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01.運命の狭間



 ──プロヴリー王国 別荘地サンブロワ──


 向こう側の林の奥に、民衆の持つ松明の灯りがちらちらと見えている。叫び声と破壊の音も聞こえたような気がした。

「あなた、今、外はどうなっているの」

 妻の問いかけに、年若きアレクス・ハーヴェイ侯爵はさっとカーテンを閉める。

「少し騒がしいようだが、ここは大丈夫だよ」

「そう……?」


 二週間ほど前に出産を終えた妻ステイシーの顔色は未だ優れない。産婆は出血が多かったようだと言っていた。

 もともと貧血気味で血の巡りがあまり良くなかったステイシーである。せめて静かで環境の良い場所で出産させてやりたいと考慮したアレクスであったが、短期間で事情が変わりその気遣いはすべて裏目に出てしまった。


 隣のアマリア王国と戦争状態になってしまったのだ。アマリアはプロヴリーと比べて昔から貴族と平民の間の隔たりが大きい国であった。近年では共和政を叫ぶ民衆の声が大きくなり、暴動に発展したことが何度かある。だがそれは飽く迄もアマリア王国内だけでの出来事であった。


 やがてアマリア王国の貴族がこちら側に逃げ込んでくるようになった。プロヴリー国王はこれを許容した。ただし彼らの財産の何割かと引き換えである。それでもプロヴリーにやってくる者は後を絶たなかった。

 そしてこの別荘地サンブロワにこの国での住まいを設ける者が多かった。新たに屋敷を建てる者もいれば、売りに出されていた建物を買う者もいたし、誰かの別荘を借りて住んでいる者もいる。

 貴族のための場所であるから、昔から治安も環境もよい。だが、国境からそう遠くない事が災いした。


 逃げ出す貴族たちに腹を立てたアマリアの民衆が、なだれ込んで来たのである。そしてアマリアの貴族が住む屋敷を破壊し、火をつけて回った。

 アマリアの平民と貴族が、プロヴリーの土地でぶつかっているという図式である。国王は彼らを鎮圧するよりも先に、プロヴリーの貴族を別荘地サンブロワから脱出させるための軍隊を派遣した。

 その頃にはステイシーのお腹は大きくなっており、彼女を移動させることをアレクスは躊躇った。今思えば無理にでもここから連れ出しておけばよかったのだ。


 民衆は空き家となった建物をも破壊して回るようになった。一つ向こうの通りは瓦礫の山と化している。妻が寝台から起き上がれないのをいいことにアレクスは外の状況を控えめに表現していた。産後のステイシーは移動できるような体調ではない。せめて彼女を動揺させないためだ。

 だが、彼女は悟ってきたようだ。じきにこの通りにも民衆が押し寄せてくるのではないかと。


「もし、この屋敷にまで彼らが来たら……」

「大丈夫だよ。僕たちはアマリアの貴族ではないのだから、襲われたりはしない」

 ステイシーにはそう言い切ったが確証はない。民衆はアマリアとプロヴリーの区別なく貴族の家を破壊するようになったし、プロヴリーの貴族たちは、ハーヴェイ侯爵夫妻を除いてとうにこの地を去っている。屋敷の使用人は数人が残ってステイシーの世話をしてくれているが、食材が手に入らないという報告を受けている。備蓄してある小麦や砂糖で何とか凌いでいる状態だ。

「でも、この子だけでもここから脱出させてあげたいの」

 ステイシーは自分の寝台の隣にあるゆりかごを見た。二週間前に生を受けたオースティンが眠っている。アレクスの初めての子供で、次の、第十三代ハーヴェイ侯爵となる男の子だ。

「なんだかお乳の出も悪いみたいで……このままでは、この子が痩せ細ってしまうわ。この子だけでも先にラガリエに帰してあげられないかしら」

 ラガリエとはハーヴェイ家の領地である。

 アレクスはラガリエにいる母親のヘレン・ハーヴェイに、息子が生まれたという手紙を書いたばかりだ。手紙を書いた当初は外の状況はここまで悪くはなかった。むしろ、ステイシーの身体の方が心配であった。

 今はステイシーの体調と同じくらい、状況も悪いように思える。

「あなたは、この子を連れてラガリエに帰るべきだわ。赤ちゃんを連れての旅は大変でしょうけれど……サンブロワを出る事さえできれば、誰かの助けも借りられましょう」

「ばかな……君を置いていける訳がない」

「でも、あなたはハーヴェイ家の当主。そしてこの子はあなたの後継ぎよ。どちらも、失ってはいけない存在だわ」


 自分の役目は終わったとでも言いたげなステイシーの様子に、アレクスは身を震わせた。妻の容体は自分が思っている以上に悪いのかもしれない。

 それからオースティンの寝顔をみつめる。ステイシーは動かせない。置いていける訳もない。だが、今の環境は生まれたての赤ん坊にとって良くない事も確かである。


 誰か……オースティンのことを頼める人物はいないだろうか。知り合いの貴族たちは皆脱出済みだ。知り合いでなくとも……ここに残っているプロヴリーの貴族はもう皆無だろう。

 だが、使用人はどうだ。彼らは貴族ではないから狙われる事もない筈だ。それに、仕えていた主だけが逃げ出してしまい、サンブロワに取り残され、途方に暮れている者もいるという話だ。できれば、赤ん坊の扱いに慣れた女性がいい。

 そういう人物を探せないだろうか。アレクス・ハーヴェイは考えた。



*



 ──プロヴリー王国 ダカークの街近郊──


「ねえ、あんたぁ。今、何か聞こえなかった?」

 連れ合いの言葉にダグラスは足を止めた。


 目の前の乾いた道には冷たい風が吹きつけている。先ほど一台の馬車とすれ違っただけで、辺りに人の気配は全くない。

「風の音じゃねえのか?」

「ううん、そうじゃなくて……子猫の鳴き声みたいなさあ。あっ、ホラ。また」

 ダグラスには何も聞こえなかったが、ジュリーはきょろきょろと周囲を見渡した。

「あっちの、岩場の陰の方よ」

「あっ、おい」

 ダグラスの制止も聞かずにジュリーは駆け出していた。

 まったく、と、ため息をつきながらジュリーの後を追う。


 ダグラスとジュリーは盗みや詐欺まがいのことをしながら貧民窟のダカークで暮らしていた。正式に夫婦としての誓いを立ててはいないが、長い間一緒に生活している。要はまっとうに仕事をしている訳でもなく、まっとうな結婚をしている訳でもない。

 だがダカークには二人のような暮らしのものがたくさんいるから、悪目立ちしている訳でもなかった。

 そして二人には子供が無かった。楽な暮らしではないが、ここ最近は仕事の要領も良くなってきて、日々の糧に事欠いて腹をすかせることもめっきり減った。子猫の一匹くらいならば養ってやれるだろう。

 子猫を抱くジュリーの姿を想像してダグラスは笑みを漏らした。


「あ、あんたぁ……」

 岩場の隙間を覗きこんでいたジュリーは困惑の表情を見せた。

 だがジュリー以上にダグラスは動揺した。

 岩場の陰にいたのは、子猫ではなく人間の赤ん坊であったからだ。


「捨て子、なのかしら」

「おいジュリー。やめとけ、病気持ちだったらどうする」

「けど、ここに置いといたらどっちみち死んじゃうでしょ」

 ジュリーは恐々と赤ん坊を抱き上げ、胸に抱いた。


 この辺の土地では捨て子が珍しいわけではない。だが事情があって育てられない赤ん坊というのは、大抵は教会や孤児院の前に捨てられるものだ。

 こんな場所に隠すように捨て置かれているのは、この赤ん坊は「育てられない」のではなく「育つ見込みがない」からなのではないだろうか。伝染するような病気でも持っていたらたまらない。ましてダカークは衛生状態も悪く、医者に診てもらえるような大金を持っている者もいない。病気は瞬く間に広まってしまうだろう。

 そう懸念するダグラスであったが、ジュリーはすっかり連れ帰るつもりでいるらしい。

「だとしたら、こんな寂しい所で、一人ぼっちで死ぬのは可哀想よ」

「けどなあ……看取って、弔うためだけに連れてくってのか?」

「それに、病気持ちとも限んないでしょ。見たところ、清潔そうだし肌のつやはいいみたいだけど……でも身体が冷えてきてる。このままじゃ、ほんとに死んじゃうわよォ」

「うーん」

「あたし、ちゃんとお世話するわ。今の仕事が終わったらあんたが買ってくれるって言ってたブローチ、我慢するから!」

 結局はジュリーに弱いダグラスである。こんな風にお願いされてはダメとは言えない。


「で、その赤ん坊、男なのか? それとも女なのか」

「今ここでおくるみを剥いだら、きっと寒さで死んじゃうわよォ。帰ってから確かめるわ」

「いくつぐらいなんだ? えらく小さいな。生まれたてなのか?」

「さあ……まだ、歯は生えてないみたいだけど」

「……歯って、いくつぐらいで生えるんだ?」

「あたしが知ってるわけないじゃない……あっ。ミルクどうしよう?」

 歯が生えていないのでは乳を吸わせるしかない。しかしジュリーからいきなり母乳が出る訳もない。

「南の小屋に住んでるジャニスって女がいるだろ? あいつ、むかし母犬を失くした子犬に、ミルクに指を浸して、ミルクの付いた指を吸わせてたな」

「そんなんでお腹いっぱいになるの?」

「けど、大きくなっただろ? いつもジャニスの後についてる、あの黒い犬だよ」

「へえ、あの犬がそうなんだあ。あっ、あの人に頼めないかな。ほら、橋の下のあなぐらに住んでる……ハンナ? いつの間にか子供が生まれてなかった? お乳をわけてもらえたりしないかしら」

 いつの間にか、父親の分からぬ子供が増えているのは貧民窟ダカークの常でもあった。

「いや、あいつこそ病気持ちじゃねえか」

 衛生的とは言い難い風貌で、頬がこけ、髪は薄くフケだらけで、身体のあちこちに謎のかさぶたが出来ている女である。そのような女の乳が身体に良いはずはない。

 自分でも気づかぬうちにダグラスは赤ん坊の心配をするようになっていた。

 ただ、育つか分からぬ赤子である。喪った時にジュリーがあまり嘆き悲しまなければ良いが。

「とりあえずは、山羊の乳でも買って帰るか」


 赤ん坊は男の子で、病気もちではなかった。

 ダグラスの懸念を余所に元気に育つ気配を見せた頃、二人は赤ん坊にジャレドと名前を付けた。




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