パスカルとウィトゲンシュタイン2
パスカルの哲学において実存主義的な個人が現れてきた。その極限の言語は次のようなものになる。
「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(パンセ)
この時、例え思考が宇宙を包み込むにしても、依然、宇宙と思考(私の存在)は別物だという事が肝要な点だ。ウィトゲンシュタインやカント哲学においては、私こそが宇宙そのものなのである。それらはもはや分離する術は必要ない。そしてウィトゲンシュタイン的観点からすれば、パスカルの哲学は未だに、三人称的領域にとどまっている。つまり、彼はまだ「私」と「宇宙」、「私」と「世界」を分離し、それを突き放したり、整合させたりする事に苦心している。他者との関係もそうだ。「私」と「他者」とは違うものだという前提がパスカルにおいてはまだ破られていない。パスカルはその哲学においては沢山の壁を破ってきたが、ウィトゲンシュタインが越えた壁を越えはしなかった。
ウィトゲンシュタインの独我論からすれば、他者はその哲学の体系に組み込む事ができない。これは哲学の後退ではなく、進歩だと僕は信じる。しかし、自分の中のある前提を破壊しなければ、これは進歩ではなく、後退に見えるはずだ。
他者はウィトゲンシュタインの体系では「理解する事ができない」ではなく、「理解されてはならないもの」である。この場合、独我論の内部に他者は位置づける事はできない。他人の魂を理解する事ができない、のではなく、理解されてはならないのである。ここに極めて重要な転調が起こる。では、ウィトゲンシュタインという男は一体、それを何故、そのように語ったのか? 「私の言葉を、私以外の人間は理解できてはならない」と、何故、ウィトゲンシュタインという男は語ったのだろう? いわば、その哲学において、その言葉を語るという事自体が、哲学体系に対して最大の矛盾であるはずである。「語る」という事はいずれにしろ、他人の理解を願ってなされるものだから。
僕の理解では、正に、そうした「理解されない」という言語が、「理解されない」という形式で理解されるという事こそが、ウィトゲンシュタイン独我論における他者の存在なのである。だから、ウィトゲンシュタインは語った。しかし、ウィトゲンシュタインはこの「語る」という事自体を語る事はできないし、他人の理解について語る事はできない。その言語、一般的な真実は、一般的ではない形で世界に対して開かれている。そしてその「世界に対して開かれている」とは本来、そんな風に言えない問題だ。
パスカル哲学において他人が理解できないものなのは、彼の哲学の体系内に他者が位置しているためである。一方、ウィトゲンシュタイン哲学は厳密さを極めている為、他者は独我論の内部に位置できない。位置できない事をウィトゲンシュタインが知っていながら、見えない他者に語るという事に、パスカルが越えられなかった壁を越えたという、行為そのものが存在する。だが、再三言うように、そうしてウィトゲンシュタインが壁を越えている様は、見る事はできない。あえて言うなら、「私」がウィトゲンシュタインという人物の「私とは理解されてはならない性質のものだ」と言う言葉を見て、それを理解したと感じる時、パスカルが感じていた世界との間の溝は越えられたという事になる。この溝は越えようとして越えられるものではなく、越えられないという事を認識する事によって越えられるタイプの壁なのだ。ウィトゲンシュタインはこのように、僕の理解では、パスカルより一つ大きな認識次元を有していた。