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ウィトゲンシュタインと仏教

 ちょっと視点を変えてみよう。ウィトゲンシュタインは、仏教と比較される事があるようだ。ネットで調べると、いくつか出てくる。ウィトゲンシュタインが仏教的というのは、自分で読んでいても感じる所だ。では、それはどのような論理的な同一性があるのだろうか。




 「ありうるすべての科学的な問いに解答が得られたとしても、人生の問題はまったく手つかずに残る、とわれわれは感じる。もちろんそのとき、もはやどんな問いも残されてはいない。まさにそのことが解答なのである」


 


 「人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される」




 こうした見方は仏教的だと自分は感じる。道元は悟りと修行は同一だと言ったそうだが、過程それ自体を目的とする事によって、絶えず目的をーーつまり、答えを見出そうとする問いを消滅させるという方法は、仏道の方法論に近いと自分は感じる。(仏教というのは膨大なので、あくまでも自分が知っている仏教の知識と関連させて話している。自分は仏教を宗教というより、哲学として取り扱っている)




 仏教とウィトゲンシュタインの近似性は何より、主体(私)のあり方によって世界全体の問いや疑問を解消させようとする根源的な方法論にあるだろう。仏教における「悟り」とは、自分の調べた感じでは、一般に思われるようないわゆる「悟り澄ました」心境、何事も心を動かさない超人的心境にあるのではない。仏教における悟りとは思考によって徹底的に現実と己を認識し、世界は『空』であると理性的に認識する事にある。また、心をみだりに動かさないという事は、日常における実践的なものとして使用されている。




 主体のあり方によって世界の見え方が変わる事、その事によって世界内の問題を主体的に解消してしまう事、この事は仏教哲学とウィトゲンシュタイン哲学に共通の事のように感じる。ただ、その結果、それらの領域においては、「いかに経済・社会・政治をよくしていくのか」という問題が除外されたように感じる。(日蓮は逆に考えたらしいが) 別にウィトゲンシュタインや仏教哲学は経済や社会の問題を軽視しているわけではないが、それらの問題を良くする事により幸福が得られるのではなく、幸福は自己の、主体的な視野のあり方によって決定されると考えられているから、必然的にそれらの問題はどこか遠くへやられるという事になってしまう。そして社会や経済に目を向ける人間はそれによって幸福が得られると夢想しているのだから、これらの哲学とは相反するとも考えられる。




 この事については次章で検討していこうかと思う。政治や社会の問題は、『世界の中の私』というあり方に収斂され、ウィトゲンシュタインや仏教などの、哲学・芸術・倫理などの部門は『私の中の世界』というあり方に収斂される。ウィトゲンシュタインは外的な事実の変化ではなく、主体(私)のあり方によって世界を救おうとしていた。それはどんな事なのだろうか。



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