ウィトゲンシュタインと他者1
論理哲学論考の自分なりの解説はこれで終わりなのだが、他にも論じたい事があるので、論じていこう。最初に考えるのは他者の問題だ。
ウィトゲンシュタインは独我論者だと言っても、それほど間違いはない。しかし、独我論というのは、「自分勝手」な感じがするらしく、哲学者にもあまり受けが良くないようである。日本のウィトゲンシュタイン研究者・哲学者の野矢茂樹は次のように書いている。
「だが、いまや私は『論考』を他者の予感のもとに開きたいと考えている。(略)
意味の他者はどのようにして私の前に姿を現しうるだろうか。(略)論理空間のこうした運動、その変容を促す力、これこそが他者にほかならない。」(『論理哲学論考』を読む)
野矢茂樹は(僕の理解では)ウィトゲンシュタインの独我論では狭苦しいと考えたらしく、そこに他者を導入しようと試みている。そこで論理空間を変化させるものを他者だという事にしている。
この点、もう一人の優れた日本の哲学者・永井均は全く逆の反応を示している。僕は永井均の方が正しいと思う。その箇所を例にあげてみよう。
「しかし、注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである。」(青色本・ウィトゲンシュタイン著)
「私が何より感動したのは、『他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである』という最後の一文である」 (ウィトゲンシュタイン入門・永井均著)
さて、永井均という哲学者は、ウィトゲンシュタインの発言の最後の一文に感動したと言っている。これはどういう事だろうか。おそらく、野矢茂樹であればここに不満を持つだろう。(少なくとも、修正を試みようとする) 何故なら、他人が、私が言おうとする事を理解できてはならないというのは、他者排除の哲学と見えるからだ。
僕はどちらかと言うと、永井均と同じ立場に立っている。ウィトゲンシュタインを読み、それを理解するとはどういう事か。それは青色本の「他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という一文に感動するか否か、という事にかかっている、と考える。暴論かもしれないが、ここでウィトゲンシュタインが何を言おうとしているかを直感する事がウィトゲンシュタインを読むという事であり、それに比べれば、論理学の細かい知識は些事であるとーーそうとさえ思っている。