保護した都市で戸籍を作るために便宜上名付けたものがあるだけだ。持っているものは、その「西野優莉」という名前だけ。
優莉の預けられている福祉施設には、様々な事情を抱えた子供たちがたくさんいる。身体虐待やネグレクト、両親の犯罪で親元にいられない子供、両親を亡くした身寄りのない子供。理由はそれこそ千差万別ではあるが、優莉のように「親が分からない」子供は他にいなかった。
他所の施設では稀に赤ちゃんポストのような場所に置き去りにされた子供もいるが、優莉のように、六歳で引き取られ親の分からない子はいない。
四月に入ったのに花冷えで雪がちらついていた日、日本では見ないような麻に近い素材の貫頭衣のようなものを着て、真夜中の公園を歩く優莉を巡回中の警察官が保護したのだ。
痩せて体中傷だらけで、手足には縛られた痕のようなものがあったらしい。
すぐに事件として扱われ大々的な捜査が行われたようだが、繁華街にも近く人通りの絶えない公園であったのに、優莉の足跡はまったく掴めなかった。本当に忽然と現れたと言われた方が納得するような不可解さだったという。
優莉は、その時のことをぼんやりと覚えている。何だか眩しいと思って見上げると、地面から生えた棒の先に光る玉が付いていて、それが地面を照らしていた。その明るさに惹かれるように歩いていくと、突然見知らぬ生き物に呼ばれて立ち止まった。その生き物は、自分と同じように顔や手足があり、温かそうな衣を着ていた。
今はそれが、光る玉は公園の街灯で、生き物は自分を保護してくれたお巡りさんだと分かる。が、その時は、生まれたてのように何もそれらを言い表す言葉を持ち合わせていなかった。
ただ、お巡りさんが掛けてくれたコートが、それまで着ていたお巡りさんの温もりが残っていて、とても暖かかったことが印象的だった。
その後のことはあまりに目まぐるしくて覚えていないが、そのお巡りさん以外の人間が近づくと怯えてしまったため、他人に慣れるまでの一週間、そのお巡りさんが付きっ切りになってくれたらしい。
と、このことを知ったのは、その付きっ切りになった本人から教えてもらったのだが。
優莉は、この春で高校生になった。
その進学祝いに、可愛らしい腕時計をプレゼントしてくれたのが、そのお巡りさんである西野哲也であった。優莉の姓は、他に付けようが無く、発見者である哲也からもらったのだ。
その哲也は、今年三十歳になる。優莉を保護した時は、高卒で警察学校を出たすぐ後だったので、当時は二十歳になる直前だったらしい。優莉の件は、初めて遭遇した大事件だったらしく、最初のボロボロだった優莉を保護していたことから、今までずっと気にかけてくれて、施設にもよく会いに来てくれていた兄のような存在だった。
哲也はスポーツマンと言っていい爽やかな青年で、施設の女性に人気があった。優莉は、そんな哲也が自分を気に掛けてくれることを、少し自慢に思っていた。
その哲也が、施設に許可を取って、ひと月遅いがお祝いとして優莉を食事に誘ったのだ。お祝いは、進学祝いもあるが、優莉の誕生日祝いでもある。優莉の誕生日は、哲也が見つけてくれた日だ。
「進学、それと誕生日おめでとう。優莉ももう一六歳か」
感慨深げに哲也が言う。優莉の誕生日は四月八日。優莉が発見された日、つまりは哲也に出会った日だ。そして、日本では結婚が認められる歳だ。哲也と出会ってから一〇年が経つと思うと感慨深かった。
今、優莉の姓は「高里」となっている。中学の時に、里親から養子縁組の申し出があって、当時動物病院を営んでいた高里夫妻の養子となった。夫妻は大らかで、愛情を持って優莉を受け入れてくれた。動物病院を営んでいるので、休暇など無いに等しいので、旅行などの団欒をしたことはないが、病気の動物の世話を手伝わせてくれて、命の大切さや命を預かることの厳しさを教えてくれた。
しっかりとした教育をしてくれて、部活に勉強に、優莉のやりたいことを尊重してくれて、県内でも指折りの進学校も受験させてくれた。それが入学した高校である。これからささやかな家族との幸せが待っているのだろうと思っていた。
優莉は推薦入学なので一月には既に合格が決まっており、家族でお祝いにと食事に出かけた帰り道だった。前日まで降っていた雪で路面が凍結しており、冬タイヤを履いていないトラックのスリップに巻き込まれたのだ。高里家が乗っていた乗用車の前面は大破し、後部座席に乗っていた優莉だけが助かった。
優莉の服も裂けて血で染まっていたが、大きな外傷は見られず、現場を見た人間からは、命が助かったのは奇跡だと言われた。
だが、優莉はそれを覚えていない。事故から葬式や相続の手続きまで、優莉は夢の中にいるように曖昧だった。高里夫妻は、優莉が不自由しないよう、できるだけの蓄えや保険を残してくれていた。それを一部の高里家の親戚が目を付け、優莉の後見を巡っていざこざがあった。夫妻に直系はおらず、遺産は優莉がすべて相続することになったからだ。
話を聞きつけた哲也が、その息苦しい場所から連れ出してくれた。児童相談所を通して、元の施設に一時的に戻れるようにしてくれたのだ。
そして、何とか入学を迎えることができ、事故から三ヵ月にして、優莉はようやく亡くなった両親の為に泣くことができたのだ。
哲也が連れてきてくれた食事は普通のイタリアンだったが、気兼ねせずに食べられる人気店で、予約を取るのは大変だっただろう。そんな時に、昔の話が出て、哲也から離れなかったというエピソードに赤面し、少し笑うことができた。
帰りは遅くならないうちに哲也に車で送ってもらった。その帰り道に時計をプレゼントされたのだ。優莉だって高校生の女の子だ。少し年は離れているけれど、かっこいいお兄ちゃんにこんなプレゼントをもらえば、嬉しくてドキドキしてしまう。例えそれが、妹に対するようなものだとしても。
でも哲也は、帰り際に思いもよらないことを告げた。
「高校を卒業して、あの家に戻りたくなかったら、俺のところへ来ないか?」
施設の駐車場で、別れ際にいつも明朗な哲也が歯切れ悪く伝える。あの家とは、高里の両親が残してくれた家だ。今は知り合いの獣医師に見ていた動物を預けて閉院しているが、名義は優莉になっている。手続きをしてくれたのは、動物病院の経理をお願いしていた税理士さんの知り合いの弁護士さんで、親戚関係が劣悪な状態から管財人をやってくれている。忙しい人だが、傷心の優莉をぶっきらぼうでも気遣ってくれた人で、弁護士さんとしても大人としても信用の置ける人だ。患者の転院も全部弁護士さんがやってくれたのだ。
少し呆けて違うことを考えてしまったが、哲也の「優莉」と呼ぶ声で意識を戻す。
「……それは、妹として?」
そっと聞き返すと、哲也は困ったようなはにかんだような笑顔を向け、優莉の腕を引き寄せた。ふわっと哲也の匂いがして、柔らかく抱きしめられた。
「こういう意味。……優莉のことが、好きなんだ」
なんで、いつから?そんなことが頭に浮かんだが、心臓がうるさくて全然物事を考えることなんてできなかった。そうして固まっている優莉に、哲也は優しい笑顔で問いかける。
「優莉が大人になるまで待つよ。それともこんなおじさんじゃダメかな?」
いろいろなことがありすぎて疲れ切っていた優莉の心に、その言葉は温もりを持って浸透する。途端に、目頭熱くなって、涙が零れるのを感じた。いつもは頼りがいのある哲也が、慌ててオロオロする姿が可愛らしくて、笑みを誘われてしまう。優莉は首を振って「ダメじゃない」と意思を表した。
「嬉しい」
小さく囁くと、哲也はそっと優莉の頬を両手で包んだ。そして、涙を吸い取るように瞼に口づけ、最後にそっと額に触れるだけのキスをした。
「ありがとう、優莉」
そんな囁きが聞こえ、もう一度背の高い哲也の胸に頬を預けるように抱き寄せられた。
「実は、園長先生には相談済みなんだ。結婚を前提にお付き合いがしたいって」
今、人生で恐らく一番であろう赤面をしている自信がある。いきなりのプロポーズにもそうだが、既に園長先生はこのことを知っていて今日の食事の許可を出したのだと思うと、どういう顔をして園長先生に会えばいいか分からなかった。そんな優莉の頭を優しくポンポンと叩くと、車に乗り込もうとして、思い出したかのように優莉に微笑む。
「これ以上のことは、卒業まで待つから」
じゃないと事案になる、とおどけたように笑う。その意味に思い当たってユーリの顔は、火が出ないのが不思議なくらい真っ赤になる。そう言って哲也は施設を後にした。人生一の赤面の記録は早くも塗り替えられてしまった。
優莉の胸の中には、これまでにないほどの喜びがあった。卒業まで待つと言ったのは、哲也の警察官としてのけじめなのだろう。未来が待ち遠しいと感じるのは、これが初めてであった。こんな何もない自分が、幸せになれるなんて夢のようだ、と。
1話4,000文字くらいを目安に投稿していきます。
今回は、異世界へ行くまで、2話投稿します。
別作「ドラゴンズクラウン」をお読みいただいている方がいらっしゃったら、多分あまりに作風が違うので驚かれるかもしれませんが、同一作者です。
興味が湧いた方は、ぜひご一読ください。
閲覧ありがとうございました。




