哲学の終わり
主体の変化は世界の中の事実を変えはしないが、世界そのものを総体として変えてしまう、その意味付けを変えてしまう、という事が分かった。では、「生きる」事とは一体、どのような事なのだろうか。それは哲学とは(そして世界とは)どのような関係にあるのだろうか。
「生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである」(論考)
「たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである」 (論考)
科学は論理によって世界を語る。しかし、それは事実の次元においての話である。人間の幸不幸、美、倫理の問題については語りえない。人はそれを「生きる」のであり、この「生きる」は科学においては語りえない。哲学は、科学(論理)の限界を理解するために必要とされる。この哲学(「論理哲学論考」)は、限界線さえ引けばもう用済みなのである。
「私を理解する人は、私の命題を通りぬけーその上に立ちーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、はしごをのぼりきった者ははしごを投げ捨てなければならない)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
生きる事は哲学を捨て去る事から始まる。そしてこの哲学ーー「論理哲学論考」はそのために用意された、踏み台に過ぎない。生きる事は自らの世界を背負い、それに責任を負う事である。例えば、私は私の世界を生きる。この時、私の世界の意味は主体である私のあり方によって決定される。事実そのものに対して私は無力だとしても、私はその生の内部において、総体としての世界に決定的な意味を及ぼす。
ここでもはや問われるべき問いはない。人は生きる事によって、問題を解決する。いや、そうではなく、生きる事は問題を消滅させる。科学は我々の人生の問いには答えない。それは、答えがあるようなタイプの問いではない。そして問いが消滅した事を知った時、人はただ「生きる」のである。
こうしてウィトゲンシュタインは哲学を捨てて、「生きる」事を始めた。彼は田舎町のトラテンバッハに行き、小学校の教師となったのだった。