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18.もう一つの戦い



 プリシラがハーヴェイ侯爵邸に身を移したのは、それから五日後の事だ。マダム・カロリーヌの店で取り掛かっていた大がかりな刺繍を途中で投げ出したくはなく、最後まで仕上げてからの退職となったのだ。荷物は殆ど無かったから、引越しは簡単だった。


 ヘレンは孫と思い込んでいたオースティンが牢に入れられ複雑そうだったが、プリシラの事は喜んで迎えてくれ、彼女のために仕立て屋を呼んで、新しいドレスをいくつも作ってくれた。今身に着けているものは、それらが仕上がるまでの間に合わせに、既製服の寸法を直したものだが、これもまた趣味の良いもので、久しぶりに着飾る楽しみを蘇らせたところだ。ヘレンの話し相手をしたり、ジャレドのダンスの練習に付き合ったりして、一日を過ごしている。


「ステップさえ覚えてしまえば、それほど難しいことではないと思います」

 この日もプリシラは、ハーヴェイ邸の大きな鏡のある部屋で、ジャレドと向き合ってダンスの練習をしていた。

 だがプリシラもダンスは数年ぶりだ。感覚を取り戻すように自分でもステップを踏みながら、その昔ダンスの教師に言われたことを記憶の彼方から引っぱり出している所だ。

「ステップが踏めるようになれば、上半身の動きは自然とついてくるようになる筈なので……」

「……こうか?」

「きゃあっ」

 ジャレドはプリシラを勢いよく回転させた。彼は華麗なステップを踏みつつ部屋の中を大きく回り、プリシラを振り回す形でくるくるとさせる。

 それもその筈、ブランクのあるプリシラとは違って、彼はハーヴェイ邸に移ってからずっと優秀な教師に教わっているのだ。持ち前の運動神経の良さもあって、ジャレドは既にプリシラよりも上手に踊れていた。

「も、もうっ……ジャレドさまは、わたくしよりもお上手ではないですか」

 目を回したプリシラはジャレドの胸に寄り掛かる。彼はダンスの練習が好きではないと言っていたから、こうして付き合っているのに、と。

「ダンスが好きじゃないと言っただけで、出来ないと言った覚えはないぞ」

「ジャレドさまは、いじわるです……」

「悪い悪い」

 ぷいと顔を背けたいところだが、まだ足もとが覚束無い。ジャレドはくすくすと笑いながらプリシラを抱く手に力を込めた。


 部屋の大きな鏡に、寄り添う自分たちの姿が映っている。

 今、プリシラはとても幸せだ。恋人同士の他愛ないじゃれ合いも、時折かわす熱い口づけも。ジャレドが惜しみなく与えてくれる情熱と喜びを享受し、満たされている。

 だが、心の中には消える事の無い暗い影がある。父の事だ。

 ジャレドはプリシラの髪を撫でていたが、ふと翳ったその表情に気づいたのだろうか。鏡越しに真剣な表情でプリシラを見つめた。

「あんたに報せがある」

「はい。なんでしょうか」

 プリシラは鏡から視線を外し、直接ジャレドに向き直った。

「新侯爵……いや、真侯爵、になるのか……? とにかく、俺を社交界にお披露目するパーティーが、もうすぐ開かれるだろ」

 もう一週間後に迫っているパーティーだ。ヘレンは準備で忙しくしているし、ジャレドもそのためにダンスやマナーを学んでいるのだ。

「祖母は、あんたの継母にも招待状を出していた」

「えっ……」

「参加すると返事が届いた」

「で、では」

 普通はこういった催しには夫婦で参加するものだ。だが、バーナードの安否はまだ分からぬままである。カミラはバーナードと現れるのだろうか、それとも。

「たぶん、ジョナスを連れてくるんじゃないのか」

 彼らはプリシラがハーヴェイ家に身を置き、ジャレドの婚約者となったことをまだ知らない。ジャレドのお披露目パーティーでは、プリシラ・ヴィレットが生存していることを公にする目的もあった。

「あいつら、度肝を抜かれるぞ。それにあんたはもうじきハーヴェイ侯爵夫人だ。堂々と糾弾してやればいい」

 カミラと顔を合わせる機会が、そして父の安否を問う機会がやって来る。だが、最悪の事態も想定しておいた方が良いだろう。それに、カミラを顔を合わせた時に言いたい事が言えるだろうか。父をどうしたのか、古くからの使用人たちを解雇し、プリシラの存在を抹消して、いったい何をしているのかと、面と向かって問うことが出来るだろうか。

 プリシラがぶるっと震えると、ジャレドがその肩に手を掛けた。

「大丈夫か。援護が必要か」

 ジャレドが隣にいてくれるだけで、プリシラは勇気を貰えるだろう。そしてプリシラが言葉に詰まった時は、代わりに彼がカミラを問い詰めてくれるのだろう。そう、ジャレドはいつもプリシラを助けてくれる。だが、プリシラは首を振った。

「これは……わたくしの戦いですから」

「おいおい、あんまり無理するなよ」

「はい。でも……やってみます」

 プリシラは何一つ反抗を試みる事なく家を追い出されてしまった。ジャレドが助けてくれなければ、今頃自分はどこかでのたれ死んでいただろう。だからこそ最後までジャレドに頼りきりでいたくはない。自分は彼と出会ったことで、愛し愛される喜びを知ったことで、少しは強くなったはずなのだから。




 パーティーが三日前に迫り、プリシラのドレスも仕上がった分から続々と到着していた。箱を開け、中のドレスを取り出してデザイン画とイメージが少し違うだとか、だがこれはこれで素晴らしいだとかいう感想をヘレンと述べあっていると、二人のいる部屋にジャレドがやって来た。彼は、賞金稼ぎをしていた頃のような、質素で丈夫で動きやすそうな服を身に着けている。

「ばあ様、少し、出かけてきます」

「出かけるって……貴方、その恰好は」

「一仕事だけ、したくなりまして。これが最後ですから、どうか」

「まさか、一週間も二週間も留守にするのではないでしょうね? パーティーはもうすぐなのよ」

「ええ、だって、俺のお披露目なんでしょう。それまでには戻りますよ、さすがに」

 それからジャレドはプリシラに向き直った。

「そういうことで、少し空ける」

「はい。どうか、お気をつけて」

 やはりこういった格好をしているジャレドは素敵だと思う。彼のしなやかな筋肉がよく映える服装だ。

「急な話で悪いな」

「いえ……」

 どうして今、と思う気持ちはあるものの、彼は最後だと言っていた。

 ジャレドは十三代目ハーヴェイ侯爵と国王から正式に認められてはいるが、世間へのお披露目はまだである。おそらくは自由に動ける最後の機会だと踏んだのではないだろうか。

 ジャレドとヘレンが偶然出会い、そして運命は大きく目まぐるしく動き出した。彼は賞金稼ぎとしての締めくくりの仕事を、覚悟して行うことが出来なかったのだ。ジャレドなりにけじめをつけたいのだろうと、プリシラは快く彼を送り出すことにした。




「ちょっと、もう! あの子ったら……あの子ったら……!」

 パーティーの日の朝、ヘレンは屋敷の玄関ホールを行ったり来たりしていた。ジャレドがまだ戻らないのである。

「ヘレン様、あの。パーティーは夕方からですから」

「そうだけれど、最後の打合せとか、色々あるじゃないの!」

 珍しくヘレンは苛立っている。ジャレドのためのパーティーなのだし、遠方からはるばるやって来る客たちも多い。焦るなというのも無理な話である。

 プリシラも一度、彼がなかなか戻って来なくて恐怖と不安に襲われた事があった。あの時のジャレドは、プリシラの墓を暴き、オースティンの事を調査して戻って来たのだった。

 今回は、いったいどこまで、誰を捕まえに行ったのだろう。

「まさか、怖気づいて逃げ出したのではないでしょうねえ……あの子、ダンスのレッスンは気乗りしないようだったし……」

 ヘレンは今度、自分が張り切り過ぎたせいでジャレドは気が重かったのではと、自分を責めだした。

「ヘレン様、大丈夫です。ジャレドさまは、必ずお戻りになりますから」

 ジャレドは約束を守る、必ず。そう信じてはいるが、彼の身に想定外の出来事が起こっていたら……ヘレンを励ますことでだいぶ気が紛れはしたが、プリシラもその実、不安に襲われはじめていた。




 午後も遅くなると、ちらほらと客が到着しだした。プリシラもヘレンも支度を済ませ、料理や会場のチェック、早く到着した客たちが快適に過ごせているかを確認していた。

 二人ともジャレドの帰りを今か今かと待っているのだが、時折目配せしあう程度で不安を態度には表さないようにした。

 陽は傾き、ハーヴェイ邸の庭も夜の色に染まっていく頃、玄関ホールに控えていた使用人が「ヴィレット子爵夫人のご到着です」と告げた。その声にプリシラはハッと振り返る。

 カミラは髪を流行の形に結い上げ、人目を引く派手なドレスと、ランプやシャンデリアの灯りをギラギラと反射するような宝石を身につけていた。

 彼女の少し後ろには、やはりジョナス・ケインがついていた。ヘレンがカミラの応対に向かい、二人は挨拶を交わしている。

 ハーヴェイ家とヴィレット家は、三年前の婚約破棄以降、ほとんど付き合いはなくなっていた筈だ。ヘレンは申し訳なさのあまり、そしてバーナードは失意のあまり、連絡を控えていたのだ。今夜の招待状を父が受け取っていたならば、彼は驚いた事だろう。だがカミラは侯爵家の催しに招待された事を深く考えずに喜んでやって来たようだった。


 カミラ様。父は、今どうしているのですか。

 彼女の前に進み出てそう訊ねようとした時、ヘレンとの挨拶を終えたカミラが、宝石を光らせながらこちらに歩いてきた。玄関ホールの真ん中にいたプリシラと視線が絡み、カミラは意外そうな表情をしたが、それも一瞬の事だった。

 彼女はプリシラに嫌味を言うでもなく、知らぬふりをして素通りしたのだ。カミラの中ではプリシラは死んだことになっている。今、目のあった娘をプリシラと認める訳にはいかないのだろう。

 ──あんた、なめられてるんだぞ。腹は立たないのか

 かつてジャレドはプリシラに言ったことがある。その時のプリシラは諦めきっていて、腹を立てる気骨もなかったし、そもそも腹を立てるという選択肢すらなかったような気がする。

 だが今は違う。ジャレドと出会ったことで、プリシラの虚ろだった心の中に炎が灯ったのだ。

「カ、カッ、カミラ様!」

 継母の背中に向かって声をかけたが、彼女は振り向かない。

「カ、カミラ・ヴィレット子爵夫人! ……と、その秘密の恋人のジョナス・ケイン様!」

 そう叫ぶと、さすがにぎくりとした彼らはプリシラを振り返った。というか、ホールにいた客たちが話をやめて、皆がこちらを向いた。


「貴女、どなたかしら。随分な物言いだこと」

「ああ、思い出した。君は、うちの屋敷の前で悪趣味な冗談を言っていた娘だな」

「まあ。そんなことがあったの」

 気を取り直したらしいカミラとジョナスは、演技がかった口調で喋りはじめた。ホールによく通るような、大きな声で。

「カ、カミラ様っ。わたくし、わたくしの父をっ……いったい、どうなさったのですか……!」

 カミラは怪訝そうに目を狭め、扇で口元を隠す。

「貴女の父親? いったい、どなたの事を言っているの」

「カミラ様。この娘は、自分がプリシラ・ヴィレットだと思い込んでいるようですよ。彼女は亡くなっているというのに。本当に、悪趣味なことです」

 彼らはまだプリシラを偽物と言い張るつもりだ。

「ちょ、ちょっと……ヴィレット夫人……」

 ヘレンがおろおろとしながらこちらへやって来る。

「この娘……プリシラは、ヴィレット家のお嬢さんで、ジャレドの……オースティン・ジャレド・ハーヴェイの婚約者なのですよ」

「本当かしら。失礼ですがヘレン夫人、貴女はこの娘に騙されているのでは? この娘がプリシラ・ヴィレットだという証拠はあるのかしら」

「まあ……でも、昔、ヴィレット子爵に連れられてきた女の子は、銀の髪に群青色の瞳で……」

「それは、どれくらい昔なのかしら。銀の髪に青い瞳なんて、探せばいくらでもいるような気がしますけれどねえ」

「ま、まあ……」

 前にプリシラがヘレンに会ったのは、かなり昔の事だ。再会した時に互いに見覚えがあるのだと思ったが、曖昧な記憶をそんな風に指摘されて、ヘレンは戸惑っている。それに、プリシラの葬儀は行われてしまった。公式的な記録でも、プリシラは存在しない事になっているのだ。

 カミラを目の前にして糾弾できると考えていたなんて、甘かったかもしれない。

 パーティーの客たちがざわざわと騒ぎ始める。

「え、あの娘が偽物……?」

「誰の偽物よ」

「ヴィレット家の娘だって」

「亡くなったんじゃなかったの? ほら、馬車の事故で……」

 そんな囁き声が聞こえてきて、プリシラは俯いた。カミラたちを論破できないどころか、ハーヴェイ家のパーティーが台無しになってしまった。居た堪れなくて、この場から逃げ出したくなる。だがそれではプリシラ・ヴィレットの名は永久に失われてしまうかもしれない。


 その時、玄関ホールの扉が突然開いた。騒いでいた客たちはそちらの方に注目し、入ってきた物騒なものに戸惑いながらも人ごみは左右に割れる。

 ジャレドが、泥にまみれたようなものを引き摺りながら入って来たのだ。

「プリシラ、顔を上げろ。あんたは何も間違ってない」

 そして彼は引き摺っていたものをホールの真ん中に放った。




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