11.ヘレンの来訪
『あんたの元婚約者は、よく分からない奴だな』
ジャレドはそう言って侯爵邸であった出来事を語ってくれた。彼の話によれば、オースティンはジャレドの顔を見ていきなり怒り出したようだ。
プリシラにも、オースティンの事はよく分からない。婚約者として何度か顔を合わせはしたが、彼が何を思い何を感じるのか、語ってくれた事はなかった。
そういえばプリシラも、オースティンが何を考えているのかなんて、知りたいと思った事はなかった。
だが、ジャレドの事は知りたいと思う。彼が何を好み、何を苦手とするのか。
プリシラが金を返そうとする素振りを見せると、彼は決まって話を逸らす。せめて刺繍や裁縫で彼の役に立ちたいと思っても、彼は刺繍の入った衣服を好みそうにないし、男性の服は上手く作れるかどうか自信がない。
だったら何か御馳走できないだろうかと、ジュリーに料理を教わっている所である。仕事が終わった後にジュリーの店に通い、準備を手伝いがてら料理を習い、今日のように休みの日は市場へ出かけて自分で何かを作ってみる。調理器具がまだそれほど揃っていないので、凝ったものは作れないが。
プリシラは朝に買って来た食材を並べ、次の給料日までこれをどういったペースで消費して行こうか考えているところだった。すると、扉をノックする者がいる。ジャレドかと思ったが、彼は必ず「俺だ」と付け加える。
「ど、どなたですか」
「こちら、ジャレド氏のお宅でよろしいのですよね」
上品だが無機質な男の声だった。彼の知り合いだろうか。
「はい。そうですが……」
「少し、話しをさせて頂きたいのですが」
「ですが、今、ジャレドさまは留守にしております」
「ええ。あなたで構いません」
さすがにプリシラも警戒した。ジャレドを訪ねてきたのに、自分に話を聞きたいだなんて。扉を開けるべきかどうか迷っていると、年輩の女性の声がした。
「どうしても、確かめたい事があるの。お話をさせてもらえないかしら」
誰だろう。扉の向こうには男と女、少なくとも二人がいるようだ。
「お願い、話をさせて……」
縋るような女性の声に、プリシラは扉を開けることにした。
扉の正面には身なりの良い、白髪の夫人が立っている。その脇には使用人と思しき男性が控えていた。とても、悪さをしに来た人には思えなかった。
しかも夫人の方には見覚えがある気がする。彼女が誰なのか、彼女をどこで見たのか思い出そうとしていると、やはり夫人の方もプリシラをまじまじと見つめていた。
「ああ、いきなり訊ねてきて、失礼しました。私はヘレン・ハーヴェイ。ジャレド氏に関して、どうしても確かめたい事があるのです」
ヘレン・ハーヴェイ。オースティンの祖母だ。
「貴女は……ジャレド氏の……妹さんかしら? それとも、奥様?」
「わ、わたくしは……プリシラ、と、申します」
「プリシラ……」
ヘレンはその名を自分でも呟き、それからもう一度プリシラを見つめた。
「貴女、もしかして……ヴィレット家のお嬢様では! 生きていたのね」
ヘレンには遠い昔、数度会った事がある。プリシラがヘレンの名を聞いて思い出したように、ヘレンもプリシラの名を聞いて思い出したようだった。
「オースティンが、貴女には申し訳ない事をしたわ」
「いいえ、仕方のない事です……」
「でも、今は素敵な方とめぐり合って、幸せなのね」
ジャレドの事を言っているのだろうか。プリシラは慌てて否定した。
「いえ、違うんです。ジャレドさまは、わたくしにこの部屋を貸してくださっていて……それだけです」
「貴女は今ここに住んでいるという事? それは、貴女が亡くなったという話と関係しているのね?」
ヘレンにどこまで話してよいのだろうか。ヘレンがプリシラの生存に驚いていたということは、オースティンは街でプリシラに会った事を話していないのだろう。初めから期待はしていなかったが、彼は本当にプリシラのことなど──プリシラが生きていようが死んでいようが──どうでもいいらしい。
「カミラ様はともかく、ヴィレット子爵……貴女のお父様は何と仰っているの? 娘が亡くなっただなんて噂を広められて……さぞお怒りなのでは」
「それが、連絡が取れないので……父が、どうしているのか分からないのです」
プリシラは家に入れてもらえなかった事、どうやら屋敷で何かが起こっている事だけを話した。カミラやジョナスが疑わしいと言う主観的な意見は混ぜない方がいいだろう。
「では、ヴィレット子爵が今どうしているのか、屋敷の人間にしか分からないと言う事ね。私、貴女のお父さまにお手紙を書いてみましょうか」
「ありがとうございます。でも……」
おそらく父が手紙を読む前に、カミラかジョナスが開封してしまうだろう。そしてそれは父の目に留まることなく処分されるような気がする。
ヘレンの気持ちはありがたいが、自分が父と連絡を取ろうと足掻いていると、カミラたちには知られたくない。プリシラはどうか自分と会った事を、そして父を気にかけている事を周囲の人間に言わないでほしいとヘレンに頼んだ。彼女は腑に落ちぬような表情を見せたが、頷いてくれた。
「気にはなるけれど、余計な詮索はしないでおくわ。だって、私も貴女に助けてほしいことがあるんですもの」
それが、ジャレドの事なのだろう。だが何故ヘレンが。一見、彼らには何の繋がりも無いように思えるが。
詳しい話をするために、プリシラはヘレンを部屋に招き入れた。
ヘレンが帰った後、プリシラは料理をしてみる気にもなれず、裁縫道具を手にとっても集中できず、日が暮れるまで立ったり座ったりを繰り返していた。今はうろうろぐるぐると部屋の中を歩き回っている。
『私に、アレクスという息子がいた事はご存じよね』
ヘレンの言葉にプリシラは頷いた。もちろん知っている。アレクス・ハーヴェイ侯爵はプリシラが生まれる前に亡くなってしまっているが、父の学生時代からの友人であった。
父の昔語りによく登場したし、オースティンと婚約の運びとなったのも、父親同士の約束があったからだ。
『アレクスは妻の……ステイシーのお産のために、サンブロワという土地に滞在していたの。オースティンはそこで生まれたわ』
だが環境が良いと思われていたサンブロワは、隣国アマリアの内乱に巻き込まれてしまう。国の揉め事を避け逃げ出してきていたアマリアの貴族たちが多く住んでいたからだ。彼らに怒りを向けたアマリアの民衆たちは、サンブロワになだれ込み、建物を破壊し、火をつけて回った。
『アレクスとステイシーはそこで亡くなったわ……。でもね、彼らは亡くなる前に、オースティンをある女性に託し、ハーヴェイ家の領地ラガリエに送り届ける事にしたの』
オースティンを抱いてラガリエにやって来た、マヤと名乗った女は、サンブロワに住むどこかの貴族の使用人をしていたようだった。
もちろん彼女には礼を言って部屋を用意してもてなしたが、当時のヘレンはいきなり送り届けられた孫息子に驚き舞い上がり、だが息子夫婦の安否が知れぬ事に動揺し、彼女の身元について注意を払わなかったのである。アレクスの使用人ではないようだが、サンブロワは逃げ出す主に置いて行かれる使用人も多かったようだから。
マヤはわずか一晩の滞在ののち、翌朝何も言わずに姿を消した。
やがて、アレクスとステイシーの亡骸が見つかったと、悲しい知らせが届いた。少しして、二人の亡骸が入っているという棺が。
ヘレンは嘆き、だがオースティンを立派に育ててみせると、息子夫婦の墓の前で誓いを立てた。
プリシラはオースティンが当時混乱していたサンブロワで生まれたと、話に聞いてはいたが、どのようにしてラガリエまで辿り着いたのかは知らなかった。壮絶な経緯に驚くしかなかった。
『オースティンを立派に育てると誓ったけれど、その実、相当に甘やかしてしまったかもしれないわ。かなり、自分勝手な子に育ってしまったから……』
『ヘレン様、そのようなことは……』
ない、とも言い切れない。しかしたった一人の孫を、息子夫婦の忘れ形見を厳しく育てろというのも、難しい話なのではないか。ヘレンを責める気持ちにはなれない。
『でもね、私……いつからか、疑い始めるようになってしまったの……。今、ハーヴェイ侯爵として振舞っている人物は、アレクスの息子では、ないのではないかと』
ハーヴェイ家に生まれた人間は黒髪が多い。そうでないものもいるから、オースティンが薄茶の髪をしていても不思議はないのだが、彼はアレクスにもステイシーにも似ている所が全くなかった。もちろん、ヘレンにも。外見だけで言えば、歴代侯爵の肖像画の中の、誰にも似ていない。
『アレクスもステイシーも思慮深く、優しい子だったわ。でも、オースティンは……これは、私の育て方に問題があったのかもしれないけれど、でも、何かが引っかかるのよ。オースティンを届けてくれたマヤという女性が、薄茶の髪をしていた事も引っかかっているわ』
『あの、それは、つまり……』
マヤという女性は、別の──自分の──赤子をオースティンと入れ替えたと、ヘレンはそう疑っているのだろうか。
すると、ヘレンは古びた封筒をテーブルの上に置いた。
『これね、アレクスが最後に書いた手紙なのよ。私は、これを開封することがなかなか出来なかった』
なんとその手紙は、アレクスの亡骸が届き、埋葬が終わった直後にラガリエに配達されたというのだ。戦の混乱で遅れてしまったのだろう。
『もちろん、あの子が最後に何を書いたか知りたかった……でも、私は開封できなかったのよ』
埋葬を終え、気持ちに区切りをつけなくてはという時に遅れて届いた手紙……開封できなかったのも分かる気がする。
開封して慣れ親しんだ文字を目にしたら、涙が溢れて止まらなくなるだろう。これを書いた人間はもういないのだと、空虚と絶望に打ちひしがれることとなるだろう。それが分かっているから、ヘレンは開封できなかったのだ。
だが、開封する時がやって来た。
オースティンが十五、六歳になった頃の事だ。彼の二次性徴期が終わりに差し掛かり、アレクスとの違いが顕著になっていた。オースティンは自分の孫ではないのではないかと、ヘレンが疑問を色濃くし始めた頃でもある。
『アレクスは、マヤという女性にオースティンを託したと書いてあったわ……。そして、彼女にはオースティンと同じ頃に生まれた息子がいると! 母一人子一人で苦労も多いだろうから、仕事や生活の世話をしてやってほしいと! でも、マヤは赤ん坊を一人しか抱えていなかったのよ……!』
やはりマヤは赤ん坊を入れ替えたのではないだろうか。では、もう一人の赤ん坊はどこへ行ったのだ。捨てられたのだろうか、それとも、道中命を落としてしまったのだろうか。
ヘレンはもっと早くこの手紙を開封するべきだったと言ったが、手紙が配達された頃にはもうマヤは姿を消している。疑念を抱くのが早まっただけで、確かめようもなかったのではないだろうか。
ヘレンの疑いは膨らむ一方だった。オースティンと顔を合わせるたびに、マヤという女性の影がちらつくようになる。この子はアレクスの息子ではないのでは。いや、そんな筈はない。ヘレンは何年も葛藤を続けた。
『でも、私はジャレド氏に会ってしまった』
ヘレンは何故自分にこんな話を聞かせるのだろうと、プリシラが思い始めた矢先だった。
『あの子は……アレクスにそっくりなのよ! 年齢を訊ねると、オースティンと同じ二十二と答えたわ。それに、彼は……捨て子だったと』
ハーヴェイ侯爵邸に庭仕事をしにやって来ていたジャレドと、出会ってしまったのである。ヘレンはその後、気を失ってしまったのだ。
『お庭での作業に、次の日からジャレド氏の姿は無かった……だから、一緒に仕事をしていた人に、彼の住んでいる所を聞いたの。それでここにやって来たのよ。本人にいきなり訊ねるよりも、ご兄妹か奥様に事情を話してみようと思ったのだけれど……部屋を又貸ししてもらっているのならば、あなたたちは友人同士ということかしら』
プリシラはジャレドの妹でも妻でもない。友人……というほど対等な関係でもないような気がする。自分はジャレドに助けてもらってばかりだから。
いったい、自分たちの関係はどういったものになるのだろうと考え始めた時、ヘレンがとんでもない頼みごとをしてきた。
『アレクスが最後に書いた手紙には、オースティンの特徴が書いてあったわ。あのね、オースティンのお尻の右側には、小さなほくろが三つ、並んでいるのですって!』
『は、はあ……』
ヘレンがこの手紙を初めて読んだ時、オースティンは十五、六になっていて、尻を見せろとはとても言えない年齢になっていた。聞けたとしても、祖母にそんな事を頼まれて理由も無く見せる少年はいないだろう。
ヘレンはプリシラの手を取って懇願した。
『貴女、ジャレド氏のお尻にほくろがあるか、確かめてくれないかしら?』
『えっ……えええっ?』




