05.オースティン・ハーヴェイ侯爵
翌朝、プリシラは毛布から這い出すと、寝台の縁にかけて皺を伸ばすようにしておいたドレスをシュミーズの上に着込んだ。自分の持ち物は、今着ているものと、壁のフックに引っ掛けてある外套、それからポケットの中の小銭だけである。
「なんにも、なくなってしまいました……」
カーテンを開けると朝日が差し込んでくる。
かつて実母を失くし、泣いて過ごした時にも朝日は昇ってプリシラを照らした。
母がいなくなったというのに、なぜ陽は昇るのだろう、なぜ皆自分の日常を過ごしていられるのだろうと、胃の辺りがちりちりと痛んだことがある。初夏の庭は母がいなくなる前と同じように輝いていて、嘆く人間にこんなものを見せつけるなんてと、子供心にもそれは無情に思えた。
今度のプリシラは帰る場所を失い、自分の存在すら消されてしまったが、やはり朝日は全てものを照らしていた。
わたくしはまた、歩き出すことができるのでしょうか。どのようにすれば、一歩を踏み出すことができるのでしょうか……?
ぼんやりと粗末なテーブルを眺めていたが、夕べ使った皿がそのままになっている事に気づき、裏手の井戸へと向かった。
ジャレドが去った後すぐに洗ってしまいたかったのだが、真っ暗で何も見えず、この建物には他にも部屋があるというのに、他の住人の気配は全くない。治安が良くないと伝えられていた事もあって、プリシラはそれを後回しにしていたのだ。
何にせよ、やる事があるのは有難い。それが皿を洗うといった細かな事であっても。
皿を洗い終えると、ちょうどジャレドがやって来た。手には朝食の入ったバスケットを持っている。
ジャレドは背が高く──といっても大抵の人間は、大人であればプリシラよりも背が高いのだが──筋肉質だが、筋骨隆々といった感じではない。真っ黒な髪の毛は触れたら硬そうだ。肌は浅黒く、琥珀色の瞳は常に警戒心を湛えて鋭く光っている。まるでしなやかな肉食獣のような人だとプリシラは思った。
だが、その肉食獣が手にしているのはやたらと可愛らしいバスケットだった。
昨日はそこまで観察する余裕がなかったが、バスケットに敷かれたナプキンは小花を散らした刺繍が入っており、中に見える食べ物の入っているであろう包みは、リボンで留められているものもある。たぶん、彼の養母の趣味なのだろう。ジャレドはどんな顔でこれを運んできたのだろうと思うと、少し可笑しく思った。
「飯を持ってきた……どうした?」
「い、いえ。なんでもありません」
せっかく食べ物を持ってきてくれたのに、笑ってはさすがに失礼だ。プリシラはジャレドからバスケットを受取ると、今朝は自分で料理を皿に並べていった。
「あんた、いくつだ」
朝食を食べ終わると、ジャレドがそう訊ねてくる。
「十八です」
プリシラが答えると、彼の表情が強張ったような気がした。
ジャレドはあまり表情のない人だ。実際に、彼が大笑いしたりする場面はプリシラにはあまり想像がつかない。だが今のジャレドは珍しいものでも見るような視線でプリシラを観察している。
「あ、あの……?」
「これからあんたを、孤児院に連れていくつもりだった」
ジャレドは僅かに肩を落とした。
「こ、孤児院……」
「あんたの年齢を読み間違えていた」
ジャレドが自分をいくつだと思っていたのか訊ねるのは恐ろしい気もしたが、身体的な成長は十二か十三の頃にほぼ止まってしまっていた。プリシラ自身、自分よりも小さい女性はあまり見た事がない。もちろん明かな子供は除くが。ジャレドがプリシラを子供と思うのも無理はないだろう。
「だが、あんたはもうヴィレット家の娘ではない。この際、年齢も変えてしまえば問題ないだろう」
彼の言葉に目を見開く。ジャレドはプリシラを子供として孤児院に置いて来ようとしているのだ。
「ま、待ってくださいっ。どうか、それは……」
「なんでだ?」
「い、嫌ですっ。十八にもなって孤児院は嫌ですっ」
「大丈夫だ、十八には見えない」
そういう問題ではない気がする。
いつ如何なる時も取り乱してはならないと実の母に言われていた筈だが、プリシラは今、昨夜涙をこぼした時以上に取り乱していた。
「それにあんた、これからどうするってんだ? 俺だって、いつまでもあんたの世話をするつもりはないぜ」
ジャレドは今にも立ち上がり、プリシラの首根っこを掴みそうな勢いである。一度捕まってしまったら最後、プリシラはひょいと肩に担ぎ上げられ、孤児院へ連れて行かれてしまうだろう。
「は、働きます! どこか……住み込みのお仕事を……さ、探しますから」
「ほお」
ジャレドが上げかけていた腰を下ろしたのでプリシラはホッとした。
「あんた、何かできる事はあるのか。貴族の娘の出来ることなど、限られていると思うが」
「確かにそうでしたが……修道院に入ってからは、自分の身の回りのことはできるようになりました。部屋のお掃除と、お洗濯くらいですが」
「料理も出来るのか」
「い、いえ……ですが、お芋の皮むきや、お豆のさや取りぐらいでしたら」
「ふうん。下働きぐらいなら、できそうか」
ジャレドは指でトントンとテーブルを叩きながら窓の外を見ている。口調も疑わしそうではあるが、プリシラ本人も疑わしかった。自分に何ができるというのか、と。
しかし子供と一緒に孤児院で暮らすというのは……自分よりも年下で、だが身体の大きな子供はたくさんいるだろう。その子供たちにまじり、教師に倣って歌を歌ったり本を朗読したりするというのは、いくらプリシラでもさすがに勘弁してほしかったのだ。自分よりも身体の大きな子供になめられて、小突きまわされる姿すら思い浮かんでくる。
「まあ、いい。出かけるぞ」
「ど、どこへですか? こ、孤児院だけはどうか……!」
「あんたには身の回りのものが必要だ。職業紹介所によれよれの服で出かけても、たぶん、それ相応の職場しか紹介してもらえないぜ」
確かにドレスはよれよれであったし、シュミーズや下穿きは一昨日の朝から身に着けているものであった。さすがに、身体を拭いて着替えたい。ジャレドの言う職業紹介所、というのは名前からして、仕事を探す施設なのだろう。だがどのような雰囲気の場所なのか、プリシラには想像もつかなかった。
プリシラは既製服と呼ばれるものを初めて買うことになった。
かつては屋敷に仕立て屋を呼んだり、或いは使用人とグラウツの街に出掛け、婦人服店で数あるデザイン画と生地を見て選び、ドレスを仕立ててもらっていた。
ジャレドが連れて来てくれた店は、すでに出来上がっているドレスがハンガーに掛けられ、雑多に吊るしてある。そして多くのものは釦や紐が前についていた。使用人の手を借りずとも、自分一人で着られるようにだろう。
「この店でいいか」
ジャレドに問われ、プリシラはもう一度店内を見渡した。
ドレスはどれも丈夫そうな生地だ。レース飾りや貝の釦がついているようなものは見当たらない。だが、この店でドレスを買うような女性に、そんな装飾は必要ないのだろう。
プリシラも修道院生活で質素な衣類には慣れている。ましてこれから働くとなると、ドレスは丈夫で簡素なものが良い。それに、プリシラはお金を殆ど持っていない。この店では餞別代りにジャレドが買ってくれると言うが、プリシラは彼にきちんと返すつもりだ。本当にお金を稼ぐことが出来たら、だが。
手元のドレスを手に取ってみる。肩のあたりで合わせてみると、プリシラには大きいようだが、丈は自分で詰めて、幅の方はサッシュで縛ってしまえば気にならない筈だ。
「はい。構いません」
「着るものを決めたら、後はあっちでも必要なものを揃えろ。俺は外に出てる」
ジャレドはプリシラに金を握らせた。彼の示す方を見れば、白くてふわふわした生地のものが並んでいる。つまり、肌着の類だった。
もう一度ジャレドを振り返ればその姿はとっくに店内から消えていた。男の人に下着の事まで気遣ってもらったのだと思うと、恥ずかしさに身を竦めたくなったが、ある意味ドレス以上に必要なものでもある。
プリシラは念入りに、だがジャレドをあまり待たせないようにと肌着の類を選んだ。
会計を済ませ、店の外に出るとジャレドは雑踏を眺めていた。
思わず足を止め彼の様子に見入ってしまう。本当に肉食獣のような人だ。だがそれは野性味溢れる猛々しい猛獣ではない。闇の中目を凝らし、狙った獲物に忍び寄るような、美しくも危険な獣を思わせる。
街で絡んできた酔っ払いが、彼にひと睨みされただけでプリシラの手を離した理由も、なんとなく分かる気がした。
「お待たせしました」
「早いな。もういいのか。女の買い物は長いと決めこんでいたんだが」
「は、はい。あの、代金は必ずお返し致しますので」
「期待はしてない」
肩を竦めるジャレドにプリシラはもう一度言った。
「いえっ、必ず、お返し致しますから!」
「その話は、あんたが仕事を見つけてから聞く」
「はい……」
それを言われてしまってはどうしようもない。
ジャレドはプリシラの存在が消された事に責任を感じているようだが、プリシラ一人であったら家に辿り着けたかどうかも分からない。辿り着けたとしても、ジャレドと二人で行った時より時間がかかっていたかもしれない。
今になって「もし」を考えても意味のない事だが、彼は充分すぎるほど良くしてくれている。それはプリシラにも分かる。しかし「もう充分です」と彼から離れて一人になる勇気は、プリシラにはないのだった。
その事を有難くも情けなくも思いながらジャレドの隣を歩いていると、
「あれえ? プリシラ? プリシラじゃないか」
聞き覚えのある声に、プリシラは立ち止まった。見れば、通りの向こうから洒落た格好をした男がこちらへ向かって歩いてくるではないか。
「オースティン様……」
声に聞き覚えがあるのは当たり前だった。
オースティン・ハーヴェイ侯爵。
プリシラは、かつての婚約者の名をなんとか紡ぐと、呆然とその場に立ち尽くしたのだった。