ウィトゲンシュタインと他者2
先に書いたように、野矢茂樹はウィトゲンシュタインの哲学の内部に「他者」を導入しようとしているようだ。しかし、この問題を自分は全く逆に捉える。また、逆に捉えなければならない、と考える。それは論理的に正確か否か、というよりは、もっと大きな問題に通じる事柄だと考えている。
野矢茂樹が間違っていると思うのは、ウィトゲンシュタインの独我論を、一般的に捉えてしまっているという点にある。例えば、独我論を語る相手が目の前にいるとする。この人物の名前が、「ウィトゲンシュタイン」だとする。すると、ウィトゲンシュタインの独我論を聞く人物は、ウィトゲンシュタインという男が「自分の世界が全て」と言っているように聞こえる。独我論が息苦しく、他者を欠いているように見えるのは、そういう見方がどこかで残存しているからだ。独我論だって? でも、他者はいるではないか、確かに、というわけだ。でも、その「確かに」は論理的に正確に表せない。
ここで見方を変えてみよう。永井均の立場に勝手に立ってみる。ある人にとって「自分勝手」「引きこもりがち」「他者排除」と見えるような哲学に出会い、永井均は感動した、と言っている。「ウィトゲンシュタイン入門」によれば、それまで永井均は現象学や実在哲学の本を漁っても、そこに自分の知りたい事が書いていない事に失望していた。それらの哲学は永井にとっては、「かゆい足を靴の上から掻いているような物足りなさ」に過ぎなかった。そういう時に、永井均はウィトゲンシュタインの上記の文章に出会って感動したのだった。
自分の理解では、この時、永井均はウィトゲンシュタインの言葉を正に『私の言葉』として聞いたのだった。この『私の言葉』というのが、自分の、野矢茂樹に対する批判ポイントであり、また同時に、永井均に共感するポイントである。永井均はウィトゲンシュタインの言葉を他者排除の言葉とは捉えなかった。それは永井均という一人の人間にとって(おそらくは)正に、彼自身の言葉、彼自身が発しなければならない言葉として響いたのだった。そしてこの事こそが、本当の意味での他者を存在させる言語なのである。つまり、あらゆる他者を排除する一つの言語があり、それは独我論と名付けられた。一般的に考えればそれは身勝手な、独りよがりの理屈に見えるが、これは一般的観点に立脚した見方に過ぎないのである。私とは何か、という問いの中には、「私」が社会的にも、一般的にも位置づけられない領域があり、その言葉としてウィトゲンシュタインの独我論は現れてくる。この言葉を、耳のある人間が聴けば、それは「私の言葉」と聞こえるのである。
『他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである』
この言葉をもう一度見てみよう。ここで言われている「他人」とは誰なのか、「私」とは誰なのか。この事を真剣に考えてみよう。この時、これを言っているのはウィトゲンシュタインという過去に実在した一人の男である。おそらくは。では、この「他人」というのはウィトゲンシュタイン以外の人間なのだろうか? 野矢茂樹の言う通り、論理空間(自分の世界)を変化させるのが他者なのだろうか? 僕には答えは全く、逆に思える。他者と呼ばれる存在はあくまでも、「私」の世界における一事実に過ぎない。
「歴史が私にどんな関係があるというのか。私の世界が最初の、そして唯一の世界なのだ。」(草稿)
この言葉も同様である。普通、この言葉を人は「歴史軽視」「歴史無視」という風に受け取るだろう。これはウィトゲンシュタインの独我論を「他者軽視」と受け取るのと全く同じ観点に立っている。しかし、本当にウィトゲンシュタインが問題にしている事はそうではない。過去に、ウィトゲンシュタインという一人の男がおり、その男が語った真理は独我論であった。ここに、二様の見方が成立する事ができる。一つは、その真理はウィトゲンシュタインという男(あるいは一般的な一人の人間)に当てはまるという見方。もう一つは、その真理は正に「私の真理なのだ」と見る見方。そしてウィトゲンシュタインという男が真に偉大なのは、後者の方の言語を最初に語ったのがたまたまウィトゲンシュタインという男だったからにすぎないと、彼自身知っていたからである。我々はウィトゲンシュタインの言語を読む時、それを正に『私の言葉』として聞く。この時、我々の内部で、ウィトゲンシュタインとか、ヤマダヒフミとか、永井均とか、その他、様々な固有名詞が消失する。その消失により、この言語は本当の意味で、他人の論理空間に現れる事になる。しかしそれは依然、語りえない類の真実なのである。