現実へと、逃げる ―― ヘクト⑨
水月に戻ったノゾミは、ヘクトの部屋の前で彼女を待った。
何故、私は彼女を止めたのだろうか。
いや、行かせたらエクリプス、この場所が無くなっていたかも知れない。
私は……自分の居場所の為に彼女の感情を犠牲にしたのだ。
違う。
理由がわからない。
それを言ってくれれば、私も一緒に殴り込んだかも知れない。
……それは、私達がアラタとミカにした事と変わらない。
そんな風に内省をしながら。
しかし、どれだけ待ってもヘクトは現れなかった。
◆
……しんどいな。
現実に戻った私はそのまま暫く動かなかった。
いや、動けなかった。
目の当たりにした光景は、吐き気を催すような悪趣味な物だった。
でも、仮想世界という場所は、人の欲望を露わにする側面もある。それは、分かっているつもりだった。
思えば、楽園は平等だったな。
全てのプレイヤーに殺す権利が与えられていた。
そして、殺されたプレイヤーはそれを免罪符に復讐に走る。
因果応報。
いや、きっとそう言うプレイヤーばかりだったのだ。
同類の集まり。
薄く、単純で、純粋な世界。
比べてこのゲームはどうだろう。
NPC。プレイヤーと違う存在。
しかし、それはプレイヤーと同じく、考え、意志を持って行動する様に見える。
ただ、両者の間には圧倒的な不平等が存在する。
一つの命で一つの世界を生きるNPC。
望めばそんな存在を簡単に虐げ、そして、いざとなれば元の世界へ逃げれるプレイヤー。
そんな二者が共存している、綺麗な様で、残酷なまでに醜い世界。
そんな世界で、私は、昔と同じように殺し、殺され……そう言った輪廻に戻って行った。
見つけて追いかけた姿は、幻でしか無くて……。
駄目だな。
もう止めよう。
このまま、全てをなかった事にして、誰にも会わない。
シャワーを浴びるため、重い体を持ち上げた。
◆
夢を見た。
私の夢。
また逃げるの?
そう、シルエラが言っていた。
◆
昼過ぎに起きて、家事をして、明日からの仕事に備える。
そうやって、以前と同じ様な休日は過ぎて行った。
そして……ベッドに座り、一つ、心を決める。
これでも大人だしな。
最後にノゾミに挨拶してこよう。
そして、謝って。
それで、終わりにしよう。
気分は最悪だけど、悪い事ばかりではなかったな。
今度ゲームをするなら殺す事の無いゲームにしよう。
そうだな、美男子に囲まれてチヤホヤされるやつとか。
五年前、そう、シルエラの時は逃げて……それで終わりになった。
今回は、ちゃんと仲間に別れを言おう。
◆
一階に下りるとクレイグが新調したソファの一部になって居た。
「痛ぇ!」
向う脛を思いっきり蹴っ飛ばしてやる。
「ああ、あんたか」
アイマスクを外しながら眠そうな声で言う。
「昨日さ、私を撃ったの、アンタ?」
「悪気があった訳じゃ無いからな?」
両手を上げながら肯定するクレイグ。
「どうやった?」
矢は叩き落としたのに。
「秘密」
腹立たしい。
死ね、そう言いかけ止める。
「……あんま、ノゾミに迷惑かけるな」
もう、私は輪廻から下りたのだ。
「そりゃお互い様だろ?」
「私は……そうね」
そうなんだろうな。
爆破された一階は完全に元通りになっていた。
カウンターに回り、新調されたサイフォンでコーヒーを淹れる。
「飲む?」
カウンターに座って、落ち着かなそうなアラタに尋ねる。
「いえ、結構です」
「そ」
じゃ、自分の分だけ。
程なくして、コーヒーの香りが店内に立ち込める。
良い香り。
カウンターに立ってそれを口にしながらアラタに話しかける。
「ノゾミって怖いよね」
「……そうですか?」
意外そうな顔をするアラタ。
そうか。
ノゾミの怖さは、当人にはわからないか。
「頑張れ。若者」
私は、そう笑いかける。
アラタは更に困惑した顔をした。
そこへ丁度ミカが下りてくる。
「ノゾミが心配してたけど大丈夫? 会った?」
「まだ。でも、大丈夫」
「そ、なら良いけど」
そう言って、アラタの横からカウンターの上に小さな箱を置くミカ。
「はい、義理チョコ。有難がって食べな」
「え、あ、ありがとう」
「本命、もらえると良いね」
そう言ってニヤリと笑うミカ。
完全にからかわれてるな。
「ほ、本命とか興味ないし」
何だ、その返しは。
若者よ……。
「ホラ、そこのクソジジイも」
そう言ってクレイグにも箱を投げつける。
「おー、お返しは下着で良いか?」
「死んで」
相変わらず最低だ。
「ついでに、ヘクトに」
そう言ってカウンター越しに小箱を放り投げてくる。
「私も?」
「友チョコよ」
「へー」
気が利くな。
これが女子力か。
「鉄分、いっぱいだから」
違った。餌付けだ。
「そうか、友チョコか。しまったな。私、誰にも用意してないや」
その言葉に、アラタが更に怪訝そうな顔をする。
それに気付いたミカが一言告げる。
「ヘクト、女の子よ?」
「うぇぇぇ!??」
その声は、昨日の叫びより大きかったかもしれない。
◆
暫く待ったけれど、ノゾミとマーカスには会えなかった。
仕方ない。
別の日にしよう。
私は部屋に戻り、朝、ノゾミが送ったメッセージに返信する。
『また、顔出します』
と、一言だけ。
そして、ログアウトする前にミカのくれた小箱を手に取る。
これをくれた、ミカと同じような年の子達が、何人も……地下に捉えられていた。
本当なら、こんな風にミカと同じように普通の日常を送って居たはずなのに。
あのままで、良いの?
……もう、私に出来る事は無い。
それに、殺意はただの私の我儘。
あそこに居たのは、暗闇に閉じこもって居た過去の私。
『普通』、その日常からいつの間にかはじき出されて居たあの頃の私。
だから、その復讐。
そう。そうなのだろう。私が勝手に過去を重ねただけ。
赤い世界で上書きした筈の感情。
戻ろう。
現実へ。
ノゾミ達に迷惑はかけられない。
掛けたく、無いのだもの。
しかし、それに待ったを掛けるように通信が入る。
「……はい?」
『あー、今、平気? 忙しい?』
「えっと、ログアウトしようとしてた所」
『え? 何で?』
「何で?」
『……えーっと、転移持ってる?』
「持ってる」
『じゃ、ハマルに今すぐ来て』
「は? はあ」
何だ? 唐突に。
『すぐ来いよ!』
「わかった」
◆
転移で景色が変わる。
そして、目の前に赤い髪の女の子。
スカートは、履いてない。
「どうしたの?」
「……」
「え、何? 呼び出しておいて」
そこで、相手、ハルシュは小さく溜息を吐く。
「はい」
そして、小さな箱を取り出し私に差し出す。
「……なにこれ」
「……チョコ」
「……」
そのどうしようも無く能天気な行為に、私の感情は崩壊した。




