1 女
死ぬ方法を確保しておく必要がある。
”あの女“のいないとき。
チャンスが来たとき。
きちんと“ケリ”をつけられるように。
俺は天井を見上げながら考えていた。
“あの女”は昼間と夜はウチにいるから、妙な動きをしているとすぐに見つかってしまう。
動くなら朝か夕方だ。
若しくは女が寝静まった深夜。
その間に、自死の手段を獲得しなくてはならない。
今の俺には、簡単ではない。
途方もないミッションだ。
何しろろくに立つことも出来ないのだ。
左半身にはほとんど感覚がなく右半身の下肢にも力が入りにくい。右腕以外、満足に動かすこともままならない。
”女“が言うには、俺には重度の感覚障害と中度の麻痺があるという。
「はっきり言うわね」
と、女は言った。
「あなたは頭に激しい衝撃を受けて、脳内の血管が破裂したの。その出血によって脳が損傷し、運動野と感覚野が機能しなくってしまった。幸い、左半身は感覚が無くとも力は入るみたいね。右半身には感覚はあるけど、麻痺が強く出ている。脳損傷は、この世界の医学ではどうしようもないわ。恐らく、今まで通りに生活することは不可能になる。一生歩けない可能性もあるわ」
女は感情を混じえず、淡々と説明した。
それが何を意味するか。
すぐには分からなかった。
いや。
頭では分かっていたが、どうしても腑に落ちて行かなかった。
歩けない?
動けない?
そんなバカな。
腕っぷしだけで生きてきた、天涯孤独のこの俺が――。
終わりだ。
生きていけるわけがない。
モンスターを狩ることしか能の無い俺が。
ひたすら強靱な身体に依って戦闘能力に明かして生きてきた俺が。
それを失って、生きていけるわけがないのだ。
この慈悲のない世界では、自分のみの力で生きられぬ者は死ぬしかない。
この家で一人、痩せ細って衰えて死んでしまうよりは。
戦士らしく散ろう。
この数日で、そのように結論付けた。
俺はベッドの上で首だけ動かして、室内を見回した。
あれだけ快適だったはずの我が家が、今となっては障害物だらけのアスレチックに見える。
部屋の真ん中に設えられた大きな机。
敷居。
入り口を塞ぐ扉。
そして、階段。
どれもこれも、今の俺にはただの邪魔者だ。
あいつらのおかげで、移動は絶望的だ。
しかし、死ぬにはどうしてもこの部屋から出なくてはならない。
今の俺の移動手段はひとつしかない。
身体を転がしてベッドから転げ落ち、動かない半身を引きずって、床を這い回るしかない。
だが、俺はどうにかして、階下にあるキッチンまで辿りつかなければならない。
今、頼れるのは、そこにある包丁だけだ。
刃渡りの小さなキッチンナイフだが、首か心臓を刺せば死ねるはず。
武器や防具は外の納屋にあるので、刃物はあれしか手に入りそうにない。
キッチンの包丁。
あれが、今の俺の希望だ。
しかし。
今の俺にとって、キッチンは世界の反対側よりも遠い。
「あら。起きていたのね、ロミオ」
睨んでいた扉が開き、“女”が入ってきた。
手には銀のトレイを持っており、そこに牛乳とパンを載せている。
「気分はどう? 少しは眠れたかしら」
女は俺のベッドにこしかけ、俺の膝にトレイを置いた。
それから俺の背中に手を回し、上半身を起こした。
女は細くて白い手を俺の額にあて、うん、と頷いた。
「熱はないみたいね」
女は少し笑った。
その時、少しだけ生きる気力が湧いた。
別に女に惚れているわけではない。
気が晴れたのは、「身体を起こした」からだ。
「身体を起こす」という行為は、人を前向きにさせる。
人間らしさを取り戻したような気になる。
座る。
起きる。
そんな当たり前の動作が、今の俺にはどうしようもなく嬉しかった。
「今日は蒼い鳥が飛んでいたわ。なんていう鳥かしらね」
女は窓の外を眺めながら言った。
この女はこうしてなんでもないことをよく喋る。
俺は窓の外と女を同時に見ながら、ああ、と曖昧に返事を返した。
美しい女だった。
黒髪で目も眉も黒い。
乳白色の肌に、感情の読めない不思議な瞳。
どこの国の顔とも言えない顔つきをしている。
本当に奇妙な女だった。
俺はこの女のことを何も知らない。
勝手に俺の家に住みつき、俺の世話をする女。
彼女がどこの女で、何を職業としているのか。
なぜ俺を介抱しているのか。
まるで知らない。
聞いても答えてくれない。
今日は暖かいだの、外で綺麗な花を見ただの、他愛のない世間話はよく喋るくせに。
肝心なことは何一つ答えない。
いや、本来なら聞く必要はないのだ。
彼女は俺の知り合いのはずなのだ。
そうでなければ、こんな風に俺の世話をするなんて有り得ない。
逆に言えば、これだけ甲斐甲斐しく助けてくれるのだから、かなり親密な仲であったはずだ。
それなのに、どうしても思い出せない。
顔も名前もまるで見覚えがない。
おそらくは頭の怪我のせいだろうが、彼女の記憶だけスッパリと抜け落ちている。
もしかすると、彼女はそのことが許せないのだろうか。
だから、頑なに自分のことを話さないのだろうか。
俺はちらと女を見た。
相変わらず、感情は読めなかった。
「食事は自分で食べて。出来るでしょ? 食べ終わったらサイドテーブルに置いておいて。夜には身体を拭くから、今は少し我慢してね」
女はそれだけ言うと、再び、扉の方へ向かった。
おい、と俺は声をかけた。
「なに?」
女は振り返った。
俺は目を伏せ、口を噤んだ。
「なに? 用事が無いなら行くわよ」
女は急いたように言った。
俺は意を決して口を開いた。
「名前を」
と、俺は言った。
「名前だけでも教えてくれないか。これだけ世話になっているんだ。おい、なんて呼びたくない」
女は少し顎をあげ、しばし黙考した。
少し眉を寄せ、口角を下げて、俺を見る。
何を考えているのか。
どういう感情なのか。
やはり、分からない。
「ジュリエット」
やがて、女は言った。
「私の名前はジュリエット。今度から、そう呼んで」
部屋を出て行く前に、女は少し微笑んで、そう言った。