悲しみのラジオ
朝の体操をしようと思い、ラジオの電源を入れたが、音が出ない。窓のそばに移したり、アンテナの向きを変えたりしてみたが、途切れ途切れに雑音が鳴るだけだった。
「壊れちゃったのかしら」
りん子はスピーカーに耳を近づけた。長年愛用している、持ち手付きの四角いピンクのラジオだ。
電池を入れ替える、振ってみる、息を吹きかける、いろいろ試してみたが音は鳴らなかった。
そうこうしていると、黒いオーラをまとった少年が現れた。現れたといっても、普通にドアから入ってきたのではなく、いつの間にか部屋にいて、りん子と向かい合ってラジオを眺めていたのだ。
「ちょっと、何やってんのよ」
「小汚ねえラジオだな」
「小汚い少年に言われたくないわよ」
「俺は闇の支配者だ」
そう言ってラジオを奪い取り、りん子と同じように振ってみたり、息を吹きかけたりした。そして放り出した。
「何するのよ!」
「今どき使わねえだろ、ラジオなんか」
「使うわよ、ラジオ体操」
闇の支配者は眉をしかめ、あのクソつまんねえ曲か、と言った。
「曲なんかどうでもいいのよ、体を動かしたいの」
「じゃ、勝手に動かせばいいだろ」
「それは……」
「まどろっこしいな」
闇の支配者は土足のままソファーの上に立った。体を包む黒いオーラが揺れ、部屋の空気が変わった。すっと息を吸い込み、歌い出す。
「たんたかたん、たんたかたん」
「第二じゃなくて第一がいいんだけど」
闇の支配者はぎろりと目をつり上げ、りん子を見た。りん子は負けじと睨み返した。足下には鳴らないラジオが転がっている。こうなったら、何としてもラジオの代わりになってもらうしかない。
闇の支配者は観念したのか、曲を変えて歌い出した。ラジオ体操第一だ。りん子は両腕を上げ、ゆっくり円を描いて脇へ下ろす。
曲に合わせて動いているうちに、妙なことに気づいた。体が重い。風邪で何日も寝込んだ後のように、肘や膝がだるかった。体だけではない。ポーズをひとつ取るごとに、心が重くなっていく。不安と無気力がどこからともなく降ってきて、思考を鈍らせる。
「変だわ。自分が自分じゃないみたい」
腕を振っても前屈をしても、悲しい記憶ばかりが頭に浮かぶ。まな板から鍋に移そうとして、コンロのすき間に落ちて取れなくなってしまったタマネギの欠片。お気に入りのバッグにペットボトルを入れて出かけたら蓋がゆるんでオレンジジュースが漏れていた時の絶望感。ずっと春雨だと思って食べていたものが実はビーフンで、計算外のカロリーをとっていたという悲劇。
「なんてこと。ああ、なんてこと」
りん子は嘆きながら腰をひねり、つま先で飛び跳ねた。今日の自分はどうかしている。やっぱりいつものラジオじゃないからだ。そう思って音楽に耳を傾け、ようやく謎が解けた。
闇の支配者が歌っているのは、確かにラジオ体操のメロディラインだ。しかし、よく聴いてみると音が違う。大事なところで半音ずれるのだ。上がりきらずに半音、着地しようとして半音。
それだけで、あの聞き慣れた曲が、やりきれないほど悲しく陰鬱なものに変わってしまうとは、思いもよらなかった。
「ちょっとあんた、わざとやってるでしょ?」
闇の支配者は素知らぬ顔で歌う。声を響かせ、オーラをなびかせ、部屋をうっすら黒く染めながら歌っている。
りん子は体操をやめようとした。が、歌声を聴いているだけで、マリオネットのように体が動いてしまう。そして動けば動くほど、わけのわからない悲しみと疲れが襲ってくる。
第一が終わると、今度は第二が始まった。闇の支配者は拳を握りしめ、たんたかたん、たんたかたん、と歌う。これも半音の調整により、軍歌のような曲調になっていた。
「ひどい、悲しすぎるわ。でもこれ意外と、日本人好みの曲かもね」
褒めたつもりはないのに、闇の支配者は気を良くして声を張り上げた。りん子は引きずられるように足を広げ、腰を曲げては伸ばした。
憂鬱に押しつぶされそうになりながら、どうにか第二を踊りきった。りん子はフローリングの上に仰向けになり、大きく息をついた。
「ああ、やっと終わったのね」
「まだだ」
「えっ」
「知らねえのか。ラジオ体操には第三もあるんだぜ」
闇の支配者はにやりと笑い、ソファーからテーブルの上へ飛び乗った。体中のオーラを逆立たせ、片足でリズムを取り、激しいメロディを歌い始める。もちろん短調だ。
「どうしよう。第三なんてやったことないわ」
すると、転がっていたラジオが突然立った。起き上がっただけではない。アンテナのような棒が新しく二本生え、それを足にして立っている。さらに、左右からも一本ずつ生えた。
ラジオはしばらく、細い足でふらふらしていた。やがてりん子の隣に立ち、歌声に合わせてぎこちなく動き始めた。足踏みを繰り返し、両手で勢いをつけて体を横に反らせる。
「それが第三?」
ラジオはうなずくような仕草をする。りん子は横目でラジオを見ながら、腕を上下左右に突き出したり回したりした。
「む、難しい……」
ラジオが百八十度開脚して跳ねたり、片手で逆立ちしたりするのを、りん子は夢中で真似した。汗が流れ、息が上がったが、疲れは感じなかった。悲しみも無気力も、どこかへ行ってしまった。この複雑怪奇な動きについていくことと、ラジオが動くようになった喜びで頭がいっぱいだった。
「息を止めて全身麻痺の運動! 地獄へ向かってジャンプ!」
歌の合間に、闇の支配者は口忙しく指示をする。りん子とラジオは休みなく動き続けた。第三を踊りきるとまた第一に戻り、悲しい調べに身を任せた。
「下の階から苦情が来ちゃうわね」
そう言いながら、りん子は何周目かわからない第三を踊った。いつまでもいつまでも、闇の支配者が足を滑らせて床に顔を打ちつけるまで、踊りは続いた。