『夢想奇譚』
午前零時過ぎ。
建立を許されたバベルの塔がごとき超高級マンションの窓にもたれ、私は大都会のパノラマを無感情に眺望していた。
私は時計に目をやり、さてそろそろ、戻ることにするか、自分に言い聞かせるように呟き、ベッドにもぐり込んだ。
「朝ですよー! みんな、起きなさい!」
妻の大声は現実に帰還したことの証明だ。
ここでの私は、妻と子ども二人を抱え、あくせく働く四十歳の平凡なサラリーマンだった。この歳ともなれば、自分の将来像が予見できる。到底明るい未来は期待できない。私は溜息の日々を送っていた。
そんな私を哀れんでか、ある夜を境に、毎夜同じ夢を見始めた。
夢での私は、個人資産二十数億円を有する大企業の社長であった。初めは単純に楽しんだ。物欲を満たし、飽食に明け暮れる毎日を。
ところが、一月ほど経ったころから、頭の片隅に常にこびり付く、奇妙な違和感に苛まれるようになった。
それは何かが足りない、いわば欠落感のようなものだった。この奇妙な生活が一年ほど続いた。
そんなある日のこと、一人の紳士が私を訪ねて来た。
「どうです? こちらの生活は?」
私は予想外の質問に驚愕し、ただ呆然とするのみだった。
彼はそんな私を置き去りに話を続けた。
「どうです。こちらを現実にしてみては? 夢と現実を反転させる、それだけです。お返事は明日で構いません。それでは失礼します」
そう言って彼は立ち上がった。
ようやく自分を取り戻しつつあったが、意識は混濁し半朦朧の状態だった。
だが、紳士が部屋から出て行く直前、「いいお話ですが、お断りします」意外な言葉が私の口から飛び出していた。
紳士は、「承知しました」と頷き、部屋をあとにした。
翌日から、その夢を見なくなった。
時は流れ、私は七十歳を迎え、ようやく理解できたことが幾多もある。
思うに、いかに巨万の富を持とうとも、労せずして得た物の真の貴さは理解不可能である。時を経ずして私は虚無感に蝕まれ、やがては毎日をただ虚しく過ごすだけの存在と化していただろう。それはもはや人生と呼ぶに値しない悲惨な生き方だ。
人生を人生たるものにするために必要不可欠なもの。それこそが生きがいだ。夢で感じた違和感は、生きがいの欠落に対する本能からの警告であったのだろう。
私には価値ある人生を歩んだことに、確たる自信があった。
すでに床の中の私は、いつしか夢の中へと誘われていた。
あの夢とは比べようもない、豊潤で意義深い人生の思い出という夢の中へと。