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Soul of Beast -獣の魂を継ぐ者-  作者: 聖天蒼狼
第一章 獣化編
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北神家の獣

狼矢が去って数分後、警察が来る数分前の狗哭公園。黒狼の闇獣の体の大半は砂へと変わっていたが、頭部だけがまだ形と機能を残していた。そこに、一つの影が歩み寄って来た。闇獣は残った視覚で近付く影を睨み付けた。その影は二メートルは悠に越し、丸太のように太くがっしりとした手足、長い尻尾を持っていた。闇獣は怒りとも恐れとも取れる表情で自嘲の笑みを浮かべた。そして、闇獣の視界は深い海の底に沈むように、静かに暗転していった。


「……。」

その影は虎の獣人の姿をしていた。彼もまた闇獣を倒さんとする者ではあるが、到着が些か遅れてしまっていた。ただ、幸か不幸か自分とは別の何者かが、闇獣を倒してくれていたようだ。骨折り損だと言わんばかりに、虎の獣人、『虎人こじん』はボリボリと頭を掻いた。

「何処の誰かは知んねぇが、倒してくれたことには、まぁ感謝しとくか。」

「先、越されちゃったね。」

虎人の頭の中に声が響く。少し幼さが残る男性の声だ。

「どうする? 倒してくれた獣人を探す?」

「礼を言いにでも行けってか? 冗談。俺達の味方だろうとは思うけどよ、素性もどんな獣人かも分からねぇし。第一、人間になったら尚のこと分からなくなるだろ? 探すだけ無駄だって。それに、ここにもう闇獣は居ねぇんだ。なら、とっととずらかるぜ。」

太い肩の関節を鳴らし、虎人は狗哭公園を後にした。


一方、初陣を終えた狼矢は屋根伝いに住宅街を走り抜け、早々と自分の家に戻って来ていた。ベランダに降り立ち、そろりと自分の部屋の窓を開け、帰宅を果たした。

「はぁ……、疲れた……。」

帰って来たことで緊張の糸が切れ、狼矢はベッドに俯せで寝転がった。獣人化し身長が伸びているせいか、足首辺りがはみ出していた。

「初陣にしては中々良い戦果であったぞ。」

頭の中でガルシュが先程の戦いを称賛した。その刹那、狼矢の体が光り、狼の獣人から人間の姿へと戻っていった。

「あれ……、戻った……?」

起き上がり、狼矢は自分の手を視界に捉えさせた。数時間振りに見る人間の手だ。そしてその視界の隅に、何かの影を捉えた。獣人の高い暗視能力が失われている為か、シルエットしか分からない。狼矢は立ち上がり、照明のスイッチを入れ、部屋の灯りを付けた。改めてその影の方へ視線を向けると、そこには銀狼ガルシュが座り、こちらを見ていた。狼矢はガルシュに向き直る。

「やれそうか?」

ガルシュが試すように問い掛ける。狼矢は小さく頷く。まだ不安が残っている表情ではあったが。

「戦いは経験が物を言う。多くの経験を積み、学び、己の力としろ。良いな?」

「あぁ、分かった。……えっと、ところでガルシュ。」

「む? 何だ?」

すると狼矢はガルシュに近付き、両膝を付き、土下座をした。

「お願い! 一回、モフらせて!」

「は、はぁ? も、もふ……、何だって?」

「モフモフ、つまり、だ、抱き締めさせて!」

狼矢にとって、大型犬を飼うということは、叶えたい夢の一つなのだ。これからガルシュは自分の家に、居候という形で住むことになるだろう。ということは、形は違えど狼矢の夢が叶うことになる。仮に別の場所を住処としていたとしても、間近で狼を観察し触れられるチャンスは滅多に無い。狼矢はここぞとばかりに、ガルシュに頼んだのだ。

「……我にそのような趣味嗜好は無いぞ。」

ガルシュの冷めた視線が痛い。

「一回だけで良いから、頼む!」

狼矢は土下座したまま懇願する。するとガルシュは小さく溜め息を付いた。

「……まぁ、これから貴様に世話になる身だ。貴様の我が儘の一つや二つ、甘んじて応じてやろう。」

「ほ、本当か!?」

狼矢はバッと顔を上げる。ガルシュは視線を逸らしてした。表情からは呆れの色が窺えたが、狼矢はガルシュの言葉に甘え、腕を首に回した。表面は多少土埃で汚れてはいるが、艶やかな銀色で、手触りも多少ザラザラとしているが、触り心地はとても良い。しかし、少し手を獣毛深くに入れると、フワッとした毛が密集している。所謂下毛、アンダーコートと言われるもので、寒さから身を守る為の冬毛である。狼矢は頭から背中、胸、前脚、尻尾と隅々まで堪能し、満足している様子だった。

「改めて触るけど、お前の毛の手触り、なかなか良いなぁ。」

「む、そうか。そう言われると、悪い気はせぬな。」

ガルシュは満更でもない様子であったが、狼矢の一言が空気を一変させた。

「俺、お前くらいの大きさの『犬』を飼うのが夢だったんだよ。こういう風に触ったり撫でたりして……。」

「……貴様、今何と言った?」

「え? お前くらいの大きさの『犬』を飼うのが夢って……。」

ここで狼矢は気付く。ガルシュの体が小刻みに震えていることに。そして次の瞬間、

「ほう……、我を『犬』と称すというのか、貴様は……!」

ガルシュがギロリと睨み付け、狼矢に噛み付こうと牙を剥いた。

「!?」

慌てて狼矢はガルシュを離す。ガルシュは怒りの形相で狼矢にゆっくりと近付く。

「ちょ、ちょっと、ガルシュ……?」

「我は……、我は誇り高き狼族ぞ!! 犬と称すとは、侮辱も甚だしい!!」

「い、いや、お前くらいの大きさの犬って言っただけで、お前を犬扱いした訳じゃ……。」

ガルシュの威圧感に圧され、尻餅を付きながら狼矢は取り繕った。が、今のガルシュに聴く耳など持ち合わせていなかった。

「問答無用!! 狼矢、そこに直れぃ!! これから我が、狼族の誇りとは何たるかを、骨の髄までみっちりと教示してやろう。」

流石にまずいと思った狼矢は慌てて部屋を出た。ガルシュはすかさず狼矢のズボンの裾に噛み付き、引っ張る。バランスを崩した狼矢は倒れ、脱出は失敗に終わる。廊下を這って部屋から離れようとするも、ガルシュが背中に乗り、いよいよもって万事休すだ。

「さぁ、覚悟は良いか?」

「ちょ、ちょっと待てって……。」

「お兄ちゃん?」

ガルシュに部屋へ連れ込まれようとした時、一階から声が聞こえ、誰かが上がってくる足音が聞こえてきた。

「ま、まずい……! ガルシュ、早く部屋に隠れて……!」

「なっ、貴様、まだ我の話は……!」

「いいから!!」

狼矢は起き上がり、ガルシュを抱えて部屋に入れドアを閉めた。と、ちょうどその時、

「お兄ちゃん、帰ってたの?」

少女が階段から顔を覗かせた。

「よ、よう、結衣ゆい、帰ってたのか。」

狼矢は部屋のドアを背にして少女の問いに答えた。彼女は北神結衣、狼矢とは二つ下の妹だ。

「私もお母さんも、それにお父さんもとっくに帰ってきてます。もう、帰ったら帰ったって言ってよね。」

「わ、悪い悪い。」

「というか、何で上半身裸で、ボロボロのジーンズなんか履いてんのよ。お兄ちゃん、そんな趣味あったっけ?」

「んな訳あるかよ!」

狼矢の対応は何処かしら焦りが見え、部屋のドアの前から一向に動こうとしない。結衣は不審に思い、狼矢に近付く。

「お兄ちゃん、何か隠してる?」

「い、いや、何も……?」

狼矢は咄嗟に目を逸らしてしまい、怪しさが増してしまう。結衣は更に狼矢に詰め寄る。

「嘘。さっき、誰かと話してる声聞こえてたもん。」

「いや、だからそれは……。」

「もしかして、部屋に誰か居るの?」

「い、いや、居ない……、よぉ!?」

居ない、と取り繕うとした瞬間、狼矢の重心が後ろに傾き、部屋のドアが開き、同時に背中から倒れてしまう。

「いってぇ……。はっ!!」

起き上がろうと目を開けると、逆さに映る銀狼の顔があった。

「フン、あれで我を閉じ込めようなどと、考えが浅はかであったな。先の貴様の開き方を我が見ていなかったとでも思うたか!」

どうやらガルシュはドアノブに噛み付き、器用に回したようだ。ドアに背中を預けていた狼矢が後ろに倒れてしまったのも頷ける。だが、今は感心している場合ではない。

「お、お兄ちゃん……、今……。」

結衣は驚き、顔を強張らせていた。マズイ、非常にマズイ状況だと狼矢は確信していた。

「しゃ、喋った……、よね……?」

「い、いや、その、こいつは……!」

「む? この人間の女は何者だ?」

ガルシュも気付き、結衣に視線を向けたその瞬間だった。

「キャアァーー!!」

結衣は悲鳴にも似た声で、ガルシュに近付いた。怖がって出した悲鳴、というより、

「ねぇ、貴方名前は?」

「わ、我はガルシュと申す……。」

「ガルシュ……、良い名前! ねぇねぇ、貴方狼でしょ? うわぁ、もう超格好良いー!! この綺麗な毛とか、もう最っ高!!」

歓喜の叫び、と言った方が正しいだろう。そして、感極まったのか、結衣はガルシュの了承無く、ガルシュを抱き締めた。

「な、何をするか!?」

「もう、こんな格好良い子が来てるなら、私にも紹介してよねー。」

狼矢は起き上がり頭を掻く。

「はあぁ、この毛のボリュームも手触りも最高……。」

「えぇい、纏わり付くでないわ!! 狼矢、此奴は一体何者だ!?」

「あ、あぁ、俺の妹。俺以上に動物が好きなんだよ。」

狼矢はこの状況が予測出来ていたかのように溜め息を吐いた。結衣は世間一般で言うところのオタクだ。動物、俗に言うケモノというジャンルのオタク、ケモナーである。かく言う狼矢も大概ではあるが、結衣はそれ以上だ。

「そ、そうであったか……。えぇい、いい加減離れんか!!」

これ以上触れ合わせたなら、ガルシュの堪忍袋の緒も切れかねない。そう感じた狼矢は、

「結衣、ちゃんと説明するから、今はガルシュを放してやってくれ。」

と結衣を制した。

「はーい。じゃあ、私リビング行ってるから、ちゃんと連れて来てよ。」

「あぁ、分かってる。」

「また後でね!」

結衣はガルシュに手を振って、狼矢の部屋から出た。結衣が去った後、二人は大きな溜め息をついた。


着替えを終えた狼矢は、ガルシュを連れて一階のリビング前までやって来た。が、当のガルシュは乗り気ではない様子だ。戦いを終えて早々、二人からのスキンシップが影響しているのは明白だった。

「大丈夫だって。それにちゃんと説明しないといけないだろ?」

狼矢は小声でガルシュを説得する。

「……これも我が獣界の為だ。我慢しよう。」

「じゃあ行くよ。」

狼矢はドアを開け、リビングへ入る。

「おっ、狼矢、おかえり。」

先に口を開いたのはソファーに座り、新聞を広げている男性だった。

「ただいま父さん。今日は早かったんだね。」

父の狼介ろうすけは、獣皇じゅうおう大学に在籍している准教授だ。動物の行動理念や秘められた力を研究していて、狼矢にとって憧れであり目標の人である。

「あぁ、今日は論文の進捗が良くてな。早めに切り上げてきた。」

「そっか。……ほら、来いって。」

狼矢は手招きをしてガルシュを呼ぶ。ガルシュは小さく溜め息を吐き、リビングへ入った。

「む……。」

「ん、狼矢、その子は……?」

「今日から居候することになったガルシュ。ほら、挨拶。」

狼矢が促す。ガルシュは渋々口を開いた。

今日こんにちより、世話になるガルシュと申す。以後、見知り置きを……。」

深々と狼介に向かって頭を下げる。暫くガルシュを見つめ、固まっていた狼介は新聞を畳み、ガルシュに近寄る。

「ねっ、言ったでしょ? 喋る狼が来てるって。」

台所から結衣の声が聞こえてきた。結衣は母親の真由美まゆみの手伝いをしていた。

「ははっ、結衣の言った通りだな。初めましてガルシュ君。狼矢の父の狼介だ。宜しく。」

狼介は片膝を付き、右手を差し出す。が、狼介の目線はガルシュを向いていない。初対面の犬との挨拶の基本である。目線を逸らし、自分の匂いを嗅がせ、敵意が無いことを示しているのだ。

「我にそのような気を遣う必要は無い。貴殿等に敵意が無いことくらい、承知している。」

だが、ガルシュは普通の狼ではない。言わば、人間のような狼なのだ。

「そ、そうか。それじゃあ宜しくな。」

狼介は優しくガルシュの頭を撫でた。

「……貴様といい父君といい、撫でることに関しては手慣れておるな。」

「そりゃあ、父さんは大学で動物の扱いには慣れてるし、俺もその父さんの背中を見て育ったんだし。」

狼介は息子の言葉に、嬉しいような照れくさいような笑いを溢した。

「しかし狼矢。訳はちゃんと話して貰うぞ。」

狼介はガルシュを撫でる手を止め、狼矢をじっと見る。狼矢の表情から隠し通そうという気は微塵もなかった。狼矢はゆっくり座り、台所に居る二人に聞こえるように話し始めた。


「……と、そういう訳。」

時間にして大体二十分程度だっただろうか、狼矢は終業式が終わった後から今まで起こった出来事を話した。ガルシュとの出逢い、獣界の存在、二つの世界の危機、その元凶たる歪みの力によって現れる闇獣、そしてその闇獣を倒す役割を担い、獣人の力を得たこと、その全てを話した。勿論、全て包み隠さず話すことはリスクが高いと予想していた狼矢は所々をオブラートに包んで説明した。暫しの沈黙の後、最初に口を開いたのは、

「ということは、お兄ちゃん、狼になれるようになったの!?」

台所から足早に戻ってきた結衣だった。これもまた狼矢の予想していたことであった。

「獣人と成ることを『獣化じゅうか』と呼ぶが、それには我の力と月の光が必要となる。」

「だから、なれるって言っても夜だけだよ。」

ガルシュの説明に狼矢が補足を加える。

「ねぇお兄ちゃん、ご飯食べた後……。」

「駄目だ。」

「えー! まだ何も言ってないじゃん!!」

「どうせ、『ご飯食べた後、狼になって見せてよ!』とか何とか言うんだろ?」

狼矢の言葉に、結衣は少し口を尖らせる。どうやら図星のようだ。

「お兄ちゃんのケチ。」

「ケチって何だよ、ケチって。」

「二人ともやめなさい。」

口喧嘩に発展しようとしたところを狼介が止め、視線を狼矢に向ける。

「事情は分かった。狼矢、これから大変になってくるだろうが、これはお前に任された仕事だ。しっかりやりなさい。」

「うん。分かってる。」

「ガルシュ君、うちの息子を頼んだよ。」

「貴殿の頼み、しかと受け取った。全霊を以て果たさせて頂く。」

ガルシュの言葉に小さく笑い、狼介はガルシュの頭を軽く撫でた。

「さっ、三人共、ご飯が出来ましたよ。」

母、真由美は既にテーブルに食器と料理を並べ終えていた。三人は立ち上がりテーブルへと向かう。が、狼矢は足を止め、ガルシュに振り返る。

「ガルシュ、お前、飯は?」

「我のことは気にするでない。我は三日食わずとも平気だ。」

「……そういえばお前、普段何食べていたんだ?」

狼矢はふと疑問に思ったことをガルシュに問うた。すると、思いもよらない答えが返ってきた。

「魔獣の肉だが?」

「……は?」

ガルシュはさも当然のように淡々と答える。が、狼矢にとっては、あまりにも常識からかけ離れた答えだったせいか、一瞬固まってしまった。

「人界から生じる歪みの力を、こちらで一手に引き受けておるのだ。このような弊害が生じるは詮無きことだが、我等にとっては有り難いことでもあるのだ。」

「成程な……。って、いやいや、そうは言ってもそんな肉、人界には……。」

ガルシュの説明には納得したとはいえ、そのようなものは人界には存在しない。ましてや魔獣など居るはずもない。代用が利くものといえば精々、人間が普段口にしている獣の肉、くらいなものだ。

「父さん、知り合いに猟友会の人って居る?」

駄目元で父親に聞くも、

「そういう人は居ないな。」

あっさりと返されてしまった。

「案ずるな。狩りなら単独でも行える。心配は無用だ。」

「そ、そうは言ったって……。」

人間が野山の獣を狩猟するには、特定の季節や許可の下でなくてはならない。獣であるガルシュには適応されないだろうが、一々遠出をしなくてはならないのは難点だ。考えに考えた末、狼矢は一つの妥協案を思い付いた。

「そうだ。父さん、『あれ』ってまだあったっけ?」

「『あれ』かぁ……。確か階段下の部屋にあったと思うが、大丈夫か……?」

「今はそれしかないって。」

狼矢はリビングを出て、正面の扉を開ける。そこには掃除機や工具など普段使わない家電や日用品が置いてあった。その小さな部屋の奥に、狼矢が探しているものがあった。狼矢は箱に入れられた『それ』を数個取り出し、リビングへ戻ってきた。脇に挟んだステンレス製の器を置き、手に持っていた小さな袋数個を次々に破き、器に入れていく。

「む、これは……?」

「生肉には遠く及ばないだろうけど、ドッグフードで我慢してよ。」

「どっぐ……?」

「え、えっとつまり……、『犬用の餌』……。」

その言葉を聞いた瞬間、鬼のような形相でガルシュが睨んでくる。

「貴様……、何処まで我を侮辱するつもりか……!」

「し、仕方ないだろ!? 生肉なんて簡単に手に入るものじゃないし、お前を狩りに連れて行くにしても、費用や時間がかかり過ぎる。結果的にお前を犬扱いする形になってしまったことは、悪いと思ってる。けど、我慢して欲しいんだ。この通りだ!」

狼矢は深々と頭を下げる。暫しの沈黙の後、ガルシュが深い溜め息を吐く。

「……是非も無し、か。分かった。貴様の説得、聞き入れよう。」

「ほ、本当か!?」

「但し! これ以上の侮辱は、傷を以て認識を正すものと覚えよ。」

そう言ってガルシュは、器に盛られたドッグフードを数粒口に入れ噛み砕き始める。咀嚼そしゃくの際にちらりと見える鋭い牙が、強者の威圧感を醸し出し、恐怖心を煽るように見え、狼矢の背筋を撫でた。そして噛み砕かれたドッグフードを嚥下えんかし、ガルシュは狼矢を見る。

「ど、どう……?」

「……食せないものではないな。肉には到底及ばぬが。」

「じゃ、じゃあ……。」

「当分はこれで我慢する。が、数日置きには肉を食したいものだな。」

ひとまず狼矢は胸を撫で下ろした。ここで「不味い」などと言われたりしたら、狼矢は怪我では済まなかったかもしれないのだ。狼矢は安心して、席に着き、自分の夕食を食べ始めたのだった。


夕食を終えた狼矢は食器を片付けた後、早々に入浴を始めた。今日一日、様々な出来事があり、帰宅し獣化を解いた瞬間、体が鉛のように重く感じられた。相当な疲労が溜まっていた証拠だ。戦いで負った傷も、痕も分からない程に治癒し、これが夢なのではないかとまだ疑いたくなるくらい、いつもと変わらない夜だ。夢かうつつかまだ定まらないまま、狼矢は体を拭き、寝間着に着替える。風呂場を後にし、リビングへ戻ると、

「む、湯浴みは終わったのか?」

銀色の狼が出迎える。ここで狼矢は、やはり夢ではないと改めて再認識する。

「あ、あぁ。」

「……どうかしたか?」

「い、いや、何でもない。それより……。」

狼矢はガルシュのある変化に気付く。風呂場へ行く前より、全身の毛並みが更に整っているように見えるのだ。

「何か、さっきより毛並み整ってないか?」

「やはり貴様も気付くか。貴様の父君がしてくれたのだ。」

どうやら狼矢が入浴している間、父がブラッシングをしていたらしい。濡れタオルで全身を拭き、専用の櫛で乾かしながら毛並みを揃えたようだ。触ってみると、先程とは雲泥の差で、表面のザラザラ感が無くなっていた。見た目にも艶が更に出たように見える。

「流石は父さんだな。」

肝心の父は既に自室へ戻っているようだ。母も妹も同様のようだ。

「とりあえず、俺の部屋に行こうか。」

「うむ。」

狼矢とガルシュは階段を上り、二階へ向かう。狼矢は父の部屋のドアをノックし、風呂から上がったことを知らせた後、自室へ入った。

「はぁ、やっと一日の終わりかぁ。」

狼矢はベッドに仰向けで寝転がった。ベッドの脇にガルシュが腰を下ろす。すると、ドアがノックされた。

「……?」

「お兄ちゃん、お風呂上がった?」

「結衣か。どうした?」

ノックをしたのは結衣だ。「どうした?」とは言ったが、兄である狼矢には、結衣の考えはお見通しのようで、

「ならお兄ちゃん、さっきのことなんだけど……、やっぱり駄目?」

その言葉を聞いて、やっぱり、という呆れの溜め息が漏れた。暫し考えた狼矢は、

「……分かった。少しだけだからな?」

と結衣の我が儘を聞き入れたのだった。

「本当!? じゃ、じゃあ、私、部屋で待ってるから!」

結衣の嬉しさと興奮の混ざった声と扉が閉まる音が聞こえた。狼矢はやれやれ、と小さく溜め息をつく。

「という訳だ。ガルシュ、頼む。」

狼矢はガルシュに向けて手を合わせ、頭を下げた。ガルシュは嘆息しつつも、

「獣人の体に慣れる為、という名目ならば、まぁ良かろう。」

と了承してくれた。狼矢はすぐさま、獣化した時の服装に着替え始めた。ガルシュも獣魂状態になる為、集中を始めた。先に準備が整ったのはガルシュの方だった。

「狼矢、準備は良いか?」

「ちょ、ちょっと待って。……よし、良いよ。」

ズボンを履き終わり、ガルシュに向き直る。ガルシュは既に獣魂状態となり、光の球体に姿を変えていた。

「では行くぞ。」

ガルシュはゆっくりと狼矢の胸の中へ入っていく。狼矢は獣化の手順を思い出すように、深く息を吐き、再び深く息を吸う。そして、全身に力を入れる。するとあの時のように、心臓が一瞬跳ねる感覚が走り、続けて体が変化を始める。

「うっ……、ぐっ!」

体温が上昇し、筋肉が発達していく。骨が軋み、形を変え、人間とはかけ離れていく。手足の爪は鋭くなり、口と耳は外側に引っ張られ、獣らしくなる。牙が生え揃い、全身を銀と白の獣毛が覆う。最後に尾てい骨から尻尾が生え、獣化が完了する。完了と共に体温は徐々に下がり、落ち着きを取り戻す。

「フウゥゥッ……。」

深く息を吐き、意識をはっきりさせる。

「さっきよりも楽だったような……。」

手を握りながら狼矢は夕方のことを思い出す。初めての獣化の時は、今まで感じたことがない程の強烈な痛みと苦しみがあった。だが、今は違っていた。確かに痛みも苦しみもあった。しかし、夕方とは比べ物にならない程に和らいでいたのだ。

「体が獣人の形を覚えておるからだ。」

頭の中でガルシュが説明する。

「何度も獣化を繰り返せば、直に痛みを感じることなく獣化が可能となろう。」

「そうか。さて、結衣の我が儘に応えてやるか。」

狼矢は部屋のドアを開け、廊下に出た。ちょうどその時、父が部屋から出ていて、廊下で鉢合わせとなった。

「ろ、狼矢……、なのか……?」

「あ、うん、そう……、だよ。」

狼矢はたどたどしく答える。狼介は小さく笑い近付き、まじまじと狼矢を見る。

「凄いな……。本物の狼男って感じだな。身長も父さんを越えたなぁ。」

今の狼矢の身長は二メートル弱、狼介を悠に越していた。狼介は感心しつつ、狼矢の耳の先から爪先、尻尾の先端まで観察していた。時折、体を触られたり、撫でられたりした。初めての感覚に戸惑いを覚えつつ、この後に待つものの予想がおおよそ付いてしまった。

「結衣の我が儘か。兄も大変だな。」

「はぁ……、何か凄く嫌な予感しかしない……。」

項垂れる狼矢の頭を狼介が撫でる。体が半分狼であるせいか、頭を撫でられる感触は悪い気にはならなかった。狼介は撫で終わると階段を降りていき、二階の廊下には狼矢一人となった。一度深呼吸をして、狼矢は結衣の部屋のドアを軽くノックする。

「結衣ー、入るぞー。」

「はーい!」

興奮気味の声で結衣は応える。再び戦場に向かうような緊張の中、狼矢は結衣の部屋に入っていった。

「……。」

「いらっしゃい、お兄ちゃん!」

部屋に入った瞬間、胸から腹にかけて大きな衝撃が走る。どうやら、部屋に入るなり結衣が待ちきれず抱き付いてきたのだ。勿論、大きな衝撃とはいえ、先の戦闘の衝撃よりも遥かに弱く、よろけはしたが、倒れることなく狼矢は踏み止まった。

「凄い凄い!! 本当に狼の獣人になってる!! もう超格好良い!!」

「あ、あぁ……。」

その後、興奮を落ち着かせるまでに約五分程かかった。結衣は満足したようにベッドに座る。

「はぁ……、本当夢みたい。」

「ま、満足したか……?」

狼矢の顔は憔悴し切って、口元が引き吊っていた。

「うん!」

「じゃ、じゃあ、俺戻るから……。」

「ちょ、ちょっと待って!」

結衣は慌てて机の上に置いてあるスケッチブックと鉛筆を取り、

「今のお兄ちゃんの絵を描きたいの。もう少しだけ付き合って!」

手を合わせて頼んできた。暫しの沈黙の後、狼矢は小さく溜め息をつき、結衣に向き直った。

「……分かったよ。」

「ありがとう!! じゃあ、右手を腰に当てて立ってて。」

そう言って、結衣は鉛筆を走らせた。静寂の中、鉛筆と消しゴムが紙の上を走る音だけが聞こえる。時折、狼矢の方を向き、紙ではなく何もない中空で鉛筆を動かす。紙に描く前にイメージを固めているのだ。狼矢は身を乗り出し、結衣の絵を覗き見しようとしたが、

「動いちゃ駄目。」

と釘を刺されてしまった。そして時間にして、約一時間、結衣は鉛筆を置き、深く息を吐いた。

「上半身のラフだけど出来たよ。」

どれどれと狼矢も結衣の絵を見る。凛々しい狼の顔、均衡の取れた筋肉、どこかの漫画の登場人物のようなキャラクターがそこには描かれていた。

「……相変わらず上手いなぁ。」

「当然。もっと真面目に描けば、もっと格好良く仕上げられたけどね。」

結衣は昔から絵が好きだ。物心付いた時からクレヨンを取り、色んな紙に落書きをしていた。そのおかげもあってか、今ではパソコンを使って絵を描いている。ただ、ケモナーだけあってか、動物や獣人などジャンル的には万人受けはしないものを最近は描いている。上手いことに変わりは無いのだが。

「長い間付き合わせちゃってごめんね、お兄ちゃん。」

「いや、良いよ。じゃあ、部屋戻るな。」

「うん、また狼になって、部屋に来てねー。」

暫くは来ないよ、と心の中で辟易し、狼矢は自分の部屋に戻った。床に胡座をかき、溜め息を吐く。

「はぁ……。」

「貴様も大変だな。」

今まで黙っていたガルシュの声が頭の中に響く。

「まぁね。」

「だが、良い家族だ。我には分かる。」

「そ、そうか? そう言ってくれると嬉しいな。」

狼矢は少し照れくさそうに頬を掻く。そして改めて鏡を見る。この狼の姿が自分であるということに、まだ夢見心地のような感覚がある。だが、これからのことを考えると気を引き締めていかなければならない。狼矢はそう思った。

「じゃあ、解除するぞ。」

「待て。」

獣化を解除しようとした時、ガルシュから制止の声がかかる。

「な、何だよ。」

「貴様に我等狼族の誇りを説くに、絶好の機会と見た。獣化を解くのは後だ。」

「えっ……。」

ガルシュの突然の提案により狼矢は一瞬固まり、更に先程のことを思い出し、再び顔が引き吊っていった。

「ちょ、ちょっと……? それは、獣化を解除してからでも……。」

「耳で聴くよりも、頭で理解した方が早かろう? いや、寧ろ確実に理解出来ると言えよう。」

ガルシュの声色から、嬉々として語ろうとしていることがはっきりと分かった。そのような心情では、最早聴く耳持たず、である。

「さぁ、存分に教示してやろうぞ。覚悟は良いな?」

それから暫くの間、狼矢の頭の中にガルシュの声が延々と響いていた。彼の一日の終わりは、まだ先になりそうであった。

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