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ウィトゲンシュタインとトルストイ1

 パスカルとウィトゲンシュタインの関係については見る事できたので、今度はトルストイとウィトゲンシュタインの関係を見てみたい。ウィトゲンシュタインはトルストイの愛読者だった。ウィトゲンシュタインとトルストイ文学の間にどのような同一性があるのか、この章では見ていく。




 トルストイとウィトゲンシュタインの同一性として真っ先に思いつくのは、「生の肯定」という事だ。どちらも、生を肯定する事、そこに辿り着くために、超人のような力を発揮している。


 具体的に見ていくと、両者とも、戦争を経験し、そこから帰還したという事があるので、それが共鳴しているのかもしれないが、そういう歴史的事実に関してはこの論では触れない。形而上的に見ていく。


 トルストイの「戦争と平和」に次のような箇所がある。


 


 (主人公ピエールは、フランス兵に捕まり危うく死ぬ所だったが、命からがらロシアに還ってくる)


 「匂いのいいスープをのせて、さっぱりと準備されたテーブルがそばちかくによせられた時、夜やわらかい清潔な寝床に身を横たえた時、もう妻もフランス人もいないのだと思い出した時、彼はこうひとりごつのであった。『ああ、実にいい。実にすてきだ!』


 それから、彼は昔の癖で自問した。『ところで、それからどうなるのだ? 俺はこれから何をするんだ?』けれども、彼はすぐに自答するのであった。『なんでもない。ただ生きるだけだ。ああ、実にすてきだなあ!』」




 「彼は理知の望遠鏡をかまえこんで、はるかな遠いところを眺めていた。そこでは浅薄俗悪なものが、模糊たる遠景の中で没して、いかにも偉大で無限なもののように思われた。(略)これまで人々の頭ごしに眺めていた望遠鏡をすてて、自分の周囲でたえず変化していく、永久に偉大な、補足しがたい無限の生活を、悦びをもって観照するようになった。」 




 主人公、ピエール・ペズーホフは戦争に行き、フランス兵に捕まり、死刑になるのだが、あるきっかけで助かる。そこでピエールは、神を信じている老人の話を聞き、そこから彼の魂の再生が始まる。ピエールはこれまで世界全体にどことなく不満を感じており、そこに浅はかなものを絶えず見つけていた。それに呼応するように彼自身、不幸な人間だった。しかしそれは死に接近するという極限の経験を契機として、反転する。彼は突然、生全体が輝き渡っている事を理解する。彼は望遠鏡を捨てて、自分の目で世界を眺め始める。彼の『生活』がここから始まる。




 「戦争と平和」はスケールの大きい大河小説だと言われる事があるが、それだけとは思わない。「戦争と平和」は「論理哲学論考」と同じく、作者が自身の魂を引っ張りあげ、それを救う為の渾身の力技だったのだと僕は理解する。「戦争と平和」は大きなスケールの一般的小説を書こうと意図されたものではない。それは著者のトルストイがのっぴきならない己の宿命と対峙した時に生まれた作品だった。僕はそう解する。この事は、ウィトゲンシュタインとも共通するだろう。




 「戦争と平和」のピエールは苛烈な経験をして現実に帰ってくる。ピエールにとってかつて現実とは、凡庸で俗悪なものだった。しかし今やそれが全く違う観点の元、彼の目にさらけ出される。現実と呼ばれるものはこれまでのように凡庸で退屈なものではなく、まったく当たり前であり、平明であり、自由であり、美しいものである。トルストイの小説の根底にはこのような声が絶えず響き渡っている。(これは批評家シェストフから学んだ事だ)




 「何という単純で明白なことだろう」




 生は難解でもなんでもなかった。生とは単純で明白なものだった。トルストイは「イワン・イリイチの死」の最後でもこの叫びを主人公に叫ばせている。「何と簡単なのだろう。何と楽なのだろう」 「イワン・イリイチの死」は、主人公のイワン・イリイチが病気にかかり、苦しみ抜いて死ぬというただそれだけの物語だ。しかし、主人公は苦しみ抜いて死ぬ間際に全てが全く平明であり、簡単で、率直である事を理解する。「戦争と平和」と「イワン・イリイチの死」の間には二十年近い歳月が流れている。その間、作者トルストイの思想も変わった。にも関わらず、トルストイの文学の底に流れる『最後の声』はあくまでも、生を肯定しようとして、絶望、死、犯罪、痛み、苦しみをねじ伏せようとするのである。

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