論考に流れ込む一つ目のライン 論理学
まず、論理哲学論考という書物には二つのラインが流れ込んでいると考えてもらいたい。(場合によっては、三つ目のラインが出るかもしれないが) ウィトゲンシュタインはその二つのラインを一つの形にはめ込む事によって論理哲学論考を書き上げた。そしてこの予備知識がない場合、ウィトゲンシュタインの言っている事はどうしてもちんぷんかんぷんになってしまう。
一つはフレーゲ・ラッセルの記号論理学の知識だ。こちらは見えやすい。
元々、論理学の発祥はアリストテレスにある。古代から論理学はほとんど発展しなかったのだが、フレーゲがそこに革命を引き起こした。論理学の基盤を「名辞」から「命題」へと変えた。
今書いたのは光文社版の解説の引き写しである。さて、自分が論理学の領域で重視するのは次の箇所だ。(光文社版の解説より)
「ただし、文といっても疑問文、感嘆文、命令文や仮定法の文などは含みません。論理学が扱うのは直説法の平叙文で、しかも真・偽が明確に決まるもの、すなわち『命題』に限られます。したがって『富士山は日本一高い山である』は真なる命題ですが、『富士山は日本一美しい山である』は命題とは見なされません」
光文社版の解説者はここで、ウィトゲンシュタイン理解の上で重要なキーを投げてくれていた。本来、ウィトゲンシュタインが一般の読者を想定していれば、こういう事は説明しておくべきだったと思う。
重要な事は『命題』というのは論理学における特殊な、純化された文だという事だ。更に大切な事は『命題』は真偽を取り扱う、という事だ。命題は、解説文にあるように、例えば、美の問題は取り扱わない。また、(後述するが)倫理の問題は取り扱わない。
つまり、ここで一つの定式がはっきりとする。ウィトゲンシュタインが最初に「世界とは事実の総体」だという事は、命題という真偽はっきりする領域での話という事だ。「富士山は日本一高い山である」は事実についての文で、真偽が出る。一方、「富士山は日本一美しい山である」は事実に関する文ではなく、真偽が出ない。
ここで、論理=事実=世界という定式がぼんやり見えてくる。この前提を踏まえず論理哲学論考をそのまま読むと、ウィトゲンシュタインという男が勝手な事を独断で言っているようにしか聞こえない。しかしそこにはまず、論理学が扱う事のできる領域が最初に想定されている、そういう前提がある。その領域とは事実の領域であり、それは命題として論理学においては扱われる。
さて、論理学の話はこれぐらいにして、第二のラインを導入しよう。実は、こっちのラインの方が重大である。