06.破談の理由
オースティン・ハーヴェイ侯爵。
プリシラのかつての婚約者は、ウェーブがかった艶やかな薄茶色の髪を靡かせながら、ステッキを手にして通りを渡ってくる。身体にぴったり合わせて作った上着は最高級の店のものだろう。最後に会った時と変わらず、彼はお洒落な男性であった。
中性的ともいえる顔を僅かに微笑ませながら、彼はプリシラに言う。
「ああ、本当にプリシラだ。君は、死んだって聞いたけど」
プリシラが死んだという話はこの街の貴族たちにも伝わっているのだろう。だがプリシラが生きていると知っても、オースティンはただ愉快そうに微笑んでいるだけだ。
「わ、わたくしは生きております」
「うん。見れば分かるよ。死んだって、デマだったんだあ」
プリシラはふと思った。オースティン・ハーヴェイは侯爵である。それなりに発言力は持っている。かつての婚約者……そして破談になった相手にそれを頼むのは、あまりに図々しいかもしれない。だが自分は生きていると世間に知ってもらう機会が欲しい。
「あの、オースティン様……」
「うん、何?」
「わたくし、フォートナー女子修道院から戻ってすぐにヴィレットの屋敷を訪ねたのですが、自分が死んだと伝えられました。使用人が変わっていて、わたくしを知っている人がおらず、中に入れてもらえなかったのです」
「あはは、可哀想に」
「オースティン様。わたくしがプリシラ・ヴィレット本人だと、そしてわたくしは生きているのだと、証明するのを手伝っては頂けないでしょうか」
すると、オースティンはプリシラを見おろし、あざけるような薄笑いを浮かべた。心のどこかでやっぱりと、プリシラは思った。
「ええ? それは困るよ。僕には今、婚約者がいるんだ」
「そうなのですか……」
「ああ。君との事があって……僕の傷を癒してくれた優しい女性なんだ。未だに君と繋がりがあるなんて彼女に知られたら、心配させてしまうじゃないか。だからさ……分かるよね?」
「は、はい……」
オースティンが新たに婚約していたとは知らなかったが、プリシラとの破談から約三年も経っている。驚く事ではない。彼は一言「ま、頑張ってよ」とだけ告げると、ひらひらと手を振りながら再び通りの向こうへ行ってしまった。
「いけすかない男だな」
「あ、ジャレドさま……。お待たせして、申し訳ありませんでした」
オースティンと会話している間、姿の見えなくなっていたジャレドであったが、オースティンが行ってしまうとどこからともなく現れる。オースティン・ハーヴェイを形容した言葉からして、話の内容も聞こえていたのだろうか。
「あんたの知り合いなのか」
「はい。あの……オースティン・ハーヴェイ侯爵様とは、婚約をしておりました。ですが三年ほど前、破談となったのです」
「婚約? あんたと? あいつが?」
たった今再会した相手についてそう説明すると、ジャレドは意外そうに訊ね返してきた。
「オースティン様との婚約は、父親同士が決めたものでした」
ジャレドの家に戻ると、プリシラは過去の出来事をジャレドに語った。
親が決めたとはいっても、それはまだプリシラやオースティンが生まれるずっと前の事で、学生時代に仲の良かったらしい父親同士が「自分の子供たちが結婚したら面白いのに」と語り合った延長のようなものであった。
ところがオースティンが生まれてすぐ、彼の両親は戦渦に巻き込まれて亡くなってしまった。隣国アマリアの内乱に巻き込まれたようなものであった。
オースティンの両親は、息子だけでも脱出させようと試みたらしく、彼は奇跡的にラガリエに住む祖母ヘレンの元へ送り届けられたのだった。両親を亡くしたオースティンは生まれたばかりで侯爵を継ぐこととなった。もちろん、後見人を立てていたので、彼が侯爵として采配をとるのはもっと後の事になったのだが。
バーナードはヘレンと幼いオースティンを哀れに思い、プリシラが生まれた後もヘレンと手紙をかわし何かと彼らを気遣っていた。父親同士の口約束だった二人の婚約も、次第に形を帯びてくるようになったのだ。
「だが、破談になったと言っていたな」
「はい……。わたくしが十五の時の事です」
プリシラが十五の歳に、ある事件が起こった。
当時絵画を習っていたプリシラは、風景を描こうと一人で敷地の外に出かけた。遠出と言うほどの事でもない。野花が咲き、小川の流れるその場所からはヴィレットの屋敷を視界にとらえる事が出来ていたのだ。
だが、背後から現れた男たちに、プリシラは誘拐された。あっという間の出来事であった。
「誘拐? 身代金目的か」
「そのようでした」
目隠しをされて馬車に乗せられたプリシラは、その後、どこかの小屋に放り込まれる事となる。目隠しは取ってもらえたし飲食もさせてもらえたが、明かりのない暗い場所に三日ほど閉じ込められたままだった。
その間に犯人たちは身代金をプリシラの父に要求し、受け渡し場所やその他の何かを話し合っていたようだ。犯人は捕まらなかったが、プリシラが解放されると、父親は泣きながら彼女の無事を喜んだ。
しかし、その事件以降、プリシラを取り巻く人々の態度は一変してしまった。まだ正式に社交界に出てはいなかったが、それでも何かの催しに参加することはあった。
周りの貴族たちはプリシラを遠巻きにして内緒話をしたり、或いはプリシラを大変な目に遭ったわねと気遣いながらも、何かを探ろうとする。酷い人は好奇心むき出しでプリシラに話をせがんだ。
やがて、オースティンから破談の申し入れがあった。
『君の事は気の毒だと思うけどさ。こんな事になってしまったんだ……分かるよね?』
というのが彼の言い分である。プリシラは頷くしかなかった。
「よく分からないんだが」
木箱の上に腰掛け、黙って話を聞いていたジャレドが足を組み替えた。
「あんたは何者かに誘拐された」
「はい」
「どうしてそれが婚約破棄の理由になるんだ」
「わたくしを攫った犯人は、数人組の男の方でした。それで……三日ほどわたくしは戻らなかった訳ですから……その、」
この先は言い辛い。これだけでジャレドに分かってもらえないだろうかと、プリシラは口ごもりながら彼をちらと見た。するとジャレドは崩していた姿勢を正し、険しい顔つきになる。
「あんた……手込めにされたのか」
「い、いえ。そのような事は、ありませんでした」
「じゃあ、何がいけないんだ」
「でも、皆がそう思ったと言うことです」
「違うって言えばいいだろ」
「実際はそうでなくとも、一度そう思われたら、もうおしまいなのです」
「……貴族の考える事はよく分からん」
彼は首を振って再び姿勢を崩す。
「あんたが周りから誤解を受けたのは、まあ、分かった。だが、どうして破談になるんだ」
「ど、どうしてって……だって、だって……」
なぜわかってくれないのだろう。プリシラは初めてジャレドに対し、苛立ちのような感情を覚えた。
「わたくしは、罪人に穢された娘という烙印を押されてしまったのです。それで、その……じゅ、じゅ、純潔を失った娘を、妻にと望む方はおりませんから……破談の申し入れも、仕方のないことだと思います」
「そうなのか?」
ジャレドはまだ納得していないようだ。彼は小さなテーブルに身を乗り出した。
「婚約者が酷い目に遭っているんだぜ。慰めるとか、一緒に誤解を解く努力をするとかしないのか? 婚約破棄なんてしたら、あんたはならず者に手込めにされたと、大っぴらに認めるようなものじゃないか」
「そ、それは……」
プリシラは彼の意見に驚いていた。そんな風に考えた事はなかったのだ。これは、体面だけが全てでどうにかして自分を良く見せようとする貴族たちの考え方ではない。実際に周りの貴族たちに彼の考えを主張した所で、鼻で笑われておしまいだろう。
だがジャレドの言葉は、プリシラの中の何かをひっくり返す勢いがあった。
おかしいのは周りの方だと暗に指摘してもらった事は、何よりの慰めになった。同時に、自分は建前だけの冷たい世界で生きてきたのだと……そしてそれを不思議とも思わず黙って流されてきたのだと、悲しくもなった。
「まあ……親の決めた婚約だったと言ったな」
「はい」
「愛だの恋だのが下地にあった訳じゃないなら、そういうものなのか……あんた、あの侯爵を好きだったのか?」
「え。それは……」
自分はオースティンを愛していたのだろうか。
幼いころから何度か顔を合わせていた。将来は彼と結婚するんだよと言われ、嬉しいとも嫌だとも思わずに受け入れていたが、自分は彼に対し愛情を覚えていたのだろうか。
だが今日オースティンと再会して、彼の口添えで自分は生きていると証明できないかと訊ね、薄笑いを浮かべられた時の諦めにも似たようなあの気持ち。彼がプリシラのために骨を折ることなど無いと、心のどこかで知っていた。
自分はオースティンに対し、何一つ期待などしてはいなかったのだ。
「わたくしは……オースティン様を、愛してはおりませんでした」
「じゃあ、いけ好かない男と縁が切れたことは喜ぶべきだな」
ジャレドは立ち上がり、養母の店に戻ると言った。プリシラが仕事を見つけるまでこの部屋を貸してくれるらしい。
「ジャレドさま」
扉に手をかけたジャレドを呼び止める。
「ジャレドさまは……もし、ジャレドさまの婚約者が、わたくしのような烙印を押されてしまったなら、ジャレドさまは慰めて差し上げたり、一緒に誤解を解く努力をなさったりするのですか」
「俺に婚約者だと?」
プリシラの質問にジャレドは眉根を寄せた。どうもピンと来ていないようだ。
「婚約者でなくとも、恋人とか……愛する方であったなら、ジャレドさまは助けようとなさいますか」
「……そうだな。惚れた女なら」
そう言って、彼は部屋から出て行った。
一人になったプリシラは思った。
ジャレドが好きになる女性とは、いったいどのような人なのだろうと。