独我論
ウィトゲンシュタインが純粋な論理学者ならここで話は終わっただろう。しかしウィトゲンシュタインは話を続ける。論考の最後の部分では、論理学ではない事が語られる。
この部分は余計な部分として見る事もできるが、論理哲学論考という本を哲学書として読む者にとってはこちらの方が魅力的だろう。この箇所に関しては僕にとっても、不明の所が多いので、「勘」で書く。
これまで見たように、世界とは事実の総体であるという事が分かった。事実は命題と一致する。命題は真偽が出る。命題とは論理である。論理・論理学・命題・事実・真偽がぐるぐると回りそこから意志・美・倫理などは弾かれる。それらは命題では語る事ができない。しかしウィトゲンシュタインは弾かれたものについても語っている。ウィトゲンシュタインが何故、それらについて語っているのかは僕にはわからない。そんな言葉はありえないという事がこれまでの論理の帰結ではなかったのか。しかし、ウィトゲンシュタインはそれについて(なぜだか)語り出す。
ウィトゲンシュタインはこの世界ーーつまり、事実・命題による世界を作り出すものについて語り出す。それは「主体」である。主体は独我論的に現れる。
独我論とは哲学で言われる一つの学説だ。要約すると、「この世界に実在するのは私一人であり、ほかはすべて私の意識内容に過ぎない、とする考え方」(光文社版の解説より)である。ウィトゲンシュタインは独我論を基本的に肯定する。しかし、ウィトゲンシュタインはこれにただ肯定するわけではない。独我論とは語られると嘘になる類の真実である。つまり、独我論は沈黙している限りではそれ自体真理であるようなタイプの真理なのである。
何故、そういう事になるのだろうか。世界があり、これは論理によって語る事ができる。世界を形作る主体、世界を形成しているのは「私」である。これはすぐに想像できるだろう。今、この文章を読んでいるあなたにとって、あなたの世界は、あなたなしには存在できないものであろう。そしてその時、私(ヤマダヒフミという人)の存在はあなたの意識内容として、あなたの世界に現れているに過ぎない。私の世界ーーつまり、私が私の世界を形作っているのは、あなたの世界に現れはしないのだ。同様に、私の世界にあなたの世界を形作るあなた、は現れない。現れるのはそれぞれ、偶然的な「ヤマダヒフミ」であったり「あなた」であったりするだけだ。
独我論は語られると嘘になる。何故か。例えば、今、ヤマダヒフミという人(僕)が独我論を語ってみよう。
「実在するのは私だけだ。その他は私の意識内容に過ぎない」
さて、こうして僕が独我論を語ると、当然、あなたは反発するだろう。何故なら、あなたはかっこの中の「私」を「ヤマダヒフミ」と読み替えるからだ。つまり、あなたは「」の文章を読んで、こう考えるだろう。(ヤマダヒフミという奴はなんて身勝手な奴だ。ヤマダヒフミの世界がただ一つの世界だと言うなんて。そんな事はありえない。私には私の世界がある) しかし、この時、独我論に反発するあなたは実はヤマダヒフミが語っているのと同じ事を語ってしまっているのである。何故なら、あなたの世界にとって、ヤマダヒフミは単にあなたの世界の中の一事物に過ぎないからだ。
独我論はこのようにして語りえないものである。では、それはどのように示されるのか。それは丁度、画家の視点と絵画の対比のように現れる。この事を考えてみよう。
一枚の風景画を想像して欲しい。山の絵でも川でもなんでもよい。その時、我々はそこに語られず(描かれず)示されているものを想像する事ができる。それは画家の視点である。画家の視点は、絵画から逆算して想起する事ができる。しかし絵画の内に、画家の視点、そして画家自身は描かれない。たとえ、この風景画に絵を描いている画家自体を描いたとしても、その絵を描いている画家自体は描く事はできない。つまり、描く「手」は描かれるものとは違うものである。
独我論における主体と私はこのようなものである。ウィトゲンシュタインはこう言っている。
「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる」
この場合、独我論とは画家の視点であり、実在論とは絵画それ自体と考えられる。主体は語られず示される。独我論は語りえない。絵画は存在する。実在論における世界も存在する。しかし、その存在を成り立たせている主体は語りえない。