論考の世界観と文学の世界観
主体は世界を構成しているという事がわかった。では、その主体はどのように世界を構成しているのだろうか。
「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。」
「幸福な世界は不幸な世界とは別ものである」
正直、この辺りでウィトゲンシュタインが何故、こういう事を言うのか、自分にはあまりよくわかっていない。例えば「幸福な世界と不幸な世界とは別もの」と言っているが、世界は唯一である事がはっきりしているにも関わらず(独我論)、何故、幸福とか不幸とかを比べる事ができるのだろうか。世界を比べるには二つ以上の世界がなければならないが、世界は単一だから、比べようがないはずである。僕にはそれが謎である。それはウィトゲンシュタイン自体が語りえないと言ったのではないか。生においては幸福も不幸も善も悪もない、と考えるのが、ウィトゲンシュタインの論理を延長する上では正しい考え方ではないか。
ここから少しだけ、自分の考えについて語る事にする。ウィトゲンシュタインの思考を引き伸ばせば、世界には事実のみがあり、その内部には善悪、幸不幸はないというのが真実であるように思う。そしてこれは、突き詰められた文学理論と一致するように思われる。
例えば、シェイクスピアのような世界視線を持った作家にとって、作品内部に倫理は存在しない。シェイクスピアの「マクベス」「ハムレット」という作品を考えてみよう。ハムレットは誤った殺人を犯し、マクベスは意図的に、悪そのものであるような殺人をする。しかし、作品内部に善悪はない。殺人というような恐ろしい行為も、結局は、文学というシステムの中では人間の心理、行為、言動に分解されて、そこに悪はない。
二人の人間がいて、一人が一人をナイフで殺すとしよう。この時、一人は恐怖を感じ、もう一人は殺人衝動を感じる。殺人者は相手を殺し、目的を達する。もう片方の体からは血が流れる。この時、この内部に悪はない。あるのは、心理、言動、行為、血、などである。殺人者が最終的に法や、他者によって罰せられても、それは善でも悪でもありえない。世界の内にあるのは善や悪ではなく、あるのは行為や言動や心理である。文学作品は世界を、行為や心理や言動に分解する。そして文学は世界に対して言明しない。文学は世界を描く。同様に、世界の中に美は存在しない、と言う事もできる。世界の中に存在するのは、ある絵画であり、美しく咲いた花であり、少年や少女であり、文学作品やメロディの切れ端であったりするのであって、それらの内部に美は存在しない。あるのは美しいとしか言えないものであって、それは美そのものではない。(ありうべき誤解を解いておくなら、僕は殺人は悪ではないなどと言うつもりはない。こういう文章をそういう風にしか取れない人物が結構多いので、一応一言しておく。そんな事は全く言っていない)
このように、ウィトゲンシュタインの世界観は突き詰められた文学観と一致すると自分には見える。それではまた、話を元に戻す事にしよう。