幸福な世界と不幸な世界
「善き意志や悪しき意志が、もし世界を変えうるとすれば、それはただ世界の限界を変えうるのであって、諸事実を、つまり言語で表現できるものを変える事はできない。
要するに、そのとき世界は、そのことによって、総じて別の世界になるのでなければならない。世界はいわば、総体として減少したり増大したりするのである。
幸福な人の世界と不幸な人の世界は別の世界である」(論考)
「たとえ死を前にしても、幸福な人は恐れを抱いてはならない」(草稿)
論考によれば、世界を担うのは主体である。主体は語りえない。
主体の変化は、言語で表現できるものーーつまり、世界の意味それ自体は変えるが、世界の中の事実を変えるわけではない。語りうるものを変えるのではない。その「意味」を変えてしまう。
永井均がすでに良い解説を書いているが、自分なりにこの箇所を考えてみよう。例えば、一枚の絵画ーーゴッホの「烏のいる麦畑」の絵が僕達の目の前にあると想像して欲しい。それを二人の人物が見ているという事にしよう。
一人の人物は、絵画鑑賞力のある人物であり、彼はゴッホの絵を見て、感動のあまり思わず涙を流してしまう。かたやもう一方の人間は、絵画にはてんで興味のない人間であり、ゴッホの絵にもまったく心動かされない。
さて、この時、鑑賞力のある人とない人は、事実としては同じ絵を見ているわけだ。絵画そのものは、同じ事実(世界)として目の前に存在する。鑑賞力のある人にとってその事実は彼の存在を貫き通す一本の槍である。他方、鑑賞力のない人にとってそれは単なる色彩、線の集まり、あるいはせいぜい、どこかの風景を描いたものに過ぎない。
この時、二人は同じものを見ているにも関わらず、違う世界を生きている。「幸福な世界と不幸な世界は別物」の比喩は、この二人の鑑賞者にもうまく当てはまるだろう。幸福な人は、世界を幸福にする。一方で、不幸な人は世界を不幸にする。ここから次のような語もすんなりと理解できるようになるだろう。
「たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる僥倖にすぎない」(論考)
「世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない」(草稿)
例えば、宝くじが当たって、三億円手に入れた人物を考えてみよう。彼は彼の世界の中の事実を変えたのかもしれない。彼の周辺の事実を変える事に成功したのかもしれない。普通、言われる幸不幸とはこのように、偶然的な事実の変化の事である。しかし、彼は「主体」を変えはしなかった。彼は世界の意味付けは変えず、世界の中の一事実を変える事に成功したのである。
「死を前にしても、幸福な人は恐れを抱いてはならない」ーーー幸福な人は、例えば、自らの死を前にしてもなお幸福であるのだろうか? この問いに、ウィトゲンシュタインは「然り」と答えている。幸福な人は幸福な世界を生きており、世界の中の諸事実に左右される事がない。「死は人生のできごとではない」のだから、この人物は死を前にしても依然、幸福である。では不幸な人物は例え、宝くじに当っても依然不幸なのだろうか?ーーこの問いに、ウィトゲンシュタインはやはり「然り」と答えていると僕は思う。
もっとも、そうした事が言えるのは、幸福な世界と不幸な世界が比較できると仮定しての話である。世界は独我論によって、絶対的に唯一だから、他人の世界を覗けない以上、幸不幸は本来的には比較できないように思う。だから、こういう箇所ではウィトゲンシュタインは、語りえない領域で語っている事になるのだろう。