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実存主義とウィトゲンシュタイン

 こうした、ウィトゲンシュタインの「私」への言及法を僕は永井均の解説を通して、自分なりに理解した。その理解を延長して考えると、ウィトゲンシュタインの特殊な独我論は、実存主義を一歩越えるものではないかという考えが浮かぶようになった。


 


 ただ、実存主義という言葉自体は、かなりいい加減かつ曖昧なものだ。僕はとりあえず、実存主義を一般的かつ、曖昧な基準のままに想定する事にする。実存主義という事で僕がイメージするのは、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキーなどだ。実存主義は、世界の本質、規則、理性に対して、自己の実際的な生を優先させるものだ、ととりあえず学校の勉強的に定義しておこう。




 さて、この時、ドストエフスキーやキルケゴールなどの実存主義的なものは、明らかに世界に対して、自分というものを対立させて考えている。パスカルも同様である。ドストエフスキーの小説に出てくる登場人物は、互いに、それぞれによる定義に対して反抗しようとする。他者の理解を食い破ろうとするために、彼らは彼らが意向している事の真逆の事をしてしまう。「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフは、自分に対する定義の当てはめ、定式化に対して我慢できない。ドストエフスキーの小説には心理学全般に対する憎悪がかいま見える。ドストエフスキーの登場人物は、人間をそのように公式に当てはめるのは不可能だという真理を体現しようともがいて生きている。




 パスカル、キルケゴールの例について考えてもいいのだが、長くなるので省こう。いずれにしろ、実存主義というのは、世界に対して自己を、あるいは真理、規則に対して己の主体的な生を対立させている。そのように考えてもそれほど不自然ではないだろう。この場合、主体的なものが、真理に抗して重大である、という公式が見える。もちろん、主体なるものを一度公式化してしまえば、それはまた実存主義でもなんでもないものになってしまう。実存主義は実は、こうした極めて危険な場所に立たされている。それが公式化されるのを拒否して、主体的な生を肯定している以上、その生自体を公式化する事は正に、実存主義に反する事になってしまう。(もっとも、これが主義の名を与えられた瞬間、それは実存でもなんでもないものだと見るのは正当な見方だろうが)




 では、これに対してウィトゲンシュタインの独我論はどうだろう。ウィトゲンシュタインの独我論は実存主義以上の実存主義とも言える。後期に至れば、ますますそういう観点が増大してくるように思える。しかしウィトゲンシュタインは明らかに実存主義者ではない。彼には対立するものが存在しないため、実存主義という感じがしない。




 ウィトゲンシュタインの独我論にはどうして対立するものがないのだろうか。ウィトゲンシュタインの観点からすれば、実存主義は何かを誤解している。つまり、そこで実存主義がいかに主体的な生を肯定していようとも、それは三人称的立場に立った観点を外れていない。つまり




 実在   →    本質       /     主体    →    真理


   


 のように、大抵は何かと何かを対立的に捉えてしまっている。しかし、ウィトゲンシュタインの独我論は、そうではない。ウィトゲンシュタインの立場からすれば、そういう対立を可能にするものこそが「私」の存在なのだ。そして私とは、存在と言う事はできない、一つの視野である。つまり、無理矢理、図に書くと




   〈 A    ⇔    B 〉


          ↑


          ↑


       (語りえない私)




 という事になる。


 この場合、もちろん、この図自体も、図という定式化を犯してしまっているので本当は間違っている。僕はこれまでこの論の中で、何度か主体という言葉を使ったが、それは視野としての、語りえないものとしての(主体)であるから、普通の実存主義の主体とは違うものである。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言ったそうだが、これを言う時、この言葉自体が公式となってしまっているかどうかにサルトルが気づいていたかどうかという事が、ウィトゲンシュタイン的には重大な問題だと言える。何故なら、実存が本質に先立とうが、本質が実存に先立とうが、そういう言葉自体が、新たな公式、新たな「本質」として僕らの前に現れざるを得ない事は確かだからだ。ウィトゲンシュタインが独我論は語りえず示される、と言う時、彼は、独我論は語られれば嘘になるタイプの真実だと明白に認識していた。一方で実存主義はつい、己の真実を『語って』しまう。ウィトゲンシュタインと実存主義の間には、このように微妙かつ、重大な差があるように僕には見える。それは、実存主義は未だ二次元の平面に浮かんでいるが、ウィトゲンシュタインは三次元の立体的な構造の中にいるようなものだ。しかし、人はその根底的な構造から世界を『二次元的』にしか捉えられない。だからこそ、ウィトゲンシュタインは『語りえない』という形で、彼の立体的な構造の哲学の最後の柱を構築する。それは見えず、語りえず、示されるものという形でこの建築を支えている。この不思議な構造の自覚こそが、ウィトゲンシュタインが過去の哲学者の中で一段と奇妙で、優れた哲学者である理由であるように僕には思われる。

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