独我論の厳しさ
仏教と同様、ウィトゲンシュタイン哲学においては、主体のあり方によって、世界そのものを(自己の部分として)救済しようとしている。そのあり方がウィトゲンシュタイン独特の独我論となって現れている。
永井均がウィトゲンシュタインを批評する上でかなり卓抜な比喩を案出しているので、今それを使って考えてみよう。
「(略)映画の比喩でいえば、私はたんなる登場人物の一人でもあるのに画面自体を兼ねそなえているからである」(ウィトゲンシュタインの誤診・永井均)
永井均の比喩の意味はーー、人間というものを映画に例えると、映画の登場人物であると同時に、映画の画面そのものだという事である。この比喩は非常に優れた比喩だと僕は思っている。
説明しよう。人間というものが映画の中の一登場人物だというのはほとんど、説明が必要ないだろう。この世界に何十億人の人間がいると、われわれはこの中の一人の人物だと考える事ができる。これは普段我々が自分について考える一般的な思考だ。我々が全体の中でトップであるかビリであるかと考えたり、他人とは目鼻立ちが違うなどと考える考え方は全てこの、「映画の中の登場人物の一人」という考え方として収斂させる事ができる。
さて、ではもう一方の考え方はどうか。実はこちらの方が重大である。こちらーーつまり、人間…いや、『私』が、映画の画面そのものだという事は、ウィトゲンシュタインの独我論とぴったり重なる考え方である。ややこしい事を抜きにすれば、僕達は認識によって世界を形作っている。世界と呼ばれる現象(この場合、映画)は、実は『私』の認識によって形作られている。カントはこれを一般的な人間に当てはめたわけだが、ウィトゲンシュタインはそれを個別的に『私の世界』へと判断を切り替えた。つまり、『私の世界』と『他人の世界』とは比較不可能である。我々ができるゲームは、映画の中の登場人物としてのゲームに限るのであり、画面そのものを構成している我々は決して画面の中に現れる事ができない。われわれは、映画の中で他の登場人物ーー他者を見る事ができる。しかし、他者がどんなスクリーンを持っているか、他者がどんな風に世界を認識し、これを構成しているかというのはわからないのである。他者と自分が比較できないというのは大体そのような意味だ。
この考え方はウィトゲンシュタインの独我論の考え方である。私の世界、というこの時の「私」というのは一般的な世界に立ち現れる私ではない。一般的な世界と呼ばれるものの存在を可能にしている、認識者、視点としての「私」である。ここから僕は、自分の考えについて多少述べようかと思う。
『論理哲学論考』の時点の独我論においては、私=視野であり、その場合その視野に世界が映し出されるから、世界=私であった。これは映画のスクリーンが『私』であるという永井均の比喩に相当する。
この場合、『私』の世界が、世界と呼ばれうるものの全てであり、その外側は語りえないものに分類されているとしても間違いではないだろう。しかし、僕が思うのは、この『私』は、世界の方のあり方によって、その存在を担保されているのではないか、という事だ。
映画の比喩で言えば、『私』は映画のスクリーンであると共に、映画の中の登場人物の一人でもある。しかし、映画の登場人物が誰かに殺されてしまえば、その場合、ただ、僕達が映画を見ている時のように、登場人物の内の一人が死ぬという事では済まされない。その場合、『私』のスクリーンの方も消失してしまう。『私』は映画を構成する者だが、登場人物の『私』が死ねば、映画それ自体も上映不可能になってしまう。
もちろん、この事はウィトゲンシュタインも知っている。だから彼は「死は人生のできごとではない」と言っている。つまり、僕達は自分が死んでしまった姿を見る事はできない。だから、自らの死は、論理空間の外側に位置する。ここに論理の破綻はない。
僕がこの時、問いたいのは論理の破綻や論理の整合性の問題ではない。僕が問いたいのはもっとーー倫理的な、あるビジョンのあり方についての話である。
世界の中に起こる事は全て事実であり、それらに意味付けをするのは『私』という主体である。そしてこの主体のあり方により、幸福な世界か不幸な世界が決定される。しかし、論理が語りえない事は、その『私』の存在自体は、世界の偶然というあり方によって決定されているという事である。私が生きているという事実から論理を進めていき、世界を私の中にーーウィトゲンシュタインが言ったようにーー収める事ができる。世界の中の事実はただそれとしてあり、主体はその世界を生きる。主体ーー『私』が幸福であるならば、死をも恐れない。しかし、それはウィトゲンシュタイン自身の相貌に似て、あまりに倫理的に厳しい自己への要請ではないか。主体の元にあらゆる世界を包含し、どんな苦境の中にも幸福な世界を見出すというのは、自己への極限を越えた倫理的な要請ではないのか。この限界を越えた倫理的要求こそが、僕がウィトゲンシュタインに魅惑される理由であり、同時にそこから離れたいと思う源である。