02.月夜の出会い
──プロヴリー王国 グラウツの街近郊──
月が雲に隠れると、崖沿いの道は真っ暗になった。
気を付けて進まなければ、馬車はあっという間に転落してしまうだろう。
岩陰に潜んでいたジャレドは、近づいてくる馬車の音に耳を済ませ、暗闇に目を凝らす。
ヘクター・マッコイ。馬車を走らせているのはその男に間違いない。主に密輸で稼いでいるようだが、分かっているだけでも六件の強盗殺人を犯しているなかなかの大物だ。大物、というのはヘクターの人間性ではなく賞金首としての価値である。生け捕りにすれば半年は遊んで暮らせるだけの金が手に入るのだ。
馬車は近づいてくる。車輪の音の軽さからして、大きな荷物は積んでいないのだろう。
道はそれほど広くない。馬車の前に立ち塞がって進路を塞ぐか。それとも後ろから追い上げて並ぶべきか。
どちらにしろこの道の状態では馬車は速く走る事は出来ない。こちらに分がある、とジャレドが思案していると、その馬車は急に速度を上げた。
待ち伏せがばれていたのだろうか? いや、まさか。だが、崖沿いの夜道であんなに速度を上げるのは狂気の沙汰としか思えない。
「チッ」
意表を突かれておくれを取ったジャレドであったが、焦りは禁物である。
馬車が通り過ぎるのを待ってから追い上げようと構えた時、ヘクターは崖側の岩場目がけて手綱を取ると、衝突寸前に御者台から飛び降りた。馬は岩場を飛び越えたが、馬車は大きな音を立ててぶつかった。馬車は道に横転する。
これにはジャレドも目を瞠った。馬車が反対側に倒れていたら、崖に向かって真っ逆さまだ。それに、ヘクターは意図的に馬車をぶつけたように見えた。
様子を見ていると、ヘクターは悪態をつきながら起き上がった。
ヘクター一人では馬車を動かすのは無理だと、考えなくとも分かることなのに、彼は勢いをつけて横転した馬車に肩からぶつかっていく。ヘクターはわざと馬車を衝突させたのだ。間違いない。しかも、横転させて崖から落とそうとしていた。馬車が反対側に倒れてしまったのは計算外だったという所だろうか。
しかしなぜ。積んでいる荷物が邪魔にでもなったのだろうか。密輸対策で、ジャレドのように役人が夜道に潜んでいる場合もあるだろうから。いや、だったら荷物だけ捨てればよい話だ。馬車ごと捨てなくてはならない荷物とは一体何なのか──と考えていると、ヘクターは舌打ちしてぶるりと首をふるい、馬車の亀裂から中に入っているものを引きずり出した。
目を凝らせば、それは人間のように見える。身体の大きさからして子供か女だろう。生きているのか死んでいるのかはジャレドの位置からはよく分からない。
ヘクターはそれを肩に抱え上げると、崖下に向かってそれを投げ込もうと構えた。
何故ヘクターがそんな真似をしているのかジャレドにはさっぱりだったが、犯罪者の事情などジャレドには関係ない。それに今がヘクターを捕えるチャンスだ。
「ヘクター・マッコイだな」
「……っ!」
ヘクターは抱えていた人物をどさりと落とした。その拍子に「んぅ」と声が漏れた事からして、死んではいないのだろう。
「賞金稼ぎか」
「おっと。わかってるなら話は早いな」
抵抗された時のために、ロープの他に大ぶりのナイフを手に持っている。
「ちくしょう!」
だがヘクターは抵抗せずに、逃げようとした。馬車馬は馬車と繋がれたままであるから、彼は走って逃げるしかない。馬を持っているジャレドが追いつくのは容易な事だろう。ヘクターを追う前に、ジャレドは倒れている人物にちらりと視線を走らせた。
女だ、と、ジャレドは思った。
ヘクターに放り出された時にドレスと外套が捲れ上がり、下穿きに包まれた白い足がむき出しになっていたからだ。しかも、その下穿きは足首までを覆う子供っぽいデザインのものである。頭部は頭巾に包まれていて顔はよく見えない。
女の下着──中身入り──を見るのは久しぶりのことだったが、あまりの色気のなさに、運がついているとはとても思えなかった。
さすがにこの格好のまま放置するのは忍びない。ジャレドは苦々しげに唇を歪め、倒れている女のドレスの裾を足首まで下ろしてやった。
そうしている間にもヘクターはグラウツ方面に向かって走っている。まだ足音が聞こえるが、早く後を追わなければ見失ってしまう。道から外れて森にでも入られては大変だ。ジャレドが自分の馬に乗ってヘクターを追いかけようとしたその時、
「ん……」
女が呻いた。
あれだけ派手にぶつかって生きていたなら運が良かったじゃないか。ジャレドは他人事のようにそう思い、前に視線を向けた。
「うーん……」
視界の端で、彼女がぴくりと動いたのが分かった。
夜道である。ひと気は殆どないが、明るくなれば誰かが通りかかって女を介抱するだろう。だがその前に悪人が通りかかって、女を手込めにするかもしれない。それに女は怪我をしているかもしれない。そのまま身体の血が失われて朝になる前に命を落とすかもしれない。ヘクターの足音が遠ざかっていく。
「……くそっ」
ジャレドは一瞬の逡巡の末、馬を降りた。
悪態はこんな場所でヘクターなんぞに命を狙われる女に対してでもなく、ヘクターを捕まえ損ねた事で稼げなくなる金に対してでもない。自分の甘さに対してのものだった。
「おい、あんた」
「んー……」
「おい、怪我はないか」
「ん……」
この女は自分が殺されそうになっていたと理解していないのだろうか。まったく緊張感のない返事だ。女はゆっくりと目をこすっている。それから何度か瞬きをし、おそらく彼女の瞳には夜空と、自分を覗きこむ見知らぬ男が映ったのだろう。
「え……えっ?」
彼女は起き上がろうとしたが、腕が外套に絡み、再びすてんと後ろに転がった。
その拍子に例の色気のない下穿きが覗いた。裾には野暮ったいフリルがついている。暗いなかでも雪のように下穿きだけが浮いて見えた。
こんなものを見せられては気持ちは萎える一方である。ジャレドは心の中で舌打ちしながら、女に手を差し出した。女を引き起こす際に彼女の頭巾が解け、闇夜でも輝くような見事な銀の髪がこぼれ出て、ジャレドは思わず息をのんだ。
「立てるか」
「は、はい」
小柄な女だとは分かっていたが、彼女がジャレドの前に立つと、思っていたよりもずいぶん小さい。体格だけでいうならば、少女というよりも子供と表現した方が近いだろう。
「あんた、自分に何が起きたか理解しているか」
彼女の身に着けているドレスや外套は、派手なものではないが仕立てはしっかりしたものだ。それに闇に浮かぶような艶やかな銀の髪と白い肌──ついでに野暮ったい下着──からは、彼女が労働階級の人間ではない事が窺える。だがそんな女が、なぜこんな夜中にヘクターの操る馬車に乗っていたのだろう。
身代金目的の誘拐でもされたのだろうか。ジャレドが考えたのはまずそれだった。そして金を奪う事に失敗したヘクターは、彼女が邪魔になったのだろうかと。いや、だとしたら馬車ごと崖から落とそうとする必要はない。
今思えば、あれは事故を装って彼女を殺そうとしたように思える。
「わ、わたくしは……」
彼女は後ろを振り返り、大破した黒っぽい塊が自分の乗っていた馬車なのだと悟ると、ひっと息を吸い込んだ。
「馬車が……」
「あれは、あんたの家の馬車だったものなのか」
「わたくしの迎えの馬車の筈です。御者は……」
「逃げた」
「逃げ……事故を起こしてしまったからでしょうか」
「さあな」
御者はあんたを殺そうとして、俺に見つかって、それで逃げた。と告げるのは今のところは止めておこう。声はか細く、気の弱そうな娘である。正直に告げたら卒倒してしまうのではないだろうか。それよりもこの娘の素性を探るのが先だ。
ヘクターに命を狙われていたようだが、実は彼女がヘクターの仲間で、仲間割れを起こして……という事も考えられる。ジャレドは目の前の娘をじっと見下ろした。
雲から月が覗いた拍子に、娘の顔が青白く照らされる。彼女はとても小さい。遠目に見れば子供に見えるだろう。だが、その大きな瞳は憂いを帯びていた。
どこか虚ろなものを感じさせるその表情から、彼女は見た目よりも大人なのかもしれないと思った。
「わたくしは……フォートナー女子修道院からあの馬車に乗ったのです」
「フォートナー女子修道院? あんた、尼さんなのか」
「い、いえ。行儀見習いとして、三年程身を寄せておりました」
上流階級の娘の中にはそういったものもいる。花嫁修業の一環として、作法やものの考え方を学んだり身の回りの雑事をこなしたりするらしい。修道院から出たという事は、結婚が決まったのだろうか。それともただの里帰りなのだろうか。
「それが、経営難のようで……修道院が閉鎖される事になったのです。院長様やシスターたちは他の修道院へ行く事になりましたが、わたくしは見習いの立場でしたので、そういう訳にもいかず……一度、家へ帰ることになりました」
「なるほど」
寂れた場所にある古い建物である。そういう事になっても不思議はないなとジャレドは思った。それから、貴族や金持ちならば跡目争いや何かで命を狙われる事もあるだろうと。という事は、ヘクターは彼女を邪魔だと思っている人間に雇われたという事か。
「修道院が閉鎖されるという事を家に連絡すると、迎えの馬車を寄越すと手紙が来たのです」
「その迎えがこの大破した馬車か。さっきも聞いたが、これは、あんたの家の馬車なのか。まさか間違って乗ったりしてないよな」
「は、はい。それは。御者はわたくしの知らない男性でしたが、委任状を持っておりました。書状にはうちの印章も押してありましたので」
夕刻にやって来た馬車で夜通し走り、朝方にはグラウツの街へ入ると説明を受け、彼女は馬車に乗り込んだのだという。
やがて彼女は馬車の中で眠り込んだ。そして物凄い音と衝撃で、座席から身体が飛び上がったところは覚えていると言った。おそらくはそこで頭を打って気を失ったのだろう。
「ふうん……」
ジャレドは顎を指で擦りながら、起こったことを頭の中で纏めていた。
彼女を修道院へ迎えに行った男はヘクターなのだろうか。正規の御者が途中で襲われて、ヘクターと入れ替わったという事も考えられる。娘は眠っていたのだから知らないうちに入れ替わっていたとしても不思議はない。
それとも、やはりこの娘を邪魔だと思う者が一族にいるのだろうか。死んでしまえば娘が確認したという委任状も、偽物だろうが本物だろうが大した意味はなくなってしまう。
「あの……あなたさまは、わたくしを助けてくださったのですよね……?」
「結果的にそうなるかもな」
娘は、御者が事故を起こして逃げ、置き去りにされた所を助けられたと思っているようだ。ジャレドはヘクターを捕まえたかっただけなのだが。
「わたくしは、プリシラ。プリシラ・ヴィレットと申します。あなたさまのお名前は……」
「ジャレドだ」
「どちらの、ジャレドさまですか」
「ただのジャレドだよ。姓なんてない」
「ジャレドさま……」
あてこすり以外で様づけなどされたのは初めてである。こそばゆいものだ。娘はジャレドの名を確かめるようにもう一度呟くと、まっすぐにジャレドを見上げた。
「あの……ジャレドさま! あつかましいお願いなのですが、わたくしをグラウツの街まで連れて行ってもらえませんか」
「もとよりそのつもりだ」
「え」
ここで娘を放っておけば、彼女は夜道を歩いて街に向かう事になる。そして街に着く前に野盗の餌食になるか、あるいは──何せ体力のなさそうな小柄な娘だ──その辺で行き倒れるだろう。
ジャレドは博愛精神は持ち合わせていないが、不幸な先行きが容易に想像できる物事を黙って見送るつもりはないし、何よりこの娘を見捨ててしまえばヘクターを逃した意味もなくなってしまう。
「申し訳ありません……」
ジャレドはプリシラを馬に乗せ、自分は松明を持ち手綱を引いた。
「お礼は、必ず致しますから」
「そう願いたいね」
プリシラ・ヴィレットは子爵家の一人娘であった。
貴族の娘をトラブルから救い家まで送り届けたのなら、何か褒美があってもよさそうなものだが、ジャレドはそれを期待してはいなかった。素性の知れぬ男が娘の屋敷までついて行っても、煙たがられ追い払われる可能性の方が高いような気がする。
今のところプリシラからは貴族の娘にありがちな高飛車な態度は窺えないが、屋敷についてしまえば彼女も賎しい男に受けた恩など忘れ、豪奢なシャンデリアの下で上等なワインでも啜るのだろう。
プリシラには辻馬車の捕まえ方を教え、街の入り口で別れた方がよいだろう。自分の役目はそこまでだ。街についてしまえば、その後は彼女に纏わるお家騒動などジャレドの知った事ではない。むしろ罪人が増える事で自分の仕事も増えるかもしれない。貴族が絡んでいれば、高額な懸賞金が付くだろう。
この時は、そんな事すら考えていた。早く厄介払いしてしまいたいと。
「あんた、小銭は持っているか」
「少しでしたら……」
グラウツの街に着くころには、空は白み始めていた。人通りは少ないものの、仕事に向かう者や、これから家に帰る酔っ払いがちらほらと見える。
ジャレドは娘の出して見せた小さな巾着袋の中に、幾ばくかの硬貨が入っている事を確認して頷き、広場の向こうを指さした。
「あっちの通りに出れば、ここよりも馬車が通る。車体に赤銅色のプレートが貼ってあるのが辻馬車だ。手を上げれば馬車が停まる。そして行き先を告げればあんたを屋敷まで運んでくれる。馬車によって料金の先払いを求められる事もあるから、その時はその金を払うんだ」
「はい」
「じゃあな」
「ジャレドさま? ジャレドさまは、一緒に来てくださらないのですか」
「もう充分だろ」
「はい……では、後ほど必ずお礼に向かいます。ジャレドさまのお住まいを教えてください」
期待してはいない。ジャレドはその必要はないと手を振って示し、プリシラに背中を向けた。
なんてことだ。二週間かけて下調べと準備をし、ヘクターが通るだろうと踏んだ場所に二日も張り込んでいたというのに、取り逃してしまうとは。
下調べが次の機会に活かせれば良いが、追われていると知ったヘクターはなにか手を打つだろう。それに、別の賞金稼ぎがジャレドよりも先に捕まえてしまうかもしれない。
金に困っている訳ではないが、虚脱感は大きい。気持ちを切りかえて次の獲物に取り掛かるべきだろうか。
どちらにしろ、酒場の前と広場の掲示板に貼ってある、手配犯の人相書きを確認してから帰ろう。新しい貼り紙があるかもしれない。
「嬢ちゃん、いくらだ?」
「あの、いくら……とは?」
後ろで、酔っ払いらしいだみ声と、プリシラの声がした。
辻馬車の通りに到達する前に、もう変な輩に絡まれるとは。鈍くさいにも程がある。同時にあの野暮ったい下穿きが頭に浮かび、ジャレドは苦々しげに唇を歪めた。
「一晩いくらだって聞いてんだよ。おっと、もう朝だけどな」
下品な笑い声が続く。
「宿をお探しになっているのですか?」
プリシラの返事にジャレドはぎょっとして立ち止まった。何をまともに相手をしているんだ?
「そうそう、宿だよ。あんたと一緒に泊まれるさあ」
「わたくしはこれから家に帰りますので、宿に泊まる必要はないのです」
「そんなこと言わずにさ、俺と行こうぜ」
「あっ、待って。お放し下さい」
そこでジャレドの苛つきは限界に達し、とうとうプリシラを振り返ってしまった。
「おい、あんた」
「ジャレドさま」
「何やってるんだ。帰るぞ」
ジャレドはプリシラの方へ歩み寄ると、彼女の手首を掴んでいる酔っ払いをひと睨みした。
「な、なんだよ。連れがいたのかよ」
怯んだ酔っ払いが手を放した隙に、今度はジャレドがプリシラの手を引っ張った。片手に馬の手綱、もう片手にプリシラの手を掴みながら酔っ払いから離れたところまで歩く。
「あんた、一人じゃ街も歩けないのか」
「も、申し訳ありません」
「変な奴の相手をしている暇があったら、とっとと馬車を捕まえろ。家に帰るんだろ?」
「お困りの方かと思ったのです。ジャレドさまがわたくしを助けてくださったように、わたくしも誰かの力になれたらと……」
「あんた、変な奴と困ってる奴の違いも判らないのか」
「申し訳ありません……」
苛立ちは最高潮だ。とうに限界点まで達したと思っていたが、まだ先があったようだ。
余程恐ろしい顔をしてしまっていたのか、プリシラはジャレドの顔を見て縮こまった。ただでさえ小さいのに、これ以上小さくなってどうするんだ。と、どうしようもないことにまで苛立ってくる。二日もまともな寝食をしていないせいだろうか、いつもより気が短くなっていた。
「……クソッ」
吐き捨てると、プリシラは文字通り飛び上がった。
これ以上彼女に関わるつもりはなかったが、この様子では一人で辻馬車に乗せる事自体が危うい。後になって、年若い銀髪の娘が道端で惨殺死体となって発見された……などという報せを耳にする事があったら、何より寝覚めが悪い。
「もう、いい。俺があんたを家まで送ってやる」
「よ、よろしいのですか? 有難うございます」
闇ではよく分からなかったが、プリシラの瞳は濃い青だ。群青の瞳がジャレドを見上げている。
寝不足のせいか、目の前の鈍くさい生き物のせいか──多分両方だろう──頭痛までしてきた。ジャレドはこめかみを揉んだ。