09.養母ジュリー
ジャレドは昼過ぎに部屋へやって来た。そして彼に導かれるまま、プリシラはグラウツの街を歩く。
彼はプリシラを連れて行きたい場所があると言っていた。だが、そこがどこなのかはまだ教えてもらっていない。
大通りを抜けると、歓楽街の大きな看板が見えてきた。まだ夕方にもなっていないから、人通りはまばらで「準備中」の札を掲げている店が殆どである。
「あの、ジャレドさま? 今日はどちらへ行くのですか」
「養母……の店だ」
「まあ」
「あんたに養母を紹介しておく。俺にもしものことがあったら、あんたは俺の養母を頼れ」
「そんな。ジャレドさまに、もしもなんて」
そんな事は考えたくない。だが身内を紹介してもらえるのは嬉しかった。
「あんたに話した事があると思うが、俺は捨て子で、養父と養母に拾われ、ダカークの街で育ててもらった」
「はい」
「だが養父と養母は、結婚していた訳ではない」
プリシラにはよく分からなかったが、恋人同士のままジャレドの養親となったということだろうか。それとも、ジャレドにとっては親代わりだったが、その二人の関係自体は兄妹や、友人同士だったとか、そんなところだろうか。
プリシラがそんな事を言うと、ジャレドは複雑そうな表情をした。
「まあ、会えば分かる……できれば、あまり驚かないでやって欲しい」
歓楽街の端っこにある店の前に来ると、ジャレドはその扉を開けた。ドアに取り付けられたベルがちりんちりんと音を立てる。そして中から威勢の良い声が飛んできた。
「ちょっと! まだ準備中……あらまあ! ジャレドじゃなあい!」
そう言ってカウンターの中からいそいそと尻を振りながら出てきた人物は、はちきれんばかりの筋肉を纏った、頭がつるつるで髭面の大男であった。
「んまあ! 誰よ、その女の子! あ、分かった! あんたが食べ物を持って行ってあげてた娘ね、そうなんでしょ!」
その大男は、身体をくねくねとさせながらプリシラとジャレドを見比べる。
姿は男性だ。だが喋りや仕草は女性よりも女性らしい。筋肉によってぱつんぱつんになっている衣服は男物だが、腰には可愛らしいフリルのエプロンをつけていた。プリシラは瞬きを繰り返すしかできなかった。
「養母のジュリアスだ」
「ジュリーって呼んでえ!」
ジャレドの淡々とした紹介に呼応するように、大男はウインクした。
「はい。あ、あの。わたくしは、プリシラ……と、申します」
「んまー! あんたにぴったりの可愛い名前! それで? ジャレド、あんたのコレなの?」
ジャレドの養母……は、ジャレドに向かって小指を立てる。プリシラにその意味は分からなかったが、ジャレドは首を振りながら自分の手で養母の手を掴み、下におろさせていた。
「やっぱり驚いたよな」
「い、いえ……」
ジャレドとプリシラは店の隅のテーブルに着いた。ジュリーは飲み物を持って来てくれて、それからはカウンターの中でグラスを拭いたりしているが、こちらの事も気になるようで、時折ちらちらと視線を寄越すのだった。
「はじめは、あんたをこの店の二階に住まわせるべきかとも思ったんだが」
ジュリーの店は、主に日が暮れてからオープンする酒場だ。料理も出していて、夕食をとっていく客も多いが飲んでばかりで朝方まで居座る客もいると言う。
「ここは、夜更けまで騒がしいし……あー、その。客層も、その手の人間なんだ」
ジャレドは視線だけでジュリーを示した。彼の言う「その手の人間」とはジュリーのような人のことなのだろう。だが、プリシラはジュリーのような人に会ったのは初めてだった。未だに混乱している。
「ジャレドさまの、養父さまは、男の方なのですよね」
「そうだ」
養父であったダグラスは数年前に病でこの世を去った。そこでジュリーはダカークを出て店を開く事にしたのだと言う。
「見て分かると思うが、ジュリーも男だ」
「はい」
「ダグラスとジュリーは、いわゆる恋人同士だった。あんたは知らないと思うが、そういう人間も、中にはいる。俺の親になるにあたって、ダグラスは父の役割を、ジュリーは母の役割を担ってくれた」
「そうなのですね」
まだ理解できないような気もするが、ジャレドはまっとうな人間だ。彼を育てたのならば、その養親も悪い人間ではない筈だとプリシラは思った。
「話を戻してもいいか? 客の中には、女というだけで突っかかってくる奴もいたりする訳だ」
ジャレドの部屋にプリシラを一人住まわせるのと、夜の間ずっと騒がしく、女というだけで絡んでくる客──いやらしい目で見るとかではなく、妬みという意味だ──もいる店にプリシラを住まわせるのと、どちらがいいのかジャレドは天秤にかけて考えたらしい。
もちろんジュリーはプリシラを守ってくれるだろうが、彼、いや彼女にもこなすべき本来の仕事がある。それにここは端っことはいえ歓楽街だから、この店の外にも酔っ払いがうろついていたりする。
「あんたが、ジュリーの店の方がいいと言うなら、そうしても構わないが」
「い、いえ。今のおうちの方がいいです。ですが……」
酔っ払いで騒がしいところはちょっと怖い。だが、プリシラに家を譲ったジャレドがこちらで寝泊まりしていることになる。それではジャレドも夜眠れなかったりして、身体がきついのではないだろうか。
「俺は構わん。この店の二階で休むのは慣れてる。あんたはそうもいかないだろ」
「す、すみま……」
プリシラが頭を下げようとすると、ジャレドは半目になってこちらを睨んでいる。
「……ありがとうございます」
すぐに謝罪の言葉を述べてしまうプリシラは、ジャレドから何度か注意を受けた事がある。あんたが謝る必要はない、俺は謝ってほしいわけではない、と。礼に切り替えると、ジャレドは黙って頷いてくれた。
その後はジュリー手製の料理を少し早目の夕食としてご馳走になり、また顔を出す約束をし、ジャレドと一緒に店を出た。
歓楽街を抜けて、大通りに出た時の事である。
「プリシラお嬢様!?」
自分を呼ぶ声に振り返ると、通り沿いの店のドアのところに見覚えのある男がいる。
「マーカス!?」
ヴィレット家の執事を務めていたマーカスだ。彼の名を呼ぶと、マーカスは急いでこちらにやって来て、プリシラの両手を取った。
「ああ、お嬢様……! おなつかしゅうございます」
「マーカス。わたくしもあなたに会いたかったの……!」
マーカスは目を潤ませながらプリシラの両手をぎゅっと握る。
「お嬢様。私はお嬢様が亡くなったと……あれは、嘘なのですね!」
「ええ。わたくしはこのとおり、生きております」
「よかった……! 何かの間違いだと信じておりましたが、お嬢様がお元気そうで、本当に良かった!」
マーカスの話によると、プリシラが修道院へ入った後に屋敷の使用人たちが解雇されていったという。長らくヴィレット家に仕えていたマーカスも、もちろんその中の一人であった。
「使用人が入れ替わっていくと同時に、カミラ様のハープの教師……ジョナス・ケインが屋敷に入り浸るようになったのですよ! 私はあの男がカミラ様の愛人なのではないかと思いますね!」
マーカスは拳を握って力説する。
「あの、それで、お父様は……」
「それなのですよ! お嬢様が屋敷を離れられてから、寝室にこもる事も増えまして……時折広間に顔を出しても、あまり元気がないのです。私はお嬢様を呼び戻してはどうかとしきりにお勧めしていたのですが、そんな時、カミラ様にクビを言い渡されたのです」
「そ、そうなのですか……」
父からの手紙は約半年ほど前から途絶えている。最後に受け取ったものは、父の筆跡であったが、震える手で書いたようにところどころの文字が崩れていた。
屋敷をクビになった後のマーカスは、この大通りにある懐中時計を扱う店に勤める事となったのだった。
「ヴィレット家に骨を埋めるつもりで、バーナード様にお仕えしていたのですが」
「マーカス、ごめんなさい……」
「いいえ! お嬢様が悪いのではございません。時計を売るのもなかなか面白いですよ。それにしても、お嬢様には気の毒なことです。私も何か力になれれば良いのですが」
「どうもありがとう、あなたが元気だと分かっただけで充分です」
マーカスの話は、以前屋敷の近くで会った農夫ハザンのものとだいたい同じであった。
プリシラは三年前に屋敷を離れ、修道院へ入った。その後、ジョナス・ケインが屋敷に入り浸るようになり、古くから勤めていた使用人たちも解雇されていった。プリシラの父も自室にこもりがちとなる。そしてここ一年で使用人はすべて入れ替わり、プリシラを直接知る者はいなくなった……。
ハザンは父を半年ほど見かけないと言っていたのだから、その時までは確実に生きていた筈なのだ。そして今も父は生きているのだと信じたい。だがどうやったら自分の家に帰れるのだろう。どうしたら父の安否を確認できるのだろう。
「俺も何か協力してやりたいが、残念ながら貴族や権力者の知り合いはいない」
マーカスと別れた後、ジャレドがそう呟いた。
「いいえ、ジャレドさまにはもう充分良くして頂いておりますから……それに、マダム・カロリーヌのお店には、時折貴族の方がやってくるのです」
プリシラが知っている貴族とは、つまり自分を疵物だと遠巻きに、好き勝手に噂した人たちのことだ。彼らを頼りたいとは思えなかったが、呑気な事も言っていられない状況のような気もする。
「ちょっと待て……そいつらがカミラやジョナスと繋がっていたら、拙いことになる。あんたが父親のことを探っていると告げ口でもされたら、今度こそ奴らはあんたの息の根を確実に止めにくるかもしれないぞ」
プリシラが今生きていられるのは、ジャレドのおかげである。一度プリシラの殺害に失敗したカミラは、プリシラを着の身着のまま捨て置く事でその存在を消してしまおうとした。
自分は一人では生きていけないと思われているのである。
ジャレドは舐められている事に腹を立てるべきだと言っていたが、もしプリシラに人並みの反骨精神が備わっていたら、カミラは自分を捨て置かず、確実に命を奪いに来ていたのではないだろうか。
自分がまだ生きていて、屋敷や父親のことを探っていると知れたら、カミラはやはりプリシラを始末してしまおうと、新たな手を打つかもしれない。今は何もしない方が良いのだろうか。だが、父の無事だけでも確かめたい。もどかしい気持ちでいっぱいだった。