月夜の獣
月ーー。
一般的な知識として、地球の周りを公転し、太陽の光を受け、満ち欠けと共に夜を照らす天体、というのが普通だ。更に掘り下げていくと、昔の人々は、その光を時に崇め、時に畏怖したと言われている。だが、人間達は忘れている。その畏怖の感情が、何処からやって来たのか。そして月の光がもたらすものを……。
五月、日本、夕刻ーー。
大型連休が明け、人々は勉学や勤務へ戻っていく時期だ。日は沈み、街灯やネオンの光が至るところに灯り、街は昼間とは別の姿を見せる。その歩道の中を人々は忙しなく歩き、家路に向かう者、打ち上げに向かう者など様々である。そんな中、一人の男が人波を掻き分けながら、息を切らし走っていた。
「ハァッ、ハァッ……。」
何かに怯え、必死に逃げている。そんな様子であったが、周りの人々には時間に追われた一人のサラリーマンにしか見えていなかった。その時、とあるカップルと衝突し、女性は尻餅をついて倒れた。
「いったぁ……。」
「おいオッサン、ちゃんと前見て歩け!!」
彼氏である男性が男に語気を荒げて怒鳴った。普通なら、謝るのが社会人としてのマナーだ。だが、
「煩い!! 邪魔をするな!!」
男は謝るどころか鬼気迫るような言葉を吐き捨て、その場を走り去っていった。彼氏は正気とは思えない殺気立った顔に圧され、追うことが出来なかった。彼氏は彼女に手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
「う、うん、平気。ちょっとお尻打っちゃったけど……。」
彼女は顔を上げ、彼氏の手を握って立ち上がろうとした。そして気付く。目線の先、街灯の先端に立つ人影に。
「えっ……?」
彼女は頭を軽く振り、再び街灯に目をやる。しかしそこには、既に誰も居なかった。呆然としていると、彼氏が彼女の手を引き立ち上がらせ、彼女の視線は街灯から外れた。
「どうかしたか?」
「ねぇ、今、あの街灯の先に人が立ってた……。」
「はぁ?」
彼女が指差す方向を見ると、そこには確かに街灯はあった。だが、人影など見当たらない。ましてや、簡単に登れる高さではなく、人が立っていようものなら、誰かが気付くはずだ。しかし、街行く人々は騒ぎ立てることもせず、普段通り歩いているだけである。
「いねぇじゃん。」
「あ、あれ……? 確かに居たはずなのに……。」
「ったく、尻だけじゃなく、頭も打ったか?」
「夢、だったのかな……。」
梅雨の足音が聞こえて来そうな、そんな暖かな湿気の下、見えない何かから逃げるように走り続けている男。しかし男には分かる。確かに居るのだ。そして、それは少しずつ少しずつ迫って来ているのだ。
「ハァッ、ハァッ……!!」
人混みを抜け、街を抜け、街の灯りも遠いものとなっても尚、ひたすらに男は走っていた。目の前には、街灯が数基立つ中規模な公園が見えていた。男はそこへ逃げ込み、迫り来るものをやり過ごそうと画策していた。男は公園へ入ったことで、ある程度の安心感を得ていた。が、それが同時に油断を生んだ。
「……!?」
安心感により足が縺れ、その場に倒れ込んでしまった。駅からここまでかなりの距離を走ってきたのだ。足の疲労もピークを迎えていた。しかし、自身の身を案じればこそ、疲労など二の次になるものだ。男はよろよろと起き上がり、脇の茂みへ隠れようとした。だが、それは叶わなかった。何故なら……。
「追い付いたぞ……。」
男の目の前に、それは立っていた。街灯の光を背に受けた、身長二メートル近くもあろう長身の人影が立ちはだかっていた。ファンタジーの世界でよく見るような、ローブを纏い、フードを被って顔は見えなかった。男はそれを見て、驚きと恐怖で尻餅をつき、そのまま後退った。人影は一歩一歩、男に近付いていく。
「ヒ、ヒイィィッ!! ま、待て、話せば分かる……。」
「……。」
人影は言葉を発することなく、一歩、また一歩と近付く。フードの中から金色の双眸が静かに男を見つめていた。
「か、金か? 金ならやる。だから……。」
助けて欲しい、という言葉を紡ぐことなく、人影が言葉を遮った。
「いい加減、本性を顕したらどうだ? 俺にはそんな演技、通用しない。」
「は、はぁ……? 一体、何のことだか……。」
人影は更に続けた。
「惚けても無駄だ。あんたから、血の臭いがするんだよ。それも多くのな!!」
「……!?」
男は目を見開き、自分の腕の臭いを嗅ぐ。だが、血の臭いなどしない。汗の臭いしかしなかった。
「体は洗って臭いは消えてはいるが、あんたのスーツからは臭ってくるんだよ」
「……。」
「さぁ、観念して貰おうか!!」
人影は更に近付く。男は俯き、無言のままだったが、しばらくして肩を震わせ、頭を抱え観念したように笑い出した。
「フフフッ……ハハハッ、まさかスーツの裏側まで鼻が利くとはなぁ。お前も『化け物』か!!」
男は人影に向かってそう言い放った。人影は歩みを止めた。金色の双眸からは怒りとも哀れみとも取れる光を帯びていた。男はゆっくりと立ち上がり、人影と向かい合う。その表情から怯えは微塵も感じられず、むしろ狂気という言葉が似合う程の歪んだ笑みを浮かべていた。
「あーあ。折角お前を巻いて、あの気に入らない餓鬼共を喰ってやろうと思ってたのによぉ!!」
男はスーツを脱ぎ捨て、狂気の言葉を発する。人影は動じることなく相対する。
「どちらにしろ、あんたはここで倒す。これ以上、人間に手出しはさせない。」
「手出しさせない、だとぉ? ハッ、正義感振りやがって、気に入らねぇ!! それなら、先にお前をバラして喰ってやる!!」
男は深く息を吸い、大声で叫んだ。いや、叫んだというのは間違いだ。正確には、吼えたのだ。男の声は人間の声ではなく、まるで獅子の咆哮のごとき、低く重いものであった。その咆哮と共に、男の体に変化が訪れた。体の筋肉は一回り、二回りと肥大し、着ていたシャツやズボンがその体積に耐え切れず、音を立てて破れていく。丸みを帯びた爪は、物を切り裂くことに特化した鉤状のものに生え替わる。全身の骨が、形から変わっていくように鈍く軋む音を響かせ、変化は更に続く。鼻から口にかけ、骨が伸び、平たい歯は鋭い牙となり、鼻は黒く湿り気を帯びる。黒かった髪は褐色へと色を変え、首回りを覆う鬣となる。そして、体中をバフ色の毛皮が覆い、尾てい骨の辺りからズボンを突き破り、先端に褐色の毛が密集した長い尻尾が生える。
「フゥ……フゥ……グフフ……この姿になっちまった以上、もう止められねぇぞぉ!!」
中肉中背、何処にでも居そうな中年の男は、数分の間に、筋骨隆々、二足歩行のライオンの化け物へと姿を変えた。獣の頭部に人間の体。人はこの異形を『獣人』と呼ぶ。と、その時、ライオンの獣人、『獅人』の男から爆音のような音が鳴り始めた。
「ヘヘッ……聴こえただろう? 今、俺の腹の虫が鳴いた。つまり、お前を喰いたくて喰いたくてうずうずしてるってことだよぉ!!」
今の男の身長は優に二メートルを越し、威圧感の増した低い声で威嚇と挑発をしてくる。対する、フードを被った人影は、溜め息を一つついた後、首元の結び目に手をかけ、解いた。
「挑発なんてしなくても、俺は逃げも隠れもしない。ただ、あんたを倒すことだけを考えている。そんなに吠えなくても相手してやるよ」
ローブに手をかけ、一気に脱ぎ去った。そこに居たのは、これまた人間ではなかった。三角形の耳、伸びた口吻、生え揃う牙。細身ながらも極限まで絞られ、無駄のない筋肉。そして、月明かりに照らされ、幻想的に輝く銀と白のコントラストが美しい毛皮と尻尾。彼もまた『獣人』。狼の獣人、『狼人』であった。
「人間に仇為す獣を狩ることが、俺達の役目。あんたをここで始末する!!」
狼人が腰を落とし、構えを取る。それを見た獅人は口元を吊り上げ笑う。
「ハッ、そんなひょろひょろの犬っころに、百獣の王たるこの俺が負ける訳ねぇだろうが!!」
先に仕掛けたのは獅人の方だった。丸太の如き太い腕を振りかぶり、狼人へ向かっていった。二メートルを越す巨体とは思えない俊敏な動きで、一気に間合いを詰める。
「おらぁ!!」
大岩すら砕きそうなその拳を、狼人に向けて放った。しかし、骨を砕く感触は感じられなかった。狼人は当たる寸前で避け、再び間合いを取った。
「チッ、一回避けたくらいで…!!」
続けざまに獅人は拳を振り回す。だがどれも、狼人に当てることは叶わなかった。狼人は獅人の動きをよく観察し、しっかりと見切っていた。獅人は次第に苛立ちと焦りを感じていた。
「クソッ、ちょこまか動きやがって……!!」
その焦りが、狼人に好機をもたらす。再び間合いを詰め、右の拳を放つ。が、狼人は軽々と避け、逆に獅人は大振り過ぎたのか、大きな隙を見せてしまった。狼人はそれを見逃さず、腰を落とし、左の拳を獅人の腹に見舞った。
「グハァッ!!」
骨こそ折れてはいないものの、内臓にまで響く程の衝撃が獅人を襲う。軽くよろめきながらも、膝を着くことなく堪えた。が、狼人の攻撃はまだ終わってはいなかった。拳を放った後、獅人の後ろに回り込み、回し蹴り食らわせる。獅人はガードすることが出来ず、吹き飛ばされる。
「グゥッ……!!」
吹き飛ばされた方向へ狼人も向かう。だが、獅人の方もやられっぱなしではなかった。
「調子に乗るなよ、クソ犬ガァ!!」
中空で半回転し、強靭な足を地面に突き刺しブレーキをかける。そして向かって来た狼人へ拳を放つ。これには狼人も面食らったが、両腕をクロスさせ防御の姿勢を取り、ダメージを最小限に抑えた。だが、拳の威力は凄まじく、ガードしたにも関わらず、後方へ押されていった。狼人は両足でブレーキをかけているが、威力の方が勝り、減速するに至らなかった。狼人がちらりと後方に目を遣ると、公園に植えられた大木が映った。このままでは激突は免れないだろう。大木に激突したところで、彼は死なない。が、問題は別にあった。前方に視線を戻すと、獅人の男が猛然と追い掛けて来ている。このまま激突すれば隙が生じ、獅人の攻撃をまともに受けてしまう可能性が高い。
「どうする……?」
狼人が小さく呟く。と、何を思い付いたのか、地面を蹴り、ブレーキのかからないまま、中空へ身を預けた。その結果、大木へ背中から一直線に向かう形となった。が、次の瞬間、狼人はバク転の要領で体を捻り、大木の幹に垂直になるよう足を付き、そのまま一気に蹴り、弾丸の如く獅人へ高速で向かっていった。
「何!?」
獅人は慌てて体勢を立て直そうとしたが、もう全てが遅かった。何かが閃くものが見えた時には、狼人とすれ違い、同時に胸から鮮血が噴き出していた。
「ガッ……ァッ……!」
狼人は両手で地面に着地し、体操の選手のような回転をし、足から無事に着地した。狼人の右手の鉤爪には赤い血糊が付いていた。狼人は右手を払い、血糊を弾いた。獅人は片膝を付き、切り裂かれた胸を押さえていた。
「クソッ……、やってくれたな!!」
獅人は傷口を押さえながら狼人を睨む。だが、狼人は獅人には目もくれず、先程脱ぎ去ったローブを拾いに向かっていた。
「なっ、逃げるつもりか!!」
獅人の怒号が響くが、狼人はそれすら意に介さず、ローブを拾い上げ、土埃を叩き落とし羽織った。そしてようやく獅人に向き直り口を開く。
「もう勝負は付いた。だから帰る」
淡々とした狼人の口調に、獅人は更に怒りを顕にした。
「ふざけんな!! 俺はまだ戦えるぞ!!」
「……。」
「まさかあれがお前の切り札か? それで敵わないと分かって逃げるんだろ。そうなんだろ!?」
「そう思うのなら、かかって来い。そして俺を殺してみろ。」
狼人は、指をクイッと曲げ、挑発をする。それは獅人の怒りの火に油を注ぐようなものであった。
「あぁ、殺してやる!! 今からその顔の骨、バラバラにしてやる!!」
獅人は吼えて狼人の顔面に拳を放つ。対する狼人は目を閉じ、その場から微動だにしなかった。そして拳が狼人の顔面に突き刺さる。だが、骨が砕ける音も、衝撃も響くことはなかった。響いたものは、
「グアァァァッ!?」
獅人の吃驚の咆哮だった。
「腕が……俺の腕ガアァッ!!」
獅人の放たれた拳は狼人の顔面に当たった瞬間、まるで砂の塊が砕けるように、腕ごとボロリと崩れ落ちた。崩れた腕は地面に落下し、文字通り砂の塊が砕けたようにただの砂となっていた。
「あんたの欲望の『種』を破壊した。その『種』は既に『芽』が生えた状態だったからな。あんたはここで死ぬ。」
「何だと……!?」
狼人が話し終えたのと同時に、獅人の体はバランスを崩し、うつ伏せに倒れた。両足も、先の腕と同じように砂となり、体の体重を支えきれず砕けたのだ。
「クソッ……腕も足もなくなったってのに、何で痛みがないんだ……?」
「神経も死んでいるからな。今あんたがそうやって喋れるのは、獣人の強い生命力のお陰だ。けど、もうあんたは死ぬ運命からは逃れ得ない。」
狼人は顔面に付いた砂を叩き、獅人に背を向ける。
「人間を傷付けたあんたに与えてやれるのは、精々痛みのない死、だけだ。甘んじて受けることだな。」
狼人がその場から立ち去ろうとした時、獅人が引き留めた。
「ま、待ってくれ!! 頼む、助けてくれ……!!」
「……。」
「もう、人間は襲わないし危害も加えない。お前、俺の体のことを知ってるんだろ? なら、助ける方法も知ってるはずだ。なぁ、頼む。約束するから……!!」
獅人は必死に懇願した。だが、獅人に向けられた言葉は無慈悲なものであった。
「生憎と、あんたの命乞いを聞くつもりはない。ましてや、その状態から助けられる方法は俺も知らない。だから諦めろ。」
その言葉を残し、狼人は再び背を向け歩き出した。獅人は見捨てらた怒りと迫る死への恐怖、二つの感情がせめぎ合っていたが、怒りの感情が勝り、残った片腕をバネに狼人に飛び掛かった。片腕は力に耐え切れず、崩れ去ったが、体は狼人に向かっていった。狙うは喉。鋭く太い牙を食い込ませることが出来れば、道連れにすることくらいなら出来るだろう。獅人は口を開き、狼人の喉元に噛み付いた。だが、狼人の喉に牙が食い込むことはなかった。牙すらも砂となり、傷一つ付けることは叶わなかった。そして支えを失った体はズルズルと下がり、狼人の体からも落下した。獅人が最期に見た光景は、月明かりを背に、金色の双眸を向けた銀色の狼人の姿だった。次の瞬間、獅人の意識は暗闇の中へ沈んでいった。
「はぁ……。」
狼人は先程まで獅人であった砂の山を見て、小さく溜め息をついた。
「死にたくないなら、人間なんて傷つけなきゃ良かったんだよ……。」
そう独白した後、フードを被り、夜の闇へと消えていった。
その昔、人と獣は共存関係にあった。太陽の刻を人が、月の刻を獣が支配し、互いを侵さず互いを尊敬し合っていた。ところがある時、人は月の刻をも支配下に置こうと、侵攻し始めた。獣達はそれを拒み、抗った。だが、それが更なる争いを生み、長きに渡り人と獣は争い続けた。人ならざる者達の力は、人に畏怖の念を起こさせるには充分だった、と言われている……。




