08.ジャレドの報告
ジャレドと顔を合わせぬままもう一週間が過ぎ、プリシラは二度目の給金を受取った。仕事にはだいぶ慣れてきて、最近では部屋に生地を持ち帰り、空いた時間に刺繍を施したりもしている。こなした枚数が多ければ、その分が給金に上乗せされるのだ。貰えるお金が増えるのは嬉しかった。
八日が経っても、ジャレドは部屋に現れなかった。彼は一週間ほど、と言っていた。天候や相手の動向によって、二、三日ずれる事もあるのかもしれない。
だが九日目になって、プリシラは不安になってきた。最後に会った日、ジャレドはプリシラに「一人でやっていけそうか」と訊ねた。彼はもう、プリシラの前に現れないのではないかという気もしてきたのだ。
彼にしてみればプリシラはとんだお荷物である。ようやく厄介払いできたと彼は思ったのかもしれない。
そしてもう一つ、別の不安が芽生えた。
この集合住宅には四つの部屋があるが、ジャレドしか住んでいない事をプリシラは不思議に思って、何故なのかと訊ねた事がある。彼によると、半年ほど前まではもう一人住んでいたというのだ。ジャレドは左端の部屋だが、その人は右端の部屋に。
そのもう一人は、ジャレドと同じ賞金稼ぎを生業としていた。
やはり彼も出払っている事が多く、滅多に顔を合わせる事もなかったが、部屋に出入りしている雰囲気はなんとなく感じ取れたのだと。それが、ある時からまったく気配が窺えなくなった。少しして、その人は罪人を追いかけている途中で命を落としたのだと噂が流れた。
賞金稼ぎをしていると、予定通りに帰れない事も多々ある。それを見越してある程度先までの家賃を支払っておくのだが、その人は戻らぬまま次の支払いの期限がやってきたようだった。彼の荷物は部屋から出され──と言ってもその荷物はジャレドのように少なかったが──大家によって売り払われた。
プリシラはその話を思い出し、思わず両腕をさすった。ジャレドの身に何かあったのではないか。
ジャレドにもう会えないのではないかと思うと、手元の刺繍に集中できなくなった。プリシラはテーブルの上に生地を置くと、立ち上がり、部屋の中をうろうろとし始めた。
この部屋にジャレドの私物は殆ど無く、貴重品と思しき物は置かれていない。彼がもうプリシラに会いたくないと思ったのならば、取りに帰るような物は何一つないのだ。簡単に行方をくらませることが出来るだろう。
いや、それならまだいい。彼がどこかで怪我をして動けなくなっているのではないか……そう思うと、怖くて仕方がない。どうにかして彼の無事を確かめる方法はないのだろうか。
自分はジャレドの事をほとんど何も知らない。
彼が貧民街で育って、今は賞金稼ぎをしているということだけだ。
プリシラがまだ修道院に入る前、馬車での移動中に貧民街の近くを通りかかったことがある。一緒にいた使用人と家庭教師は、間違っても貧民街へ足を踏み入れてはだめだとプリシラに言い聞かせた。彼らは隙あらばこちらを油断させて金品を騙し取ろうとするのだと。騙し取る手順を省いて、いきなり襲いかかってくることもあるのだと。そして他人の命を犠牲にしてでも、自分の腹や財布をいっぱいにしようとする人間ばかりなのだと聞いた。
プリシラはジャレドに会うまで貧民街出身の人物に出会った事はなかったが、彼からそういった狡猾さはまったく窺えない。むしろジャレドは誠実な人だと思える。
自分が休むと言わなければプリシラは家を追い出される事は無かったかもしれないと、気に病んでくれた。そして部屋を貸してくれて、仕事が決まるまでの面倒も見てくれた。彼はプリシラの事を子供だと思っていたようだから、ひょっとしたら子供の世話をする感覚でやっていただけかもしれないが。
──そうだな。惚れた女なら
──ああ、そうだよ。尻のことだ
ジャレドは悪い人間ではないが、時折彼の言葉や表情に、プリシラはぞくっとさせられる。あの胸に迫る危険な感情は、いったい何なのだろう。
「ち、ちがう……」
そう、違う。今はこんな事を考えている場合ではない。プリシラはぷるぷると首を振った。
どうにかして、彼の養親に連絡を取れないだろうか。ジャレドの育ての母は店をやっていると言っていた。きっと、食べ物を扱う店なのだろう。食堂なのだろうか、惣菜屋なのだろうか、或いは宿屋なのかもしれない。お店がどこにあるのかを聞いておけばよかった。
グラウツの街にそういったお店は何件あるのだろう。こうなったら自分の足で一件一件回って、ジャレドの事を聞いてみようか。
「俺だ」
「ひゃあっ」
その時ノックが響き渡り、ジャレドの声が聞こえた。驚いて妙な叫び声をあげてしまうと、扉の向こうにいるジャレドが訝しんだ。
「おい、あんた、大丈夫か」
「ひ、あ、ジャ、ジャレドさま……っ」
プリシラは扉まで大股で近づくと、急いで掛け金を上げた。扉を開ければ、懐かしいジャレドの姿がある。彼は闇に紛れるような格好をしているのに、プリシラの目には輝く存在のように映った。後光すらさしているように見える。思わず彼に飛びついていた。
「ジャレドさま、ジャレドさま……!」
「お、おい。どうした」
「わたくし、ジャレドさまに何かあったのではないかと……ご無事で、良かった……」
しがみついたジャレドの外套からは、乾いた埃の香りがした。旅の匂いだ。
彼はどの辺を巡ってきたのだろうと考えながら息を吸い込み、プリシラはそこで自分がジャレドに抱きついている事に気づいた。
「あっ。も、申し訳ありま……」
ぱっと離れてジャレドを見上げれば、彼はプリシラに抱きつかれるまま棒立ちになっていた。今は複雑そうに唇を歪めてプリシラを見下ろしている。
「……落ち着いたか」
「ご、ごめんなさ……」
「一人で、心細い思いをしていたのか」
「ごめんなさい……」
思い切り心細かったのだが、そうだと答えてしまったら、なんて情けない奴だと彼は自分に呆れてしまうのではないだろうか。はいともいいえとも言えずにただ詫びる。
「謝る必要はない。こっちこそ、遅くなって悪かったな」
「お仕事、大変だったのですか」
「いや。そっちは早く終わったんだが、他に調べる事があってな。それで時間がかかった。あんたは? 仕事は続いているのか」
「はい。だいぶ慣れました」
ジャレドは持っていた荷物を床に置くと、いつもの木箱の上に腰掛けた。
プリシラはテーブルの上の裁縫道具を片付け、キッチンへ向かう。次にジャレドが来たらお茶を淹れてあげたいと、給金で茶葉やポットを購入していたのだ。
彼にお茶を差し出すと、びっくりした様な顔をされる。
「あんたが用意したのか」
お茶を淹れた事に対する質問だろうか、それとも新しいポットやティーカップについてのことだろうか。そうだ、このような物を買っている余裕があるのならば、彼にお金を返さなくてはいけないのだ。
「あ……ごめんなさい、わたくし……」
プリシラは給金の残りを入れてある巾着を取ろうと立ち上がった。ベッドの、枕の下に隠してあるのだ。だがジャレドの言った言葉に足を止め、振り返る事となる。
「あんたの墓を暴いてきた」
「え……えっ?」
「プリシラ・ヴィレットの墓を、暴いてきたと言ったんだ」
「わ、わたくしの、お墓」
プリシラは──ジャレドの読みでは──継母のカミラとその愛人ジョナスによって、死んだことにされた。ジョナスが言うことには、自分は馬車の事故で崖下に投げ出され、見るも無残な状態で発見されたらしい。亡骸はカミラが確認し、棺はすぐに釘打たれたと。
だからプリシラは棺に入っているのは、本当は誰なのだろうと考えた。カミラとジョナスに雇われたヘクターが、プリシラ殺害を失敗し誤魔化すために、小柄で銀髪の女性の遺体を、顔を潰した状態で彼らに差し出したのかもしれないのだ。他の誰かが犠牲になったのではないかと思うと、気分が悪くなってくる。
「別に恐ろしい話ではない。棺の中は空だった」
「空……」
「いや、詳しく言えば、土嚢がいくつか入っていただけだ。他は木偶人形すら入っていなかった」
棺を運ぶ時にある程度の重さがないと怪しまれる。土嚢はそのための細工だろうとジャレドは言った。
*
プリシラは棺に何もなかったと聞いてほっとした様子を見せた。
だが、呑気に胸を撫で下ろしている場合だろうか。これでカミラとジョナスはヘクターがプリシラ殺害を失敗したことも、彼女が死んではいないことも、知っていたということだ。
ジャレドの読み通りだった。ヘクターの失敗を承知の上で、プリシラの存在の抹殺を急いだのだ。そして教会に葬儀の知らせを出し、プリシラの事は着の身着のままで追い出してしまえば、彼女はどこかでのたれ死ぬだろうと期待されている。
ジャレドに会わなければ、そうなっていた可能性が高い。腹が立って仕方がなかった。カミラとジョナスにも、大人しく利用されるままのプリシラにも。プリシラは弱すぎる。放っておけば本当に死んでしまいそうだ。
いや、待てよ、とジャレドは久しぶりに入った部屋を見渡した。
プリシラは問題なく仕事を続けているようだ。大きな裁縫箱が寝台の近くに置いてある。それに、キッチンにはいくつか食器が増えていた。店で余った布を貰ったのだろうか、テーブルにはクロスが敷かれている。そしてテーブルの上には水の入ったコップに、小さな花が一輪だけ差してあった。殺風景だった部屋に生活感が生まれてきている。
プリシラに運命に抗うほどの強さはないが、流されるままの脆弱な存在という訳ではないのかもしれない。
「それから、報せがもう一つある。あんたにとってはあまり良くない報せだが、耳に入れておいた方がいいだろう」
「はい。な、なんでしょう……?」
「オースティン・ハーヴェイ侯爵のことだ。奴には今婚約者がいるという話だったな」
あの軽薄そうな侯爵は、今の婚約者を大切にしたいからプリシラに関わることは出来ないのだと、薄っぺらな口調で喋っていた。
「その婚約者は、ヴァージニア・ベニントンという公爵家の娘で、今の国王とは少し隔たるが、それでも王家の縁者だ。あんたが修道院に入ってすぐ、ハーヴェイ侯爵はこの娘と婚約している」
「……はあ」
プリシラはピンと来ていないようだった。悔しがる様子もないということは、ハーヴェイ侯爵に何の未練もないのだろう。まあ、あんないけ好かない男に未練を抱くなど愚かなことこの上ないが、それでもプリシラは腹を立てるべきだ。
「まだ分からないのか。あんたは、乗り換えられたんだ」
子爵家の娘も公爵家の娘もジャレドにとっては似たようなものに思えるが、王家の縁者というのはかなり望まれる条件なのではないだろうか。
「オースティン・ハーヴェイにとって、あんたの誘拐は都合が良かった。醜聞を理由に、婚約を破棄できるんだからな」
そしてプリシラが修道院へ身を寄せたと同時にベニントン公爵家に近づいた。
未だ結婚に至っていないのは、ヴァージニアが現在十五歳と年若いせいだ。三年前ならば、ヴァージニアは十二歳である。オースティンは「プリシラとの破談で傷ついた心を癒してくれた女性」と説明していたが、あれは乗り換えの言い訳に過ぎないのだろう……と、思いたい。十二歳の少女に慰めを見出したのならば本格的にとんでもない奴である。
そしてジャレドは疑っていた。プリシラの誘拐犯は捕まらなかったと聞く。
自分が悪者になることなく──ジャレドから見れば充分に悪者なのだが、貴族の世界ではそうではないらしい──プリシラを捨て、ヴァージニアに乗り換えるために、オースティン・ハーヴェイ侯爵本人がプリシラの誘拐を企てたのではないかと。
だがやはりプリシラには腹を立てる様子も悔しがる様子もなかった。
「そうなのですか……」
小さくため息をついて瞳を伏せただけだ。
「なあ。あんた、なめられてるんだぞ。腹は立たないのか」
「誘拐などなさらなくても、オースティン様が婚約を破棄したいと一言申し出てくだされば、わたくしは黙って頷いていたと思います」
少しは怒れよと叱咤したかったが、その時プリシラは例の、ぞっとするほど虚ろな瞳になった。ジャレドは何も言えなくなってしまう。この娘に対し、苛立つべきか哀れと思うべきかも分からなくなった。
「ジャレドさま、お茶のお代わりは如何ですか」
「いや、いい。もう帰る」
「あ、それから……わたくし、ジャレドさまにお金を」
プリシラは財布をしまってあるらしい寝台の方へ向かいだしたので、ジャレドは彼女を呼び止めた。初めの頃は、彼女が本当に金を返すつもりだとは露ほども思っていなかったし、今は、プリシラを取り巻く不幸な境遇を知れば知るほど、受け取り辛いのだ。
「おい、あんた。次の休みはいつだ」
「明後日です」
それに、先ほど抱きつかれた事を思い出す。ジャレドが顔を見せなくて、よほど心細い思いをしたのだろう。鳥の雛は生まれた直後に目に入ったものを親だと思い込む習性があるらしいが、プリシラと初めて出会ったあの夜から、自分がその親鳥になってしまったような気分が、次第に大きくなってきている。
ジャレドははっきり言って、一人では何もできないような女は好みではない。ついでに言えば、野暮ったい下着を身につける女もだ。だがなぜかプリシラの事を放っておけない。自分が見捨てた事で、彼女がのたれ死んだら寝覚めが悪いというのももちろんあるのだろうが。
プリシラのどこか憂いを帯びた表情や、彼女をそうさせてしまった身の回りの不幸な出来事……濁流に流されそうになって、必死に岩にしがみついている雛鳥を思わせるのだ。
本当に、ここまで関わる気は無かったはずなのだが。
「じゃあ、明後日。あんたを連れて行きたい場所がある」