獣、巡り逢う
三月、日本、昼ーー。
春の足音が聞こえ始めた頃、都立帝獣高校は終業式を迎えていた。
「……矢……狼……狼矢!!」
「え、あ、何……?」
「呼ばれてる。」
「あっ……!」
北神狼矢はクラスメイトの呼び掛けで、ようやく自分が担任に呼ばれていることに気付き、慌てて席を立った。そそくさと教壇に向かい、教師と向き合う。
「ほら、通知表と先週の模試の結果だ。」
教師から渡された二つの用紙を狼矢は受け取る。
「数学と生物は申し分ないが、古文と英語で足を引っ張ってるようだな。」
模試の結果に目を軽く通す。真っ先に目に留まったのは、志望大学の合否評価欄の『C』というアルファベットだった。
「そこさえ克服出来れば、Bまではすぐだ。あと一年、頑張れよ!!」
教師は軽く肩を叩いて激励する。狼矢は軽く礼をして、自分の席に戻る。椅子に座った後、溜め息を漏らした。
「はぁ……。」
「狼矢、どうだったよ、結果。」
前の席に座っているクラスメイト、虎山秀樹が振り返って話し掛けてくる。先程、狼矢を呼び掛けたのも彼である。
「C判定……。マジでショックだよ……。」
「良いじゃねぇか、まだ可能性あるってことなんだしよ。」
「はぁ……、獣医の道は遠いなぁ……。」
狼矢の夢は獣医だ。小さい頃から動物が大好きで、特に犬には強く興味を示す傾向がある。父親は動物学者で大学の准教授、狼矢は父親の背中を見て育ち、いつしか獣医を目指していた。しかし、獣医になる為には、国立の大学に入学することが必須と言っても過言ではなく、その難しさを模試を通して痛感しているところだ。
「ヒデは良いよなぁ……。就職先が決まってるようなもんじゃん。」
「いや、俺は絶対大学でもサッカーする!! 店は勝兄が継ぐんだし。」
ヒデこと秀樹の家は、ラーメン屋。両親と兄の勝也が経営し、秀樹はたまに手伝いをする程度だ。兄が店を継ぐと決めているお陰か、秀樹は好きなサッカーに気兼ねなく打ち込めているのだ。だが、
「でも大学行くなら、勉強しなきゃ。」
秀樹の成績はお世辞にも良いとは言えず、ギリギリ進級が決まってホッとした、というくらいのものだ。
「う、うるせぇなぁ……。今度のインターハイで成績残して、推薦勝ち取ってやる。」
「じゃあ授業中に寝ることはやめるんだな。」
後ろを向いていたせいか、教師の気配に気付かず、学級日誌の黒冊子の背表紙が、秀樹の頭を直撃した。
「痛ったぁ……。」
教室からは小さな笑い声が所々から聞こえてきた。
「さっ、今日をもって、このクラスは終わりだ。四月からはみんな最上級生の三年生だ。高校生活はあと一年しか無いが、みんな悔いのないよう勉学に、部活に励むように。では、解散。」
「起立!! 礼!!」
「ありがとうございました!!」
日直の号令と共に生徒は深々と頭を下げる。教師は少し目を潤ませながら、教室を去っていった。
「狼矢、一緒に帰ろうぜ。」
秀樹は既に帰り支度を終え、バッグを肩にかけていた。
「早いなぁ、お前……。ちょっと待ってろって。」
狼矢もいそいそとバッグに教科書やノート、模試の成績表などを入れていく。時間にして、一分弱で帰り支度を済ませ、秀樹と共に教室を後にする。その直後、
「あ、狼矢、ヒデー!!」
二人を呼ぶ声が聞こえ、その方向を向くと、一人の男子生徒が走って来ていた。
「何だよ、お前達だけで帰るとかずるいぞー。」
彼の名は蝠本蒼司。二人とは同級生、しかも小学校の頃からの幼馴染みだ。クラスは違えど、三人の仲は高校生の今でも良好である。
「ちゃんと誘うつもりだったよ。なっ、ヒデ。」
「あぁ。逆にお前が一人で帰ってたら最悪だったけどなー。」
「本当かよー。まっ、それはいいとして、ゲーセン寄っていこうぜ。んで、帰りはヒデの店で昼飯、ってのはどうだ?」
「おっ、良いじゃん。俺賛成。狼矢は?」
二人の視線が狼矢に向く。狼矢の答えも勿論、
「俺も賛成。」
「よし、そうと決まれば早く行こうぜ!!」
そう言って、秀樹が先陣を切って走っていく。
「あ、ずりぃぞヒデ!!」
「ちょ、二人共、先行くなよー!!」
その後を蒼司、やや遅れて狼矢が追い掛ける。昇降口の靴箱に到着し、三人は靴を履き替え、帝獣高校を後にした。
時は二○三○年、日本ーー。
東京の一角にある町、霞牙町。古くから動物との係わりが強く、この町の至るところに動物の名を冠する名所が点在する。その霞牙町にある都立帝獣高校の二学年に狼矢、秀樹、蒼司は在校している。三人は電車に乗る為、霞牙駅に居た。
「俺達も遂に三年かぁ。」
秀樹が口を開く。サッカーを小学生から続けていて、今では副キャプテンにまで上り詰めた。三人の中では一番背が高く、体格もなかなか良い。が、部活に専念し過ぎたせいか、学力はイマイチである。
「受験生にはなりたくねぇなぁ……。練習出来る日が少なくなっちまう。」
蒼司は学生同士で組んだ音楽バンドのギターとボーカルを担当している。小さい頃から歌手を目指していただけあって、ギター演奏や歌唱力は学生とは思えない程、ハイレベルである。
「俺は勉強、もっと頑張らないとなぁ……。」
狼矢は見た目こそ平々凡々ではあるが、動物に関する知識は人一倍ある。現に、理科の生物の成績だけは常にトップクラスの実力を持っている。それはひとえに、父親の影響故だろう。
「まぁ、あと一年あるんだ。ゆっくりやっていけよ。」
「そうそう。そんな根詰める時期でもないだろ、まだ。」
「そりゃあ、そうだけど……。」
狼矢は軽く溜め息を吐く。よっぽど模試の成績が効いていたようだ。と、その時、
『二番線、電車が参ります。危険ですので、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。』
電車が来るアナウンスが鳴り、一分も経たない内に電車が駅に停車した。
『霞牙ー、霞牙ー。』
ドアが開き、数人の乗客が降りる。三人は電車に乗り込み、椅子に座った。平日昼間のせいか、乗客の数は少ない。なので易々と座ることが出来た。
「まっ、後のことは後で考えることにしとけって。」
秀樹が軽く狼矢の背中を叩く。がたいが良いせいか、軽くでもちょっと痛い。
「……そうだな。」
狼矢はやや諦めたように小さく笑った。
『ドア締まります。』
車内アナウンスが鳴り、ドアが締まり、電車がゆっくりと動き出した。
南霞牙駅ーー。
霞牙駅から都心へ向かう電車で最初に停車する駅。霞牙駅周辺は、やや田舎情緒が残る場所ではあるが、南霞牙駅周辺は対称的に、ビルやショッピングセンターなどが軒を連ねている。三人が霞牙駅で電車に乗り込んでいた時、この駅周辺に一つの影が降り立った。
「近いな……。」
その影は空を仰ぐ。快晴、とまではいかないものの、穏やかな空が広がっている。
「奴等に狙われる前に、何としても会わねば……。」
その影は人目に触れないよう、駅周辺を歩き始めた。それと時を同じくして、狼矢達3人が南霞牙駅に到着し、駅から出てきた。この駅周辺にはゲームセンターもあり、帝獣高校の生徒達の行きつけである。その影は三人を目撃し、目を見開く。
「……!」
居たのだ。その影が探していた者が。しばらく釘付けになっていたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「まさか、このような時に巡り逢うことになろうとは……。青天の霹靂とはまさにこのことか。」
だが、三人は当初の目的通り、ゲームセンターの中へと入っていった。その影は追うことはせず、ただ待つことにした。
「……見定めねばならぬ。彼奴が如何な人間かを……。」
しばらくして、三人は談笑しながら、ゲームセンターを後にした。時間にして約一時間半といったところだろう。
「やっぱり蒼司には敵わないなぁ。」
「そりゃあバンドやってんだ。音ゲーじゃあ、二人に負ける訳にはいかねぇよ。」
自慢気に蒼司が言う。音楽に合わせてボタンを押すゲームでは、蒼司が圧倒的な強さで二人を寄せ付けぬ得点を叩き出した。
「けど、レースゲーじゃあ、俺の勝ちだったけどな。」
秀樹はサッカーの他に、レースゲームが得意である。コースの位置取りが上手く、内側を攻める技術は三人の中では群を抜いている。
「狼矢も狼矢であんな読み、なかなか出来ないよなぁ。そこからあんな格好良いコンボに繋げていくんだもんなぁ。」
狼矢は二つのゲームではまずまずな成績ではあったが、対戦格闘ゲームのセンスはなかなかのものである。一コインで五連勝を達成した。ただ本人曰く、あまり調子が出なかったと言う。
「んじゃあ、早速俺の家で飯食おうぜ。」
「そうだ……な。」
ふと、狼矢の足が止まる。そして視線は駅とは違う方向を向いていた。
「どうした?」
「ちょっとごめん。」
蒼司の問いかけに軽い返事を返し、視線の先へ走って向かっていった。
「お、おい。」
二人は後を追い掛けるが、すぐに走って向かった理由が分かった。狼矢は駅近くのビルの工事現場に伏せていた犬を撫でに行ったのだ。狼矢は犬、特に大型犬が好きで、散歩している子を見つけると撫でに行かずにはいられない質なのだ。
「ははっ、大きいな、お前。何処から来たんだ?」
狼矢は撫でながら、答えが返ってくるはずのない問いをその犬に投げ掛けていた。
「まーた始まったよ、狼矢の悪い癖が。」
追い付いた秀樹が溜め息混じりで辟易する。
「またってなんだよ、またって。良いじゃん、好きなんだからさ。」
「にしてもこいつ、でっかいなぁ……。」
伏せていた犬の大きさは大型犬というより、超大型犬に分類されそうな程で、後脚で立ち上がったなら、三人の中で一番高い秀樹の身長すら越えてしまいそうなくらいだ。毛並みはやや乱れてはいるものの、艶のある銀色と白の獣毛を持っていた。顔も犬というより狼に近かった。
「野良にしてはこいつ、人慣れしてんだな。」
「きっと、人間から餌を貰ってるんだろうね。はぁ、お前みたいな狼犬飼ってみたいなぁ。」
「え、こいつ狼なのか!?」
「そんな訳ねぇじゃん。日本の狼って、もう絶滅したんだろ? なっ、狼矢。」
「ヒデの言う通り、日本の狼は百年前には絶滅しちゃってるんだよ。」
狼矢は悲しげに説明する。
「そんなことよりさ、早く飯食いに帰ろうぜ。もう俺腹減って仕方ねぇよ。」
秀樹は自分の腹の虫が鳴り、手を当て狼矢にアピールする。狼矢は小さく嘆息した。
「分かった分かった。じゃあ行こうか。」
狼矢は立ち上がり、駅の方に向き直る。二人はそれを見て、すぐに駅へと歩を進めた。狼矢は追い掛けるように一、二歩歩いた辺りで一度止まり、再び伏せたままの犬に視線を送り、
「じゃあな。」
と左手を上げて声を掛けた。そして歩き出そうしたその時だった。突然、突風と呼べるに相応しい強い風が左の方から吹き荒れた。歩くのもままならず、狼矢は少し屈んでやり過ごした。その刹那、上の方から重い金属音が鳴り響いてきた。見やるとビルの補強工事用に組まれた上の方の足場が、突風によってズレ、下の足場にぶつかりながら落下し始めていた。今から逃げれば間に合う。そう感じていたが、狼矢は考えとは逆に、伏せていた犬の方へ向き直っていた。
「危ない……!!」
狼矢は何を思ったのか、覆い被さるように犬を身を呈して守る体勢に入っていた。自分自身でも馬鹿な行いであることは重々分かっていた。命の危険すらある行いであることも。しかし、狼矢は尊敬している父親と同じ、獣医を目指している。そんな自分が自分の命惜しさに、動物を見殺しにするなど、到底出来ることではなかった。
「……!!」
落下してくる足場は、ぶつかるところを失い、あとはアスファルトに激突するだけとなっていた。あれだけの重い音を響かせながら落下してきた金属の足場だ。直撃を受ければ、打ち所によっては最悪死が見えるだろう。狼矢は死を覚悟し、目を閉じ、体を強ばらせた。すると、
「己が命よりも我の命を守る、か。やはり、我の鼻に狂いは無かったようだ。」
何処からともなく声が聞こえてきた。低い男性の声だ。狼矢は恐怖で目を開くことも、体を動かすことも出来ず、声の主を知ることが出来なかった。声は更に続ける。
「そのままの体勢で居れ。動けば貴様の体が斬り裂かれるぞ。」
その言葉と共に、狼矢の首下から腹にかけて感じていた毛皮の感触が消え、自分の背中を何かが踏み台にしたような衝撃を感じた。そして、金属の足場がアスファルトに激突した音が、南霞牙駅周辺に鳴り響いた。
「……。」
何が起こったのか、自分はどうなったのか、狼矢には理解が追い付いていなかった。謎の声が聞こえた辺りまでは覚えている。しかし、その後のことが曖昧だ。ただ一つ言えることがあるとするのなら、それは『自分が生きている』ということだろう。狼矢は恐る恐る顔を上げて目を開く。すると、そこには鉄製の足場が目の前に落ちているのが見えた。だが、奇妙なことにそれは真ん中から『斬られて』いたのだ。
「これは、一体……。」
「怪我は無いようだな。」
後ろからあの低い声が聞こえてきた。狼矢はすぐさま振り返り、目を見開いた。そこには、自分が守ろうと覆い被さっていたあの犬が口角を上げて座っていた。その表情は人間がする小さな笑みのようなものであり、その佇まいは犬とは呼ぶには相応しくない程、威圧感に溢れたものであった。
「え、えっ……!? お、お前が喋って……!?」
「むっ、どうした? 獣が言を発することは不自然なことではあるまい?」
さも当然のように語るが、どう見たところで不自然極まりない。
「い、いやいやいや!! 不自然、というかあり得ないし!!」
そう反論する狼矢に、犬は深く溜め息を吐いた。
「何と……、人界の者共は、我等と言葉を交わすことすら忘れているのか。何とも嘆かわしい。」
「え、えぇー……。」
狼矢の頭の中はもう何が何だか分からない状態だった。混乱しているのを見兼ねた犬は狼矢に近付き、狼矢の手の甲を一舐めした。
「だが、貴様に大事無いならそれで良い。いずれまた逢おう。『優しき匂いを持つ者』よ。」
そう告げた後、駅と反対の方向へ走り去っていった。狼矢は茫然と走り去る犬の姿を見ていた。いや犬というよりも、むしろ狼と呼ぶのが相応しいだろう。
「狼矢ー!!」
秀樹の声でようやく我に返った狼矢は、駅の方へ振り向く。二人が慌てて駅の方から戻ってきていた。
「大丈夫か!?」
「あ、あぁ。何とか。」
「ったく、心配かけさせんなよな。飯が不味くなるところだったぞ。」
狼矢は再び、あの狼が走り去った方向を見るが、既に姿は消えていた。
「そういえば、あの犬、どうしたんだ? 姿見えねぇけど。」
「……喋った。」
「……は?」
「い、今、喋ったんだよ、あいつが! あの狼が!」
「……狼矢、頭でも打った?」
蒼司が驚きながらも冷静に返した。すると、少し冷静さを取り戻した狼矢は熱くなる気持ちを抑えた。
「打ってはないけど……、夢、だったのかな……。」
脱力したように、その場に座り込んでいると、巡回していたパトカーが止まり、狼矢は車内に案内され、約小一時間程事情聴取を受けた。勿論、あの狼のことは伏せた。話したところで分かって貰えないし、下手をしたら救急車を呼ばれかねないと踏んだからだ。事情聴取が終わり、ようやく解放された狼矢はすぐに駅へ向かった。改札口付近で、秀樹と蒼司がずっと待っていてくれたのだ。
「ごめん、お待たせ。」
「全く、ヒヤヒヤさせやがって。」
「まぁいいじゃん。怪我とかなかったんだしさ。」
合流し、改札を抜け、電車に乗り込んだ三人は、霞牙駅に戻ってきた。霞牙駅の改札を抜け、三人は駅を後にした。
「はぁ、もう昼飯の時間じゃねぇなぁ。どうする?」
「俺はどっちでもいいけど、狼矢は?」
二人の視線が狼矢に向く。先程のことがあったせいか、まだボーッとしている様子だった。蒼司の呼び掛けにハッとなり、
「あ、え、えっと……、今日はパス、で……。」
慌てて答えた。
「まっ、仕方ねぇか。んじゃ、今日はここで解散ってことで。」
「あ、あぁ。そうだな。じゃあ、また。」
「春休み始まったばっかだし、また三人で昼飯食おうぜ!」
秀樹の言葉を最後に、三人はそれぞれの帰路に就いた。
「はぁ……。」
終始、溜め息ばかりを吐いていた狼矢も、やっと自分の家に辿り着いた。二階建てのごく一般的な一軒家である。肩にかけていたバッグから家の鍵を取り出し、二重ロックの上の鍵穴に差し込もうとしたが、鍵穴には入らず落としてしまった。落ちた衝撃で鍵は跳ね、脇の庭の芝生に着地した。狼矢は再び溜め息をつき、鍵を拾いに行こうとしたその時、彼は気付いた。庭に居るはずのない獣が、まるで狼矢を待っていたかのように座っていたのだ。
「また逢ったな、人間。」
「お、お前は、あの時の……!」
そうあの時の狼だった。狼は立ち上がり、狼矢が落とした鍵をくわえ、狼矢の元へ届けに来た。
「あ、ありがと……。」
狼矢が屈んで手を差し出すと、狼は口を離し、器用に狼矢の手の平に落とした。
「礼には及ばぬ。」
「お前、一体何者なんだ……?」
「立ち話も難だ。貴様の部屋でゆるりと話そう。貴様が知りたいのであれば、の話だが。」
狼はまるで何かを試しているかのような口調で狼矢に問いた。狼矢は一瞬困惑はしたが、興味の方が勝り、狼を招き入れることにした。鍵を開け、ドアを引き玄関へと入る。狼は狼矢とドアの間を縫うように入ってきた。鍵を閉めた狼矢は、一度狼に玄関で待つように言った。狼は素直に狼矢の要望を承諾した。狼矢は靴を脱ぎ、すぐさま洗面所へ向かい、下ろし立ての雑巾を湿らせ、また玄関へ戻ってきた。
「はい、前脚出して。拭くから。」
「律儀な奴だな貴様は。」
「そりゃあ、汚れた脚で上がらせる訳にはいかないからさ。床も汚れるし。」
狼は右の前脚を差し出す。狼矢は濡れた雑巾で丁寧に肉球から爪の先まで拭きあげた。反対も同じように拭く。拭いている途中、狼矢は手を止め、狼の前脚をまじまじと見た。大型犬よりも太くがっしりとした脚と、手の平にギリギリ収まるくらいの脚先。犬好きの狼矢にとっては、この上ない興味をそそられる。
「むっ、どうした?」
「あ、いや、立派な脚だなって。」
「貴様、狼を見るのは初めてか?」
「いや、動物園とかでは見たことあるけど……、間近は無いかな……。はい、じゃあ次は後脚。」
狼矢は後脚も手際良く拭きあげ、改めて狼を家に上がらせた。
「貴様の部屋は何処にある?」
「この階段を上がって左の方だよ。先に上がってて。水飲んで来るから。」
「承知した。」
狼は軽く頷き、階段を上がって行った。狼矢は台所へ向かい、食器棚からコップを取り出し、それに水道水を半分程入れた。手にしたコップの水を一気に飲み干し、狼矢は自分を落ち着かせようとしていた。今のこの状況は明らかに異常だ。野生の狼は日本では既に絶滅している。にも関わらず、さっきあいつは自分を狼だと言った。百歩譲って野生の狼の生き残りだとしても、そもそも動物が喋ること自体が有り得ない。
「何なんだよ、あいつは……。」
その独白に答える者は居ない。だが、一つだけ確かなことは、その問いに答えるのはあの狼であるということ。狼矢はコップを流し台に置き、意を決して自分の部屋へ向かった。階段を上りきり、左の自分の部屋の方を見ると、あの狼が礼儀正しく部屋の前で座って待っていたのだ。
「入らなかったのか?」
「貴様が入って良いと一言も言わなかったからな。」
「お前も律儀な奴だな。」
狼矢は自分の部屋のドアノブに手をかけ、ドアを開けた。
「ちょっとちらかってるけど、大丈夫?」
「構わぬ。我が座れる空間さえあれば良い。」
狼を部屋に入れ、ドアを閉める。肩にかけていたバッグを無造作に床に置き、勉強机の椅子に座った。狼もつられて座る。
「その……、改めて、あの時は有り難う。お前が助けてくれたんだろ? おかげで命拾いしたよ。」
「気にするな。我の指示に従ったのだ。助かって当然だ。」
狼矢は南霞牙駅前で起こったことを思い出す。この狼が俺の下を潜り抜け、背中を蹴って何かをした、ということまでは分かる。しかし、あの鋼鉄製の足場が、いとも簡単に真っ二つに斬れる力とはどんなものなのだろうか。それがこの狼には備わっている、のだろうか。
「で、お前一体何者なんだ? ただの狼、って訳じゃないんだろ?」
「その前に、まだ貴様の名を聞いていなかったな。名は何という?」
質問に質問で返されてしまったが、素性を知る為、狼矢は素直に応じた。
「北神狼矢。狼に弓矢の矢で狼矢だ。」
すると狼は目を細めた。
「狼矢……。狼矢か。フフッ、良い名だ。我はますます貴様が気に入ったぞ。」
幸運に巡り会い、心の底からその偶然に感謝と喜びを感じている。そんな表情であった。しばらく狼矢の顔を見つめていた狼は、息を小さく吐き姿勢を正した。
「ならば、我も名乗るとしよう。我が名はガルシュ。この世界、『人界』の裏側、『獣界』より馳せ参じし、狼族の戦士也。以後見知り置き願おう。」
まるで大河ドラマに出てきそうな古風な口調で狼、ガルシュは名乗った。
「あ、あぁ、宜しく……。それでガルシュ、お前は何の目的で、その、獣界ってところから来たんだ?」
「我等が使命は、この人界に顕現せし『歪み』の元を消し去ること。その為に、この地へ赴いたのだ。その歪みを放置しておけば、我等の獣界をも脅かすこととなる。故に、歪みは放置しておけぬのだ。」
我等、ということは他にも仲間が居るということなのだろう。それでも、その歪み、という言葉に狼矢は疑問符しか浮かばなかった。
「その歪みって何なんだ?」
ある意味、彼等の目的の核心に触れることであった。だが、ガルシュは、
「これより先は我と契約を交わした者のみ、知ることを許す。」
そう言ってその場に伏せた。ガルシュは上目遣いで狼矢を見る。
「貴様には二つの道がある。一つは我との契約を拒み、我を忘れるか。もう一つは我と契約を交わし、この世界で起きている真実を知り、その脅威に立ち向かうか。熟考を重ね、貴様自身で決めよ。」




