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Soul of Beast -獣の魂を継ぐ者-  作者: 聖天蒼狼
第一章 獣化編
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初陣の獣

突然突き付けられた選択肢に、狼矢は動揺を隠せなかった。ガルシュの威圧的な金色の眼がそれに拍車をかける。

「ど、どういうことだ? 契約って一体……。」

「言葉の通りだが? 歪みを正していく為には戦わねばならぬ。二つ返事で承諾されても困る。」

「……。」

ただ、狼矢には何となく分かっていた。契約することは即ち、ガルシュと共に戦うということも示唆している。生半可な気持ちで契約してしまっては、自分はおろか、ガルシュの命を危険に晒すということにも繋がり兼ねない。そのことをガルシュは暗に示しているのだ。

「……じゃあ、答えられる範囲で良いから、俺の質問に答えて欲しい。」

「良かろう。」

ガルシュは伏せの体勢を解き、座り直した。そこから一呼吸置き、狼矢は問いかけた。

「まず、その歪みって、いつから人界……、こっちに現れ出したんだ?」

「正確な時期は不明だが、少なくとも一年前からその兆候があった、ということは聞いている。」

一年前ということは、かなり最近の話である。

「どうして歪みが現れ出したんだ?」

「それには答えられぬ。寧ろ、我等にも皆目見当が付かぬのだ。」

ここまで二つの質問を投げ掛けたが、どちらにもガルシュは真摯に答えてくれている。続けて狼矢は、一番気になっていることを聞いた。

「じゃあ、その歪みを放置し続けたら、どうなる?」

すると、ガルシュの表情が険しいものとなり、少し間を置き、

「人界も獣界も等しく滅ぶ。何も残らぬ……。全て、無に帰す……。」

苦虫を噛み潰すような表情でガルシュは俯きながら答えた。狼矢はガルシュの今までの真摯な対応から嘘ではない、ということを瞬時に理解し、そして戦慄した。

「無に帰すって、ちょっと待てよ! それって……!」

「何もかも無くなるのだ! 貴様も我も、我等の世界も全て!!」

今までになく語気を荒げるガルシュ。それ程までに歪みというものは恐ろしいものであると、嫌でも理解出来た。

「そう成らぬ為に、そうさせぬ為に、我等は戦わねばならんのだ。」

「……。」

今でも夢の中にいるのではないか、と狼矢は思った。ここで頬をつねり、痛みが無ければ夢だ。目が覚めれば普通の生活が戻ってくる。そう思っていたが、狼矢の手は両方共動かすことすら出来なかった。もし、つねって痛みがあれば……、それを考えてしまうとやはり怖かった。

「……出来るかな?」

恐怖する心を押し退け、狼矢は声を振り絞った。

「お前と、契約すれば……、守ることが出来るかな? 家族を、友達を。」

世界の為、という重責を背負うことなど自分には出来ない。けれど、力を得て大切な家族や友達を迫る脅威から守れるなら、力を奮うことを惜しまない。狼矢の言葉に、ガルシュはそう感じていた。ガルシュは狼矢の目を真っ直ぐに見つめ、

「貴様が真にそう望むのならば、力はおのずずと応えてくれるはずだ。」

そう言った。狼矢はガルシュの答えに目を閉じ、一呼吸入れ、目を開く。

「分かった。ガルシュ、お前と契約する。俺は、その歪みから家族を、友達を守りたい!」

その答えを待っていたかのように、ガルシュは口元を吊り上げ笑った。

「貴様の強き覚悟、我が心に響いたぞ! 重ねて、我等と共に戦ってくれることに、深く感謝致す!!」

ガルシュは伏せ、頭を下げた。人間で言えば、土下座のようなものだ。

「それでガルシュ、どうやったらお前と契約出来る?」

「簡単なことよ。我が額に手を当てるだけで良い。」

「分かった。」

狼矢は椅子から立ち、片膝を付き、ガルシュの額に手を伸ばした。が、触る寸前で一度手が止まった。この額に触れてしまえば、自分は戦わなければならない。まだ正体も分からない、得体の知れない歪みというものに。しかし、このまま歪みを放っておくことも出来ないのも事実。家族や友達に歪みの矛先が向くかもしれない。そうなった時、誰が守れるのか。今、それが出来るのは自分しか居ないのだ。その決意と共に、狼矢はガルシュの額に触れた。すると、ガルシュの体が光り、狼矢は眩しさのあまり、目を細めた。ガルシュの体の光は数秒程で収まったが、ガルシュにも狼矢にも変化はなかった。

「あ、あれ? もう良いのか?」

「うむ、そうだが?」

「そ、そうか……。」

少年漫画のような紋章やアクセサリーを生み出すのかと、狼矢は少し期待していたようだ。


「じゃあ、改めて聞くけど、歪みって一体何なんだ?」

「ふむ……、口で語るのは少々難儀だ。実例があれば別だが。狼矢、貴様に一つ問おう。ここ数日の間、奇妙な事件が起こってはおらぬか?」

「奇妙?」

この期に及んでまだ焦らすのだろうか、と狼矢は少し思った。

「言うなれば、そう……、『人間の所業とは思えぬ事件』だ。」

その言葉に狼矢はハッとなった。そう、思い当たる事件があるのだ。それもここ最近だ。

「な、なぁ、ガルシュ。お前がこっちに来たのって、いつだ……?」

「む? 昨日だが、それがどうした?」

ガルシュの答えで、狼矢は一つの確信を得た。それは、ガルシュは一切の偽り無く自分と接しているということ。もし、あの事件が起こった三日前より以前から人界にやって来たと言ったのなら、まだ疑いの余地、嘘の可能性があった。だが、三日前に起こったことを、昨日人界に来たばかりのガルシュが知り、言い当てることなど、まず不可能だ。それが出来るということは即ち、あの事件は間違いなく歪みに関係している、ということだ。

「ガルシュ、ちょっと待ってて!」

狼矢は急いで部屋から出て、一階のリビングへ向かった。リビングの隅に置かれた新聞紙の小さな山。狼矢はそこから三日前の新聞を取り出し、一ページずつ確認していく。そして見つけたのだ。ガルシュの言う『人間の所業とは思えぬこと』を。その新聞を持ち出し、狼矢は部屋に戻る。

「ガルシュ、もしかして、これのこと……?」

狼矢は新聞を開き、ある記事を指差す。

「三日前、南霞牙の公園で通り魔が出たんだ。狙われたのは会社帰りの女性。一人で帰っている途中、後ろから背中を切り裂かれたんだ。切られる数秒前まで気配も何も無く、気付いたら切られてて、犯人は見てないんだって。幸い、全治二週間程度だったんだけど、切り裂かれた背中には獣の鉤爪のような四本の傷痕が残されていたんだって。」

「ふむ……。」

早足で説明したにも関わらず、ガルシュは確信したように軽く頷いた。

「多くのメディアは熊手を使った犯行だとか、何処かの動物園から逃げ出した猛獣の仕業だって言ってるけど……。でも……、違うん……だよね?」

狼矢は恐る恐るガルシュに問うた。ガルシュは表情一つ変えず、淡々と答えた。

「貴様の予想通り、この事件、歪みによってもたらされたものだ。」

一人と一匹は記事から目を離し、互いに向き直る。

「これは歪みの力によって、『負の感情』に支配された闇の獣、『闇獣あんじゅう』の所業だ。」

「『負の感情』……? 『闇獣』……?」

聞き慣れない二つの言葉に、狼矢は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。ガルシュは軽く溜め息を付き、

「順を追って説明する。そんなに悩まずとも良い。」

たしなめた。

「まず、そもそも歪みの力というものは、言い換えれば『ことわりねじ曲げる闇の力』のことを指す。元々は我等の世界でその歪みを封じ込め、安定を保っていた。」

「……。」

ファンタジー世界のような話に、狼矢は聞き入っていた。

「先も言ったが、今まで保っていた均衡が如何にして崩れ、歪みの力が人界に流出しているのかは、今を以てしても我等には見当が付かぬ。ここまでは良いな?」

「あ、うん。大丈夫。」

「宜しい。」

まるで先生のような感じだな、と狼矢は思った。ガルシュは更に続ける。

「その歪みの力は人間の『負の感情』に強く惹かれる。『負の感情』とは、怒りや哀しみ、恨み、妬みなど、他者を傷付ける要因を持つ感情のことだ。」

「それって、煩悩って捉えても良いのか?」

「そう言っても遜色は無かろう。歪みの力と『負の感情』が結び付くと、その感情を凝縮した『種』が体内で生成される。その『種』こそが『闇獣』となる力を与える。」

ここで狼矢はあることに気付いた。

「ちょっと待って。今の話が本当なら、その『闇獣』って、まさか……!」

「そうだ。『負の感情』に支配された人間のことだ。」

沈黙が流れた。『闇獣』……。獣と称するのだから戦う相手は、ゲームに出てくるモンスターのようなものだと狼矢は思っていた。だが、話を聞いていくに連れ、その予想は崩れていき、それどころか想像もしなかった事実にぶち当たり、動揺せざるを得なかった。

「『負の感情』に支配された人間が……、『闇獣』……。ということは、俺に人殺しをしろって、そういうことか……?」

そう問いただしたが、ガルシュからの答えはやはり淡々としたものだった。

「最初に言ったではないか。二つ返事で承諾されても困る、と。つまりはそういうことだ。」

「……。」

「ただ、勘違いはするな。我等の目的はあくまで歪みの力を消し去ること。『闇獣』の『種』を破壊することだ。ただの人間が、『闇獣』を裁けるのなら幾らか道は残されてはいるだろうが。」

「……裁く法律なんてないから、無理って訳か……。」

狼矢は肩を落とし、項垂れる。まさか、自分が人殺しに近いことをしなければならないなんて、思いもしなかったのだ。だが、戦うと決めた以上、迷っている訳にはいかない。

「でも、放っていたら、また他の人が傷付いてしまう。そうさせない為に、戦わなきゃ、なんだよな。」

「うむ、その通りだ。」

一呼吸置き、狼矢は別の質問を投げ掛ける。

「ガルシュ、『闇獣』ってどんな姿をしてて、どう戦っていけばいいんだ?」

「『闇獣』の姿はその『種』を宿した人間によって様々だが、共通して言えることは獣頭人身じゅうとうじんしんの『獣人』であるということだ。」

『獣人』という言葉に狼矢は目を見開く。『獣人』……。数多くの国の神話や伝説に登場する、頭は獣、体は人間、全身獣の体毛に覆われた異形の生き物だ。古くはエジプト神話のアヌビスや、ギリシャ神話のミノタウロスなどが挙げられる。最も有名な獣人といえば、中世ヨーロッパの伝説、狼人間だろう。満月の夜に現れ、人間や家畜を襲う獰猛な怪物として語り継がれるが、現実には存在したかどうかもあやふやだ。

「『獣人』……、もしそれが『闇獣』だとしたなら……。」

あの事件にも説明が付く。『獣人』は人間と獣、二つの特徴を持ち、更にそのどちらの力をも遥かに上回る。気配を消し、人間の目に捉えられない速度で近付き切り裂くことなど、簡単なことだろう。

「そんな化け物とどう戦えば……。」

「至極簡単なことだ。目には目を、牙には牙を、『獣人』には『獣人』を、だ。」

「え……? ということは、つまり……。」

「貴様も『獣人』として戦えば良い。」

さも当然のようにガルシュは言うが、当の狼矢はこの日一番の動揺を見せ、その温度差は激しかった。

「はぁーー!?」

「何だ? 何か問題でもあるのか?」

「い、いや、問題は無いよ。無いけど……。」

『獣人』として戦う。それは裏を返せば、人智を超えた化け物になれ、ということだ。確かに対抗手段としては、この上ないのものだろう。だが、それは同時に人間を捨てるも同義だ。約十八年間、人間としての生活を謳歌していた狼矢にとっては、ある意味、あまりにも早い死刑宣告のようなものだった。

「人間じゃなくなるってのは、結構来るな……。」

狼矢は机に肘を付き、頭を抱えた。するとガルシュが近付き、狼矢の太股に前脚を置いた。

「何も一生『獣人』のままで居ろとは言わぬ。『闇獣』共と戦う時のみ、『獣人』となれば良い。あまり重く受け止められても、我が困る。」

「え、一生、じゃないのか?」

「そうだが?」

狼矢は少しホッとしたように胸を撫で下ろした。

「良かったぁ……。流石にずっと『獣人』のままじゃ色々と不便だからなぁ。」

「切り換えの早い奴だな、貴様は……。」

ガルシュは呆れて溜め息を漏らした。窓から見える夕日がゆっくりと沈んでいき、部屋に入る光も段々と弱くなっていった。狼矢が立ち上がり、部屋の明かりを付けようとしたその時、

「……!」

ガルシュの表情が鋭く険しいものとなり、窓の外に視線を向けた。部屋の明かりを付け終え、狼矢もガルシュの変わり様に気付く。

「どうした?」

「……来る。」

「えっ……、来るってまさか……。」

心臓の鼓動が少しずつ速くなっていく。ガルシュは視線を変えず、

「『闇獣』が動き出す気配だ。」

そう言った。狼矢も急いで窓の外を見る。が、それらしきものは感じられなかった。

「『闇獣』の気配を感じられるのは、我等獣界の者か、『獣人』の状態のみぞ。」

「どうすれば良い?」

ガルシュは少し考えた後、狼矢に向き直る。

「本来なら、まず『獣人』の体に慣れさせることから始めねばならぬが、そうも言ってられぬ状況だ。狼矢、済まぬがすぐに実戦に移って貰う。覚悟の程は良いか?」

ガルシュの鋭い金色の眼が狼矢を見据える。狼矢は強く頷く。

「大丈夫、覚悟はもう出来てる!」

「宜しい。では始めるぞ。」

狼矢とガルシュは少し距離を空け、互いに向き合う。ガルシュは深く息を吸い、目を閉じる。すると、ガルシュの体を光が覆い、全身が輝き、宙に浮き始めた。

「……!」

「今我は魂に近い『獣魂じゅうこん』状態にある。これより、貴様の中へ入る。」

「中へ入るって、えぇ!?」

狼矢の驚きを他所に、ガルシュは光となって、狼矢の体へすんなりと入り込んでいく。狼矢には何かが体内に入ってくる感覚はなく、支障なくガルシュを取り込んだ。光となったガルシュが入っていった胸の辺りを見てみるが、何の変化も見られない。

「ふむ、滞りなく成功したな。今我は貴様と一体化しておる。」

先程まで耳から聞こえていたガルシュの声が、今度は頭の中に直接語りかけてくるように聞こえてきた。

「一体化……?」

「肉体の共有関係にある、と言った方が正しいか。その気になれば、貴様の体を動かすことも可能ではある。」

そう言って、ガルシュは狼矢の右手を動かした。当の狼矢は、動かす意思はなかったのに勝手に動かされる、何とも奇妙な感覚に襲われた。

「お、おい、勝手に動かすなよ……。」

「余程のことが無い限り、そのような不粋な真似はせぬよ。だから安心しろ。」

余程のこと、というのが気にはなったが、今はそれを聞いている場合ではない。

「次はどうすれば良い?」

「次に『獣人化』に入るが、その前に衣服を脱ぐことを勧める。衣服は『獣人化』を解除しても修復は利かぬぞ。」

確かにそれは困る。狼矢は急いで制服を脱ぎ、前にボロボロになったダメージジーンズを履き、準備を終える。

「いつでも良いよ。」

「では『獣人化』の手順に入る。まず、息を限界まで吐き切れ。」

狼矢はガルシュの言われた通り、深く息を吐き出した。肺の中の酸素を全て空にするような感覚で吐き続けた。吐き出している間にガルシュが次の行程を説明する。

「吐き切ったならば、次に深く息を吸い、限界まで溜め、息を止める。」

息を吐き切った狼矢は、すぐさま息を吸い始め、肺に酸素を送り込む。吸い切れるギリギリまで吸い、息を止めた。

「止めたならば、全身に力を込めよ。」

狼矢は全身に力を入れた。その瞬間、

「ぐっ……!?」

心臓が跳ねるように脈動し、狼矢は膝を付いた。胸に手を当て、心臓の鼓動を確める。狼矢の心臓は少しずつ、その心拍数を上げていく。同時に、重度の風邪を患ったかのような熱が体に帯び始める。

「何だ……、これ……!?」

違和感と苦痛に苛まれた狼矢は四つん這いになり、速く浅い呼吸を繰り返す。尚も体温は上がっていき、体の自由も利かなくなってきていた。そして『それ』は訪れた。

「がっ……!!」

突然、体の何処かの骨がゴキッという鈍い音を立てた。骨折のような痛みに、狼矢は声にならない叫びを上げた。体の自由が利かない為か、声帯も麻痺しているようだったが、かろうじて途切れ途切れの声を出せるようだ。その音を皮切りに、次々と骨が軋む音が鼓膜を震わせる。気が狂いそうな程の痛みに、目を閉じ、必死に耐えていた。が、体の内側から響く音と変わっていく事実が狼矢の心を蝕んでいった。

「はっ……、あっ……!」

だが、奇妙なことにそれと同時にある感情が狼矢の心に芽生え始めた。それは『解放感』。今まで恐怖に近い感情しかなかったはずなのに、体の変化と共に自分の内に眠る『それ』を外へ出したい。この苦しみは『それ』を解き放つ前段階、という考えだ。狼矢はその不思議な感覚に心を委ねた。するとどうだろう。今まで苦痛でしかなかった、骨の軋みも、音も、『それ』を解き放つ為ならば耐えられる。血液が沸騰しそうな体温の上昇も、不思議と心地よいとさえ思える。狼矢の心は嵐の過ぎ去った波打ち際のように不思議と凪いでいた。その時、『それ』は姿を現し始める。

「……!!」

口先と耳が引っ張られる感覚が走り、同時に口周りの骨が新たに形成されていく。全身の筋肉の細胞が沸き立ち、体を一回り程成長させた。手足の平たい爪は引っ張られるように細く長く、流線形を描く。足はくの字に曲がり、足裏に五つの肉厚な何かが現れる。口の中が、正確には歯がむず痒くなり、手足の爪のように細く長い、それでいて鋭いものとなる。そして、全身の毛穴が開き、何かがせり上がり、体を覆い、尾てい骨の部分からジーンズを何かが突き破り現れる。それと共に、体の熱はゆっくりと冷めていき意識もはっきりとしていく。

「はぁ……、はぁ……。」

ようやく体の自由が利くようになった狼矢は、額に手を当て、軽く頭を振る。目をゆっくりと開き、少しずつ焦点を定めていく。目の前がはっきりした頃には、体温は普段通りの感覚に戻っていた。

「どうなったんだ、俺……。」

額から手を離すと、狼矢は目を見開いた。先程まで当てていた手が、今まで見慣れていた人間のものではなかったのだ。少しだけ太くなった腕と指、それを覆う白い獣毛、指先から生える流線形の細い爪、どれも人間のものではない。狼矢は部屋の隅に立て掛けられている縦長の鏡に自分の姿を映した。そこには、

「ま、まじ……、かよ……。」

頭頂部から生える二つの三角形の耳に、野生味溢れる金色の眼。鼻から口にかけて伸び、マズルとなった先端には、湿り気を帯びた黒い鼻、口からはズラリと並んだ鋭い牙が覗いていた。細身ながらも均衡の取れたしなやかで整った筋肉、手足の先に伸びる流線形の細い爪。そして全身を覆う銀と白の獣毛と、臀部から伸びる尻尾。鏡に映っていたものは、人間の男子高校生ではなく、絵や漫画、映画などでしか見ることの出来ない、狼の『獣人』の姿であった。


「これが、俺……?」

狼矢はまじまじと鏡に映る自分、狼の獣人の姿を見ていた。呆気に取られ、言葉が出てこない。ポカンとした狼の表情が何とも間抜けで、可愛げがある。だが一度ひとたび、表情を正すと、野生の獣のような威圧感が迸る。更に体の奥底から、今までに感じたことのない力が、沸々と沸き上がってくるのが分かった。

「どうだ? 獣人の体の具合は?」

再び頭の中にガルシュの声が聞こえてくる。

「あ、あぁ。凄いの一言しか出てこないや……。」

「まだ慣れぬだろうが、我慢してくれ。それと、貴様は奴等と戦う『資格』を得たに過ぎぬ。己の力を過信してはならぬぞ。」

狼矢の心を見透かしたように、ガルシュは軽く嗜める。

「わ、分かってる。じゃあ……!」

窓の外に意識を向けた時、狼矢は奇妙なざわつきを感じ、軽く獣毛を逆立てた。

「な、何だろう、この感じ……。」

「これが闇獣の『種』の気配だ。恐らく、奴等も月の気配を感じ、獣人化を始めようとしているはずだ。」

「なら、急がないと!」

窓を開け、ベランダに出た狼矢は、思い出したかのように部屋に戻り、部屋の明かりを消した。

「もうすぐ母さんや妹が帰ってくるからな。居ないよう装っておかないと。」

窓を閉め、改めて『種』の気配を探る。程なく、南の方角から、ざわつく気配を感じ取り、ベランダの柵に登り立った。

「あの感じがする方角へ行けば良いんだろ?」

「そうだ。」

「よし、行こう!」

狼矢は足に力を入れ、立ち幅跳びの要領で跳躍した。だが、獣人の脚力は狼矢の想像を遥かに超えていた。向かいの家の屋根に跳び移れるなら、力加減はこのくらいだろうと思って跳んでみたのだが、

「げっ!?」

力を入れ過ぎたせいか、高さも距離も向かいの家を跳び越え、更にその裏の家も跳び越え、正面にはまたその向かいの家が待ち構えていた。だが、このままでは衝突してしまう。何か掴まるものはないかを探し、危なげに電信柱にしがみつき、衝突を免れた。

「あ、危ねぇ……。」

狼矢は安堵の息を吐き、電信柱をよじ登り、先端に立った。

「力を入れ過ぎだ、馬鹿者。」

「そ、そんなこと言ったって……。」

「止まっている暇はない。早く向かわねば、また負傷者が出てしまうぞ!」

ガルシュの叱咤が頭に響く。これはこれで頭が痛い。狼矢は頭を振り、再び南へと向かい、跳び立った。


「なぁ、ガルシュ。」

霞牙駅周辺までやってきた狼矢はガルシュに話しかけた。

「何だ?」

「さっき、闇獣の『種』って言ってたよな? ということは、それって成長したりするのか……?」

疾風のように、建物や電信柱、街灯に素早く跳び移り、更に南へ歩を進める。

「良いところに気付いたな。貴様の予想通り、闇獣の『種』は成長をする。」

日が沈み、空は暗闇に染まり、街は明かりを灯す。それもあってか、狼矢が人の目に触れることはなかった。たとえあったとしても、ほんの一瞬、幻と見紛う程の刹那だ。

「先も言ったが、『種』はその者の負の感情が、歪みの力に触れ、塊となったものだ。だが『種』は獣人化の力を与えるのみで、単体では然程さほど驚異にはならぬ。」

「……。」

「だが厄介なのは、『種』が『発芽』してしまうことだ。」

「『発芽』、ってことは、その負の感情が溢れ出すってことか……。」

つまりそれは、歪みの力を放出することも同じことだ。狼矢は息を呑みながらも、気配する方向へ跳び続けた。

「その通りだ。では、その『発芽』に必要なものとは何か、分かるか?」

『発芽』に必要なもの、植物で言うところの肥料のことだ。だが、狼矢にはまだ想像が付かなかった。

「その負の感情を更に強くする、とか?」

「いや違う。……『他者の血液』だ。」

その言葉に、狼矢は目を見開き、足を止める。足を止めた場所は小さなビルの屋上。人の目に触れる場所ではなかった。

「そんな……。じゃあ、今、俺達が倒そうとしている奴は……!」

「恐らく、既に『発芽』してしまっているだろうな……。でなければ、これ程はっきりとした気配は感じぬはず。」

「……。」

狼矢は無言のまま、屋上の柵まで歩き、跳び越え再び走り出した。

「『発芽』した者はその場に存在するだけでも、歪みの力を微量ではあるが放出し続ける。だが、それでも尚、『他者の血液』を吸収し続けると、歪みの芽は体内を侵食し、力を強めていく。」

「その歪みの芽が、体内を侵食し切ったら……?」

「『はな』が咲く。」

歪みの力の割りに綺麗な言葉だな、と狼矢は思った。だが、その微かな甘い考えも、ガルシュの言葉で砕け散った。

「正確には『能力の開花』。即ち、負の感情を叶え、具現化させる術のことを指す。例を挙げるとするならば、『破滅』を望む負の感情を持つ者が闇獣となり、『華』を咲かせてしまった場合……。」

「その『破滅』を叶える為の力、あるいはそれに繋がる現象を操る力を得る、ってこと……?」

「その通りだ。『華』が咲いてしまった場合、苦戦を強いられるのは必至。そうなる前に倒さねばならぬ。」

と、ガルシュの説明が終わる頃には、狼矢達は南霞牙駅の屋根まで来ていた。時間にして、わずか十数分といったところだ。

「速いな……。」

改めて獣人の身体能力に驚かされる狼矢であった。気を取り直し、闇獣の気配を探る。すると、最初に感じたものよりも強く、はっきりとした気配が駅の東の方角から漂ってきた。そして更に、近付いたせいか、鋭敏になった嗅覚が闇獣の位置を確実に割り出した。だが、

「……!」

突如、何かを感じ取ったかのように、狼矢の全身の獣毛は逆立ち、体が小刻みに震え出した。震えを抑えようと、狼矢は肩を掴み膝を付いた。

「な、何だ……、この、感じ……! こ、怖い……!」

「嗅覚で奴の『感情』を読み取ってしまったか……。」

「感……、情……?」

ガルシュがなだめるように、狼矢に語りかけた。

「我等のような嗅覚の鋭い獣は、時に相手の感情をも読み取ることがある。こと、我等狼族にはよくある事例だ。今、貴様が嗅覚で感じ取ったものは、闇獣の負の感情だ。」

それを聞いた狼矢は、恐る恐る嗅覚を働かせ、もう一度闇獣の臭いを嗅いでみる。すると、恐怖こそは感じていたが、今度は冷静に分析が出来た。

「……『憎悪』だ。何かに対して、強い憎しみを持ってる……。」

「うむ。では急ぐぞ。怪我人が出る前に、奴を始末する。」

ガルシュの声に狼矢は震える足を軽く叩き、臭いと気配のする方向へ急ぎ向かった。


狗哭いぬなき公園ーー。

南霞牙駅から東に徒歩約十分の距離にある、中規模な公園。名前の由来は、江戸時代この辺りの森に野犬達が住み着き、夜な夜な犬の吠える声が聞こえていたという伝承から来ている。街灯は数基あるものの、夜ともなれば場所によって明暗の差が激しい。そんな公園に、会社帰りの一人の女性が早歩きで通り抜けようとしていた。

「ちょっと怖いけど……、ここを抜けて行く方がが近いもんね。」

女性はヒールの音を響かせながら暗い道を歩いていく。だが、それを待っていたかのように、『何か』が動き始めた。

「え……?」

女性は気配を感じ振り返る。しかし、後ろには誰もいなかった。薄気味悪さを感じた女性は、先程よりもスピードを上げ、再び歩き出した。だがその『何か』は気付かれないよう、一定の距離から少しずつ少しずつ近付いて来ていた。

「な、何、何なの!?」

消えない薄気味悪さに唾棄し、女性は走り出した。が、ヒールでは走りにくいのは明白で、足がおぼつかない。だがその必死さを嘲笑うかのように『何か』との距離は広がらない。寧ろ、更に距離は縮んできていた。そして唐突にその逃走劇は終わりを迎えた。

「……!」

ヒールのかかとが折れ、バランスを崩し、女性は転んでしまったのだ。それを見計らったかのように、遂にその『何か』が姿を現した。

「グルルルゥ……。」

それは黒い獣毛に包まれ、人間の形をした狼の化け物であった。化け物は紅い眼を爛々と輝かせ、下顎を唾液で濡らしていた。

「ひっ……!」

その醜悪な化け物に、心の底から恐怖した女性には、走って逃げる気力さえ恐怖に奪われてしまっていた。抵抗を見せない女性に、化け物は口元を吊り上げ、これでもかと言わんばかりの邪悪な笑みを浮かべ、一歩また一歩と女性に近付く。涙を浮かべ、自分の死を悟る女性。それでも、弱々しい声で乞い願った。

「助けて……。」

と。そのか弱き願いすらも飲み込もまんと、化け物はその口を開き牙を顕にした。だが、女性の願いはある者に届き、次の瞬間それは叶ったのだ。

「ガハッ!?」

突如、大きな影が化け物を弾き飛ばし、女性の命を救った。女性は放心状態ではあったが、ゆっくりと顔を上げ、その影を見やる。女性を助けた者は、別の狼の化け物であった。だが、先程の醜悪な黒色の狼とは違い、金色の眼と美しい銀色の獣毛を持っていた。銀色の狼がチラリと女性に視線を向け、

「逃げろ。」

と一言告げた。その言葉にハッとなった女性は、急いで立ち上がり、すぐにその場から走り去っていった。

「……これで、心置きなく戦えるな。」

銀狼、北神狼矢は黒狼の闇獣と対峙した。


「……。」

無我夢中だった。闇獣の臭いを嗅いだ時から、狼矢は恐怖心を拭えずにいた。だが、人が傷付けられるかもしれない状況で、迷ってもいられず、考えることを一度止め、捨て身で体当たりを仕掛けた。結果、間一髪で闇獣の牙から女性を守ることには成功し、この場から逃がすことも出来た。問題はここからである。

「グルアァッ! 何しやがんだテメェ!!」

数十メートル先で倒れていた黒狼の闇獣が起き上がり、牙を剥き出しにする。その気迫に圧されながらも、狼矢は構える。

「折角、今夜の飯にありつけるかと思ったのによぉ……、どうしてくれるんだ、アァッ!?」

「……っ。」

憎悪と殺意が入り交じった気配と臭いが狼矢の五感を震わせる。一歩、また一歩と闇獣が近付くにつれ、狼矢の足は少しずつ後退し始めていた。

「まさか……、俺様の獲物を横取りしようって魂胆か?」

「何……!?」

「だってそうだろう? 俺様もテメェも、化け物なんだ!! 化け物が人間共を食うのは当然のことなんだからなぁ!!」

憎悪と殺意に加え、牙を剥き、狂喜の笑みを浮かべる闇獣。狼矢はこれ程恐ろしいと感じるものは見たことが無いと思った。こんな狂った奴と戦うくらいなら、今すぐ逃げ出したい。そう思ってしまうくらいだった。狼矢の耳はぺたんと倒れ、尻尾も巻き、体勢も低くなる。狼が警戒している体勢を、人間の形に直したような構えだ。そして、一歩後ろに下がったその時、頭の中に声が響いてきた。

「貴様の覚悟とは、あの程度の殺気で霞むものだったのか?」

ガルシュは冷めた口調で更に続けた。

「もし貴様が、ここで尻尾を巻いて背を向けるというのなら、最早貴様に戦う資格などない。家族を、友を守ることなど、夢のまた夢だ。」

「……。」

ガルシュの言う通りである。ここで逃げてしまえば、闇獣はまたあの女性を追いかけ、今度は確実に殺してしまうだろう。それと同時に、逃げるということは自分の世界もガルシュ達の世界も見捨てることにもなる。そうなってしまえば、全てが終わる。恐怖感と使命感がせめぎ合う中、ガルシュは狼矢に語りかける。

「恐れるな。貴様ならやれる。我はそう信じて貴様を選んだのだ。」

「ガルシュ……。」

「あのような下劣な輩に、我等の誇りを汚さんとする輩如きに、貴様の覚悟が敗れることなどない!」

狼矢の恐怖感は、ガルシュの激励を受けた使命感に見事討ち果たされ、狼矢の眼に覚悟の光が戻る。耳はピンと立ち、尻尾にも力が甦る。

「ありがとう、ガルシュ。ちょっと吹っ切れたよ。」

「礼には及ばぬ。来るぞ、狼矢。」

「あぁ。」

狼矢と闇獣の距離は約十メートル弱。地面を一蹴りすれば、互いの間合いに入るだろう。狼矢は改めて構え直す。

「勝った奴が、あの女を食う権利を得る。どうだ? 分かりやすいやり方だろう?」

「そうだな。けど、俺は人間は食わないし傷付けない。」

「あ?」

闇獣の表情が苛立ちに歪む。

「お前を倒す。俺が望むのはそれだけだ。」

狼矢の表情から警戒の色が消え、構えにも迷いが無くなっていた。それを見た闇獣の表情から苛立ちが消え、代わりに嘲りの笑みを浮かべ、醜悪な笑い声を響かせた。

「ギヒッ、ゲハハハッ、俺様を倒す、だぁ? 随分とでかい口叩くじゃねぇか、えぇっ!?」

眼を血走らせ、紅い瞳を殺気と共に狼矢にぶつける。が、狼矢は退かない。寧ろ、更に戦意を掻き立てられていた。

「あー……、ムカつくぜ……。ムカつくムカつくムカつくムカつくぅ!! そのムカつく顔、ズタズタに引き裂いてやる!!」

先に仕掛けたのは闇獣の方だ。狼矢の体が一瞬強張る。

「どうする……?」

間髪入れず、ガルシュが狼矢に指示を飛ばす。

「奴の動きをよく観察し、回避しろ!」

「観察って言ったって……!」

獣人の動きは常人では視認すら困難な程素早い。その動きを観察し、その上で回避など、初陣の自分にとっては無理な話、と狼矢は思った。しかし、現実は違った。狼矢の眼には、はっきりと闇獣の動きを視認することが出来ていた。肉食獣は獲物の動きを捉える、動体視力がとても良い。狼の獣人である狼矢には、速度は同じでも、素早い動きを視認出来る動体視力、その視覚から得た動きの情報を、瞬時に把握し理解する高い情報処理能力が備わっている。加えて、

「……!」

その動きに対応し得る反射神経も持ち合わせている。狼矢の眼には、闇獣が右の爪で顔面を切り裂こうとしているのが見えていた。その爪を回避すべく、狼矢は左足で地面を蹴り、右へ回避した。

「何……!?」

闇獣の爪は空を切り、狼矢が傷を負うことは無かった。この間、約数秒の出来事である。

「で、出来た……。」

「うむ、良い動きだ。」

内心ホッとしていた狼矢とは対称的に、闇獣は驚きと苛立ちを顕にしていた。

「チッ……、一回避けた程度で、いい気になってんじゃねぇぞ!!」

闇獣が再び、狼矢に向かってくる。狼矢も闇獣を見据え、動きを観察し、再び回避する。何度も闇獣は自らの鉤爪を縦に、横に奮い、狼矢を切り裂こうと試みる。が、それらは悉く狼矢に紙一重で避けられてしまう。良くて銀色の獣毛をほんの少し切っただけで、肉を切り裂く感覚をその両手が感じ取ることは無かった。

「野郎……、ちょこまかと逃げやがって……!」

闇獣は苛立ちの色を更に濃くし、狼矢へ向かっていく。地面を蹴り、中空で体を大きく捻り、爪を振り下ろす。

「食らえ!!」

闇獣の渾身の一撃とも取れる大振りの攻撃。だが、狼矢に当たることはなく、逆に狼矢へ好機をもたらす。狼矢はしっかりと爪の軌道を観察し、最小限の動きで回避した。闇獣の爪は地面のアスファルトを軽々と抉った。が、大振りのせいか、隙も大きくなってしまっていた。そこに、

「うおぉっ!!」

狼矢の下から突き上げる拳が、闇獣の腹部に刺さった。

「グ……、ハァ……!」

内臓を直接攻撃されたかのような衝撃が走り、闇獣は腹部を押さえうずくまった。激しい痛みに、闇獣のマズルから唾液がボタボタと溢れ出していた。

「て……、めぇ……!!」

腹部を押さえながらヨロヨロと立ち上がり、今にも血管が切れそうな程血走った眼で、狼矢を睨む。対する狼矢は無言。闇獣から眼を逸らさず、真っ直ぐ睨み返す。

「この……、クソがぁ!!」

激痛を無理矢理抑え込み、闇獣は再び鉤爪を奮う。だが、痛みに耐えながらの攻撃は、先程よりも遅く狙いも定まらないものだった。狼矢は落ち着いて爪を左手で弾き、一歩踏み出し右肘を再び腹部に食い込ませた。

「ガ……、ハッ……!」

衝撃で数メートル後退し、膝を付き、腹部を押さえる闇獣。その口元から血の混じった唾液が垂れ、一、二滴地面に落ちた。純粋な力の差では闇獣が優位だ。しかし、狼矢はその差を感じさせない程の戦いを見せていた。それは偏にガルシュという歴戦の勇士が、狼矢の味方をしているからに他ならない。狼矢が一歩闇獣へ近付くと、

「何でだ……。」

「……?」

突然、闇獣が肩を震わせ、狼矢に問い掛ける。狼矢は足を止めた。

「何でてめぇは、あんな人間共の味方をするんだよ!! あんな、弱っちくて生きる価値のねぇ奴等なんかに!!」

「生きる価値が無い、だと……。」

狼矢は闇獣の発言に戸惑いと怒りを覚えた。狼矢が臨戦体勢を取っているにも関わらず、闇獣は続ける。

「だってそうだろう? あいつ等は力は弱ぇし、武器に頼らなきゃ戦いもしねぇ腰抜け連中。その癖、一丁前にでかい口をほざいて虚勢を張りやがる。そういう奴等見てるとムカッ腹が立つんだよ!」

「……。」

「けど俺様は違う。俺様は化け物の力を手に入れた。独りだろうが、人間共を蹂躙することが簡単に出来る。こんなに嬉しいことがあるか? あんなゴミ屑連中をこの爪一薙ぎで、いとも簡単に殺せるんだぜ?」

闇獣は苦悶の表情が歪な嘲笑へと変わっていた。狼矢は恐ろしいと思う反面、憤りを感じていた。誰かに復讐する為に闇獣になってしまった。そうであって欲しいと勝手な願望を抱いていたが、その想いも儚く崩れ去ってしまった。その独りよがりの願望が狼矢を怒りに駆り立てていった。

「てめぇもこっちに来いよ。あんな連中に加担するこたぁねぇ。本能の赴くまま、人間共を傷付けてストレス発散して、腹が減ったらそいつを食えばいい。化け物らしく自由に生きようぜ……?」

闇獣が手を伸ばしてくる。

「ふざけるなぁ!!」

狼矢の怒号が響く。牙が折れる程に噛み締め、鼻皺をマズルに刻んでいた。

「それだけの為に……、お前は何人の人間を傷付けた! そんなこと、許される訳がないだろ!」

狼矢の怒りは頂点に達しようとしていた。だが、闇獣は構わず、身勝手な言い分を言い放った。

「許されるね! 俺様は人間共の法では裁けねぇ化け物だ。何をしようと俺様の自由、お咎めも何もねぇんだ。それによぉ……。」

「……?」

闇獣は今まで見せた表情の中で、一番の邪悪に満ちた歪んだ笑顔を見せた。

「力のねぇ奴等は、力ある者に食われる。それが、自然の摂理ってもんだろう?」

その言葉は狼矢の怒りの火に油を注ぎ、業火となって燃え盛った。

「黙れぇ!! 今すぐお前の喉笛を掻っ切って、その減らず口、二度と叩けないようにしてやる!」

狼矢とは思えない言葉を発し、今にも闇獣へと飛び掛からんとする勢いであった。が、頭の中でガルシュが制する。

「落ち着け狼矢。奴の口車に乗るな。」

だが、ガルシュの言葉を無視し、狼矢は地面を思い切り蹴り、闇獣へ向かっていく。

「ハハハッ、来いよぉ!! 化け物みてぇに、俺を殺してみせろやぁ!!」

「ウオォッ!!」

まるで野生の狼が獲物に食いかからんとするように、狼矢は牙を剥き、闇獣の喉目掛けて飛び掛かった。闇獣はこれを待っていたかのように、深く息を吸い込み始めた。それをガルシュは見逃さなかった。

「まさか奴の狙いは……。狼矢、すぐに防御の姿勢を取れ! 狼矢!」

ガルシュの呼び掛けに狼矢は応じず、ただ闇獣を倒さんと突き進んでいた。

「このままでは、直撃は免れぬな……。やむを得ん……、狼矢、一時ひととき体を借りるぞ!」

次の瞬間、ガルシュは狼矢に手を握らせ、爪を食い込ませた。鋭い爪は手の平の皮も肉も軽々と突き破り、出血と共に狼矢に激痛が走った。

「痛っ!?」

怒りで我を忘れていた狼矢にとっては思いも寄らない事態であった。だが、そのお陰か、周りが見えない程の激しい怒りが幾分か収まっていた。闇獣に焦点を合わせると、息を吸い込み、体を少し仰け反らせた体勢でこちらを見ているのが分かった。そして、

「グオォーーッ!!」

咆哮と共に息を吐き出した。その咆哮は衝撃波となり、空中の狼矢へ放たれた。避けようにも、空中では体を動かすことが出来ず、今の狼矢には成す術が無かった。だが、狼矢の体は自分の意思に反し、両腕を交差し防御の体勢を取っていた。その刹那、全身に激しい衝撃が襲い掛かってきた。まるで、鉄球の直撃を受けたかのような、強く重いものであった。

「う……、あぁ……!」

狼矢は防御の体勢のまま、衝撃波に吹き飛ばされ、そのまま地面に叩き付けられた。

「ハァッ、ハァッ……、ヘ、ヘヘッ……。」

咆哮の衝撃波を放った闇獣は、肩で息をしながら笑っていた。

「どうだ、俺様の強さは!! 同じ化け物だろうが、俺様に逆らう奴はこうなるんだよ!!」

フラフラと歩きながら、闇獣は狼矢へ近付いていく。狼矢は倒れたまま動く気配がない。

「ヒヒヒッ……、手足をもぎ取ってやろうか? それとも、腹を引き裂いてやろうか? 喉を噛み千切ってやろうか? どうやって殺してやろうか……、あぁ、迷う、迷うぜぇ。ヒャハハハッ!」

闇獣が爪を構えたその時、

「……言いたいことはそれだけか?」

低い声と共に、狼矢はむくりと起き上がった。

「な、何……!?」

闇獣は眼を見開き、驚愕する。狼矢は首と肩を回し、関節を鳴らし、闇獣を見据える。その眼には狼矢には無い、より野生味を帯びた光が宿っていた。

「狼矢、しっかりせぬか。」

ガルシュが脳内に呼び掛ける。咆哮の衝撃波を受ける瞬間、ガルシュは戦いを通して得た勘というものが働き、強引ではあるが、体の主導権を一時的に手にしていた。だが、その判断は正しかったようだ。咄嗟に防御したお陰か、傷は浅かった。

「ガ、ガルシュ……、お前が防御を……?」

「咄嗟とは言え済まぬな。だが、最小限に抑えられた。」

狼矢は自分の部屋で聞いた、ガルシュの「余程のこと」というものが何なのか、今はっきりと分かった。戦いにおいて、冷静さを欠いてしまえば、戦闘で不利になってしまう確率が上がってしまう。それを防ぐ為に、一方が何事にも動じること無く状況を把握しなければならない。ガルシュはその役目を担ってくれていたのだ。

「ごめん、ガルシュ……。」

「気にするな。貴様はまだ戦いの空気というものに慣れてはおらぬ。感情に流されるであろうことは既に想定していた。……さて、狼矢、体を返すぞ。」

そう言って、ガルシュは体の主導権を手放した。狼矢は戻った自分の体の感覚を確かめるように、手を握ったり閉じたりした。先程、ガルシュが咄嗟に爪を突き刺した手の平の傷は、既に塞がりかけていた。

「今度はやれるな?」

再び頭の中にガルシュの声が響く。狼矢は軽く頷き、両手で頬を叩き、気合いを入れ直した。

「大丈夫。もう頭は冷えてる。」

「よし、では再開だ。」

狼矢は深く息を吸い、闇獣を見据え、一歩前へ踏み出した。

「そ、そんな馬鹿な……! あれを食らって……、な、何で立っていられるんだ、てめぇは!?」

一歩、また一歩と近付いてくる狼矢に、闇獣はこの上無い程の恐怖を感じ、一歩、また一歩と後ずさった。

「さぁね。それよりも、しないのか?」

「……?」

狼矢は手の指をクイッと曲げ、

「俺の手足をもぎ取るんだろう? 腹を引き裂くんだろう? 喉を噛み千切るんだろう? じゃあ、やってみせろよ。」

不敵な笑みを浮かべ挑発した。闇獣は後ずさる足を止め、恐怖を怒りで圧し殺した。

「ナメやがってぇ……。あぁ、殺ってやる、殺ってやるぞ!! このクソ犬ガァ!!」

空に狼の怒号が響き渡り、周辺の空気を震わせた。狼矢は眼を細め、空気の震動に耐える。その時、狼矢の眼があるものを捉えた。

「あれは……。」

狼矢が捉えたものは、闇獣の胸から発せられる紫色の光であった。その光は不気味さと禍々しさを兼ね備えていた。

「ガルシュ、まさか、あれが!?」

「そうだ。あれが奴の、闇獣の『種』だ。あれを砕きさえすれば……。」

「俺達の、勝ち……!」

「『種』の場所が分かった以上、そこを狙うのみ! 狼矢、この好機、物にしてみせよ。貴様なら必ずや出来る!」

頭の中にガルシュの激励が響く。それに応えるように、狼矢は大地を蹴った。

「ガアァッ!」

闇獣は理性を捨て去り、まるで獣のように、狼矢へと襲い掛かった。狼矢は冷静に相手の動きを観察し、次々と闇獣の爪牙をかわしていく。だが、本能のまま戦っているとはいえ、『種』への守りは堅かった。爪で切り裂こうと狼矢は何度も手刀を繰り出すも、無意識か、はたまた『種』の意思か、どちらにせよすんでのところでかわされてしまう。だが、狼矢に後退はない。攻め抜くだけである。

「来い!!」

狼矢の凛とした声に呼応するかのように、再び、闇獣の猛攻が始まる。狼矢はかわしながら隙を伺う。そして、五度目の牙をかわすと、闇獣は獲物に飛び掛かる獣のような攻撃を仕掛けてきた。狼矢は待っていたとばかりに、当たるすれすれで攻撃をかわし、右の爪を繰り出す。当然、闇獣もそれに反応して、着地と同時に四本の手足をバネに後ろへ跳び退く。だが、狼矢の攻撃はこれで終わりでは無かった。右の爪を振り上げる途中で止め、両手を地面に付け、闇獣の真似をするように、四本の手足をバネにして飛び掛かる。

「……!?」

「うおぉっ!!」

狼矢は闇獣の喉目掛けて噛み付き、地面に叩き付けた。そして、

「貰った……!!」

がら空きとなった胸、正確には心臓の部分から発する光へ爪を突き刺した。すると、小さなガラス容器が割れるような音が聞こえ、光が弾けた。狼矢は牙を離し、爪を抜き、闇獣から跳び退いた。

「やった、のか……?」

「うむ、『種』を破壊した確かな感覚があった。気配も消えていく。我等の勝利だ。」

狼矢は先程突き刺した方の手を見る。指の第二関節まで闇獣の血が付着していた。どうやら、『種』は然程深い場所に生成される訳ではないようだ。狼矢がホッと胸を撫で下ろしたその時、

「グルゥ……、て、めぇ……!」

首と胸から血を流しながら、闇獣が起き上がったのだ。

「えぇ!? ちょ、ちょっとガルシュ、あいつまだ生きてるぞ!?」

「うむ、そうだな。」

動揺と焦りを見せる狼矢とは対称的に、ガルシュは冷静沈着のままだった。

「よくもやりやがったなぁ……! 楽に死ねると思うなよ!!」

闇獣は爪を構えてゆっくりと歩いてくる。

「ど、どうする!?」

「どうする、と言われてもな。貴様は何もする必要はない。」

「何もする必要はない、って……。」

「うおらぁ!!」

動揺と焦りに気を取られていた狼矢は、闇獣の爪に気付かず、反応が遅れてしまった。防御も間に合わない。

「……っ!!」

眼を閉じ、痛みに耐えようと力んだ。だが、狼矢の体からは血飛沫一つ舞うことは無かった。

「……痛く、ない……?」

恐る恐る眼を開くと、狼矢の体に闇獣の爪が届いてはいなかった。いや、正確には『消えて』いたのだ。

「な、何だこりゃあぁ!?」

突如、闇獣が驚嘆の声を上げた。先程繰り出した方の腕は、手首から下が消えていたのだ。そして、手首からは砂が流れ落ちていた。

「ど、どうなってるんだ……。」

「『発芽』した状態とは謂わば、歪みの力を直に受けるということ。力を直に受ければ、人間の体など容易く崩壊し、歪みの力に支配される。その『種』を破壊すると、歪みの力によって繋ぎ止められた体も共に滅び、大地へと還るのだ。」

「だから砂、なのか……。」

「今、此奴こやつが動けるのは、獣人の高い生命力故だ。直に全てが砂に変わる。」

ガルシュの説明が終わる頃には、闇獣の足も砂へ変わり、バランスを崩した闇獣は地面に倒れ込んだ。最早、攻撃に出ることも出来ないだろう。

「くそ……、てめぇ、一体何しやがった……!?」

「お前の憎悪の『種』を破壊した。お前の命はあと僅かだ。その命が尽きるまで、今までやってきたことを懺悔しろ。」

闇獣は狼矢の言葉に納得したかのように、抵抗せず俯き黙り込んだ。狼矢は闇獣に背を向け、その場から立ち去ろうとした。だが、

「フフッ、ハハハッ……。」

闇獣が渇いた笑い声を上げた。

「いつか……、てめぇは俺様と同じになるぜ……。」

「……。」

狼矢は後ろに視線を向ける。

「どんなに人間共に味方しようが、結局はてめぇも化け物なんだよ!! 人間共に忌み嫌われる存在なんだよ!!」

「狼矢、奴の戯れ言など聞く必要はない。行くぞ。」

ガルシュが忠告するも、狼矢は闇獣の捨て台詞とも言える言葉を聞いていた。

「てめぇが助けたあの女だってな、化け物相手に感謝なんて一つもしねぇんだよ。そして悟るんだよ……、人間共に味方することこそが間違いなんだってな!! そうなったら、てめぇも俺様と同じように、化け物らしく暴れて、惨めに死んでいくんだよ。フフフッ、ハハハッ……!!」

狂喜染みた笑いを響かせている途中、喉の部分が砂と化し、ボロリと崩れ、闇獣の声は聞こえなくなった。

「……。」

「聞く必要はないと言ったはずだ。何故聞いていた。」

ガルシュの叱咤が頭の中に響く。

「貴様は人界と獣界を守るという大義を背負って戦っておるのだ。感謝などされずとも、貴様は貴様に出来得る精一杯をしておるだけだ。奴と同じになることなど、万に一つも有りはしない。」

「ガルシュ……。」

「我の信頼だけでは不満か?」

狼矢は軽く首を横に振る。

「いや、充分だよ。それじゃあ、帰ろうか。」

「うむ。直に騒がしくなりそうだしな。」

地面を蹴り、狼矢は狗哭公園を後にした。


十数分後、女性の通報を受けた警察が現場へと到着した。そこには、数ヶ所アスファルトが抉れていて、血痕も多数発見された。だが、その血痕の主の姿は何処にも無く、残っているものといえば、小さな砂山に被さっていたボロボロの衣服のみであった。

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