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07.ナイフと微笑み



 翌日ジャレドが自分の部屋を訪ねると──自分の部屋を訪ねる、というのも妙な事だが──プリシラはスツールに座り、テーブルに置いた紙を見比べているところだった。


 どうやら彼女は朝一番に職業紹介所へ出かけてきたらしい。

 服を買いに出かけた際に、紹介所の場所は伝えてはあったが、もう行って来たとは。正直なところジャレドは、プリシラが一人で行ってくるとは思っていなかった。

 このお嬢様の事だ、自分が引っ張っていっても一人では決められず、こっちが「ああしろ、こうしろ、これがいいんじゃないか」と半ば無理やり彼女の職場を決める事になるのだろうと。


「ジャレドさま。あの、貴族のお屋敷の使用人になれば、そのうちお父様を知っている方に会えるかもと思ったのですが」

「ああ」

 回りくどいようだが頼れる人間がいないのであれば、そうするしかない。するとプリシラはしょんぼりと肩をすぼめた。

「そういうお屋敷は、以前の勤め先からの紹介状がないと、雇ってもらえないそうです……」

「ああー……」

 なるほど、そういうシステムなのか。ジャレドは貴人の元で働いた事が無かったので、知らなかった。だが考えてみれば、身元のよく分からない人間を貴族が雇う訳もない。

「それで紹介所の職員の方に、お裁縫や刺繍なら出来ると伝えたところ、いくつか案内してもらったのですが」

「へえ」


 プリシラの差し出した紙をジャレドも読んでみる。いずれも針子の仕事で、住込みのものとそうでないものがあった。当たり前だが、住込みの仕事の方が直接もらえる給料は安い。部屋代や食事代、薪代などが引かれるからだ。

「この店はやめておけ。寝具や制服の貸出代まで別個に取られるぞ。なんだかやり辛そうだ」

 そう言って紙を一枚、伏せた状態でテーブルに置く。

「ここもだめだ。給料はいいが、この募集は半年も前から出ているものだろう」

「はい。条件がいいのに残っているので、不思議に思っていました」

「テイラー・ジャルダン。この店の名前、グラウツの町に住むものなら皆知っている。店主にドラ息子がいるんだが、そいつが従業員の若い娘に手を出すことで有名だ」

「あ、ああ……それで」

「だから、やめておけ」

 ジャレドはいつの間にかプリシラの就職について真剣に考え始めていた。厄介ごとを抱えてしまったとは思っていたが、意外とプリシラは真剣だ。それに事あるごとに、借りた金は必ず返すと言ってくる。


 ジャレドは今まで、貴族というものは人の世話になっても何の恩も感じない種族なのだと思い込んでいた。

 だがプリシラは少し違うようだ。聞けば、彼女はなかなか波乱万丈な人生を送っている。誘拐され、齢十五にして純潔を失ったという誤った認識が広まってしまった。そして婚約者からは破談を言い渡される。きっと、彼女が修道院に入った理由はこれなのだろう。周囲からの好奇の目に堪えられなかったのだ。

 挙句、修道院を出たと思ったら命を狙われて、表向きには死んだ人間になってしまった。

 継母がプリシラを邪魔に思うのならば、遠くに嫁にやってしまうのが一番簡単な方法に思えていたが、ジャレドには全く理解できない理由でプリシラには貰い手が無いという。だから継母にとっては、修道院の閉鎖がプリシラを葬ろうとするきっかけとなったのだろう。


 ジャレドは、背格好が幼いわりにプリシラの表情はやけに大人びていると感じた事を思い出した。彼女のどこか虚ろな瞳は、これまでに彼女に起こった、数多の不運な出来事がそうさせているに違いないと。

 とはいえ、昨日のあの元婚約者……オースティン・ハーヴェイ侯爵と言ったか? プリシラの知り合いらしい人間が通りの向こうからやって来るのを見た時、ジャレドはさっと距離を取った。素性の怪しげな男──つまり、自分──がプリシラと一緒にいてはまずいと思ったからだ。

 彼女は終始舐められっぱなしであった。なぜあんな感じの悪い男に言いたい放題させておくのだと、プリシラに腹が立った。

 彼女があのいけ好かないオースティン・ハーヴェイ侯爵に惚れていたというのならば、哀れだし愚かだと思った。だが、プリシラははっきりと「彼を愛してはいなかった」と言った。少し、ジャレドの溜飲が下がった。

 プリシラは弱いが、優しい。そして優しいが、弱い。

 ──いつ如何なる時も、決して取り乱してはならないと……実の母に、言われておりました

 パンを片手に持ったまま、涙をこぼす彼女が思い浮かぶ。

 あんたはそれでいいのか。元婚約者にも、継母にも舐められっぱなしで悔しくはないのか。もっと強くなれ。そう言ってやりたいが、そこまで立ち入るのは自分の役目ではない筈だ。


「あの……ジャレドさま?」

「なんだ」

「すると、このお店しか、なくなってしまうのですが」

 ジャレドが「ここはやめておけ」と言いながら給料の安すぎる店や、胡散臭い募集の紙を伏せていくと、手元には一枚しか残らなくなった。針子の求人には違いないが、住込みではない。自宅から通って働く形式の店だ。

「……ここから通えばいいだろ」

「け、けれど、それではジャレドさまが」

「もともと、寝るためだけに帰るような部屋だしな。俺は構わん」

 ジャレドは賞金首を追うために街を離れる事が多い。プリシラにも言った通り、眠るために時折帰ってくるだけの部屋だ。家賃が勿体無いとすら思えていた。自分が寝る所ならば養母の店の二階でもいい。ならば、プリシラに貸してやっても良いのではないか。

 ……いや。俺は、誰に対して言い訳めいた事を思っているんだ?

 自分の中に芽生えた不可解な感情を分析しようと眉間に皺を寄せると、深い群青の瞳がこちらを覗いていた。

「そ、それではあまりに申し訳なく……あの、家賃もお支払いしますから、必ず」

「……それは、仕事が決まってから言ってくれ」

「は、はい」


 子犬や子猫、鳥の雛というものは、「どうにかして守ってやらなくては」と思わせる容姿をしている。道端で子を産んだ犬や猫を目にすると、ジャレドですら立ち止まって思わず見入り、微笑みを浮かべてしまうことがある。プリシラに対する感情は、それに近いような気もする。

 求人の紙を丁寧に折りたたむ彼女を見ながら、ジャレドは鳥の雛を思い浮かべていた。



*



 プリシラはマダム・カロリーヌの店で働く事に決まった。

 まずはマダムの目の前で縫製作業をし、速さと正確さのチェックが入る。それから図案通りに刺繍を仕上げられるかという課題を出された。部屋に持ち帰って懸命に刺し、翌日店に持っていくとマダムは頷きながら「問題ないでしょう」と、プリシラを雇うことを決めた。

 ただ、マダム・カロリーヌの店はドレスを扱う店ではない。

 婦人の肌着を売る店で、決まったパターンのものを大量に縫う場合もあれば、貴族や金持ちの注文を受けて特別に仕立てる事もある。刺繍をほどこす時も同様だった。

 ジャレドに婦人肌着を縫う仕事に就いたと報告すると、彼は何とも言えぬ微妙そうな表情をしたが、あれは何だったのだろう。女性の肌着ということで、男の立ちいる事ではないと気まずく思ったのだろうか。


 給金は週に一度支払われる。ジャレドはそれまで食べ物の入ったバスケットを持ってきてくれた。そしてプリシラは生まれて初めての給金を貰うと、それを全てジャレドに差し出した。彼はびっくりした表情で首を振る。

「全部俺に渡して、あんたこれからどうするんだ」

「あ……」

 そういえば、そうだ。これからは食事も自分で用意しなくてはならない。次の給料までにいくらの食費が必要だろう。それから、小さくても良いから部屋に鏡が欲しい。そう考えながら、給金の中から自分で使う分を計算していると、

「これから、一週間ほど街を空ける。あんた一人でやっていけそうか」

「ジャレドさまの……賞金稼ぎのお仕事ですか」

 ジャレドは頷いた。きっと彼は今まで、プリシラの面倒を見る事で本業に専念できなかったのだ。

「今まで、申し訳ありませんでした……」

「俺は別に、あんたに謝ってほしいわけじゃない。一人でやっていけそうならそれでいいんだ」


 彼はポケットから何か小さなものを取り出し、テーブルの上に置いた。小型の、折り畳み式のナイフのように見える。

「あの、これは……」

「あんたにやるよ。護身用に持っておけ」

「ご、護身用?」

 この辺はあまり治安が良くないのだと聞いている。刃物を持っておかなくてはいけないほどなのだろうか。自分に人が刺せるとはとても思えないのだが。

「持っているだけで安心するだろ。御守りみたいなもんだ」

「そ、そうなのですか?」

 プリシラは恐々とナイフに触れる。木製の柄から刃を取り出すと、小型とはいえ意外に厚みがあって丈夫そうだった。

「あんたに人が刺せるとは思えないが、まあ、そうだな。悪い輩に鉢合わせしたら、それでケツでも刺してやればいい。じゃ、俺は出かける」

 ジャレドは上着を着込むと、部屋を出ようと扉へ向かった。プリシラはナイフを手に持ったまま立ち上がって、彼を呼び止める。

「あっ、あのっ。ジャレドさま?」

「なんだ」

「あの……け、けつって、お尻のことですか?」

 そう訊ねると、彼はゆっくりと目を見開いてプリシラを凝視し、やがて笑い出した。肩を揺らしながらジャレドは震えている。

 プリシラは彼が笑った事に驚いた。

 笑いの発作がおさまったらしいジャレドは、プリシラに向き直って今度は微かな笑みを浮かべた。

「ああ、そうだよ。尻のことだ」


 それは、やたらと危険なようでいて、どきりとさせられる笑みだった。

 ジャレドが出て行った扉を、プリシラは呆然と眺める。しなやかで美しい獣に魅せられたように、立ち尽くしていた。

 それから、彼がプリシラからお金を受け取っていない事に気づいたのだった。




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