パスカルとウィトゲンシュタイン、それぞれの『私』
パスカルとウィトゲンシュタインの『私』の取り上げ方を対比したい。実存主義を問題にした時に似ているが、僕は、ウィトゲンシュタインの『私』はパスカルの『私』よりも一歩先に進んだと理解している。パスカルの方から見ていこう。
「『私』とはなにか。
一人の男が通行人を見るために窓に向かう。もし私がそこを通りがかったならば、彼が私を見るためにそこに向かったといえるだろうか。いな。なぜなら、彼は特に私について考えているのではないからである」
「そして、もし人が私の判断、私の記憶ゆえに私を愛しているなら、その人はこの『私』を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、私はこれらの性質を、私自身を失わないでも、失いうるからである」
パスカルの『私』についての定義はこれ以上ないくらいに明白である。つまり、『私』にとって『私』は必然的かつ絶対的だが、『私』にとっての他者は、偶然的な存在だという事だ。
これについてはそれほど説明はいらないだろう。私が他者を愛するのは、その偶然的性質、その人の外側に位置する性質、容姿、地位、言動などであり、私が他者を愛する(憎む)のはその人の魂についてではない。魂と呼ばれるものは、各々が自分の中に所有しているだけなのである。
これは、『他者との関わりは一つのゲームである』という考え方を通せばわかりやすいかもしれない。他者の言動は、そのゲームの中では、『そういうもの』として現れてくる。他者が何を考え、本当は何を意図していたか、よりも、その他者がどのような言動を行ったかという事しか、ゲームの内には現れてこない。他者の内面は、いくら頑張っても私には開示されない。開示されたと信じる時、私は自分の内面から他人の内面を類推しているに過ぎない。他者の言動や容姿などは、私の独我論的世界に立ち現われてくる。しかし、他者の内面(魂)は私の世界には決して現れてこない。
パスカルの『私』の定義の仕方は、パスカル自身の孤独な哲学の相貌を暗示している。パスカルの哲学を延長すれば、個々の人間はそれぞれ独立であり、宇宙の中にただ一人孤立している。そのような実存主義的な個人の姿が「パンセ」からは透けて見える。では、ウィトゲンシュタインはどうか。
「しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「『私』が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」(青色本・ウィトゲンシュタイン)
さて、ここで注意して考えてみよう。ウィトゲンシュタインは要するに『私』とは「他人に理解できてはならないものだ」と言っている。これ対して、パスカルは『私』は他人に理解されないし、『私』は他人を理解できない、という事を述べている。
この差は、極めて重大な差である。「他人を理解できない事」と、「理解できてはならないのが他人(私)だ」と言う事の間には、薄いようだが、非常に重大な差異がある。これについて、次章はもっと丁寧に見ていく事にする。