ウィトゲンシュタインと他者 3
一つ戻って、もう一度他者の問題を考えてみよう。ウィトゲンシュタインの哲学において仮に、他者の問題を位置づけるとしたら一体、どこに位置づければいいのか。他人に心がある、という僕らが普段当たり前に考えている事を、どう考えていけばいいのだろうか。
野矢茂樹のように、ウィトゲンシュタインの哲学の体系内にそれを導入するとおかしな事になると自分は言った。それでは、どうすればいいのか。自分が想起するのは、カント哲学における『実践理性批判』の領域である。カントは、純粋理性批判では神の存在や魂の不死という問題は論理から追い出したが、その後、「要請」という形でそれを取り戻した。「要請」というのは、理屈から考えると、そういうものがあると考えるのはおかしいが、自分達が生きていてく上で便宜的にそう考えましょう、要請しましょう、というほどの意味である。他者の問題をウィトゲンシュタインと合致させるには、そのように考える他ないように思う。
「神の存在を確信をもって信じることができるなら、他人の心の存在も信じることができるのではないか」(反哲学的断章)
他人の心を信じる事は神の存在を信じる事のように、論理を越えた場所にある。仮に、ウィトゲンシュタインが彼の『実践理性批判』を書いたとしたら、彼はそこで他者の問題を論じただろうが、ウィトゲンシュタインは「語りえない事」については頑固に沈黙を守った。その事は別に、それを否定したわけではない。彼はカントとは違い、語りえない事については沈黙する事を選んだ。
だが、そもそも独我論を正しいとする『論理哲学論考』という本が何故、出版されたのか? という事自体が、この問いに対する見えない答えだと考える事ができるだろう。ウィトゲンシュタインは、語りえないものに区分した他者に向かって、他者の理解に向かって、『論理哲学論考』という本を出版している。少なくとも、彼はその本が出版され、他人に読まれる事を希望した。その場合、彼は他人の論理空間というものを信じていたと見る事できるし、そう想定しなければ、そもそもこのように体系的な書物が書かれる事すらなかったはずだ。つまり、『論理哲学論考』という書物が『我々』の目の前にあるという基本的な事実こそが、論考にとっての他者だと見る事ができる。だがもちろん、本はそれを読むものについて語る事はできない。本は読むものに対してただ開かれているばかりだ。そして我々がこれを読み、共感し、理解するという事実に、哲学の内部に組み込まれなかった出来事が語りえず、示されている。もちろん、論理哲学論考の著者はその事を知っていた。知っていたからこそ、彼は出版を意図した。彼はカフカのように、書物を灰にしようとはしなかったのだ。