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ウィトゲンシュタインとトルストイ2

 ウィトゲンシュタインは哲学を学説ではなく、活動だと捉えていた。これは仏教哲学と同一の態度と考えても良いだろう。哲学を学説としたり、固定化した真理だとする事は、時にその真理そのものに対して矛盾してしまう。マルクスの「学説」を教義化すれば、その固定化により、マルクスの生き生きした真理は変形して、スターリンの独裁主義にまで到達する。真理はそれを不変のものとする事により、正に真理である事をやめてしまう。真理を活動として捉える事は、驚くべき事に、「自身が真理ではない」と言明する事も、その真理自身の内に含む。「論理哲学論考」が、仏教書の「維摩経」が、自己破壊的な性格を備えているのは、それらの真実への究明があまりに激しいからである。「論理哲学論考」や「維摩経」を学説と見るならば、それは真理として正しくはないのだが、それらの書は逆に、真理を固定的なものとして見る事を非難しているのである。哲学は学説ではなく活動であるから、生き生きした実体であるのをやめる事はできない。「論理哲学論考」を書き終わり、十年の間、生活者の一人として生きたウィトゲンシュタインの姿は正に、凝結した真理そのものの姿であった。




 ウィトゲンシュタインはこのように、哲学を学説ではなく活動だと見ていた。ウィトゲンシュタインの目は転回し、無用な哲学的おしゃべりを消失させる。では、消失した先に何があったのか。そこには、「生」そのものがあった。しかし、ウィトゲンシュタインにおいて「生」は語られるものではなく、現に生きられるものだった。その点はトルストイとは違う。トルストイは、「戦争と平和」においても「アンナ・カレーニナ」においても、基本となる哲学を変えていない。トルストイの主人公は絶えず、己を発見し、新たに生活を始めようとする。様々な事があり、主人公は自らの魂を新たに発見する。悪は斥けられ、明確な善が発見される。確かに自分には愚鈍な所も間違っている所もあるのだが、しかし、世界全体に対して「然り」と肯定の言葉を唱えられる、そんな瞬間が最後にやってくる。それは「イワン・イリイチの死」でも変わっていない。イリイチにとっては、それが死の間際にやってくるというだけの事で、相変わらず、トルストイの「然り」という肯定命題は変わっていない。




 ウィトゲンシュタインが追い求めていた生は、トルストイが追い求めていた「生」とそれほど大差ないように思う。世界全体の断面がある瞬間、ほんの一瞬、人生のある場所から見ると輝き渡る、そういう場所がある。ウィトゲンシュタインは己の哲学によってそういう場所を発見しようともがいていた。論理はその為に生まれた舗装路に過ぎなかった。人は論理を通じて、論理でない場所に出てしまう。トルストイ文学においても、あらゆる悪、犯罪、狂気、死が斥けられ、生の歓喜が立ち現れる瞬間というものがやってくる。世界に意味があり、自分が生きる事に完全なる充足が得られる一瞬がある。トルストイは文学においてそうした瞬間を追い求め、ウィトゲンシュタインは哲学においてそうした領域を追い求めていた。




 ウィトゲンシュタインとトルストイの類似点として考えられる事は他にもある。それは神、信仰の問題である。




 「生はいっさいである。生は神である。生を愛するのは、すなわち神を愛することである。生のあるかぎり、神性自身の歓びがある。生を愛するのは、すなわち神を愛することである」(「戦争と平和」)




 「神を信じるとは、生の事実によって問題が片付く訳ではないことを見てとることである。


  神を信じるとは、生が意義を持つことをみてとることである。」(草稿・ウィトゲンシュタイン)




 先に言っておくと、ウィトゲンシュタインは別に神を信じていたわけではない。ウィトゲンシュタインが絶えず、宗教、神に惹かれていた事は確かだろうが、彼が本気に神を信じた事はないと思う。一方で、トルストイの方は神を信じようと祈願していたように思う。しかしトルストイが『本気に』神を信じていたかどうかは難しい。




 さて、両者にとって神の問題は上記のように立ち現われてきた。この時、両者にとって『神』は、人生全体をある観点から照らし出す「視点」のようなものだった。トルストイにおいては神を信じるという事が世界に意味を見出す方法として、「その通りに」信じられようとしている。ウィトゲンシュタインもそれに近いのだが、彼はトルストイに比べれば一歩引いて、神の問題を冷静に考えている。




 ウィトゲンシュタインは若い頃に、ある芝居を見て感動した事があった。その芝居自体は大したものではなかったが、芝居の中の台詞である人物が「私は神を信じているからなにものも恐れない!」と叫んだという。ウィトゲンシュタインはその台詞に非常に感動としたという逸話がある。




 この時、ウィトゲンシュタインをとらえた問題は、神が実在するか否かという問題ではなく「そう信じているから…」という、いわば信仰の有効性の問題だった。「神がいるかどうかはわからない、しかしそれを信じる事は我々には意味がある」という発想をカントは「実践理性批判」で取った。これと同様の問題はトルストイにも、ウィトゲンシュタインにも現れていた。ただ、ウィトゲンシュタインはカントやトルストイのように本気で神を信じようとしていたわけではない。彼は神を信じる事の意義を感じていたのであり、神を信じたわけではない。ウィトゲンシュタインにとって必要だったのは神そのものではなく、「なにもの恐れない」ようになる、世界的観点だった。トルストイはこの観点に、長大な物語を行使してやっとたどり着き、ウィトゲンシュタインは難解な論理を駆使して辿り着いた。この辿り着いた場所を神と呼ぼうが、生と呼ぼうが、「物自体」と呼ぼうが、それは各々の思想家に自由な事だとしか言えないだろう。ウィトゲンシュタインが影響を受けたのは、トルストイやドストエフスキーのように、絶えず世界全体を問題とする思想家だった。ウィトゲンシュタインが語らなかったのは、この思想・倫理の領域であり、秘密主義者である彼は、己がもっとも重大だと考えている事だけは、自分の哲学で吐露しようとはしなかった。おそらく、ウィトゲンシュタインはそれを語らないという事実によって、その重大さを少しも損なわずに済んだのだ。

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