仕舞 下
いよいよ最後です。一番書きたかった部分ですので気合い入れました。
最後までお楽しみください。
瀬戸の波 -仕舞 下-
〈大内軍後方 十月一日〉
鳥が鳴く。朝日が包み込んだ大地にキラキラと水たまりが光る。昨夜月を覆い隠した黒雲は過ぎ去り、後に残った白雲も風に乗って行く。それらに出遅れたように地上ではうっすら霧が立ち込めていた。浅い眠りから目覚めた兵士達は夏を恋しく思わせる早朝の肌寒さに襲われるも、雷雨を耐え抜いた森林の匂いに安心したのか、欠伸の音があちらこちらで聞こえる。来るはずもない敵に備える見張り達は雷神との戦いに疲れ果てていた。ほとんどの者が滝のように水がしたたり落ちる鎧を脱いでいた。
鳥が泣く。その不吉な声に数人が何とも言えぬ不安を感じた。次の瞬間には裏手の森の奥からドドドと音が聞こえ始める。危険を察知した人数が数人から十数人に増えるも、(早朝から部隊が移動しているのだろう)と大半はそう見て眠い目を擦る。だがその音は段々と近づいてくる。全員構えた。何かが来る。
突然森から黒い物体が走り出た。(獣か?)と思った見張りの一人はアッと言う暇さえ与えられず斬られた。朝日を浴びて輝いた刀の姿に彼らすべての心臓が跳ねる。
(敵だ!)
次々と出てくる武士共に誰かが叫び声をあげる。ろくに武装していなかった彼らになす術はない。簡単に赤く染まる兵士。追い詰められた一人があたりを見回すと、仲間たちは全員血だまりの中で横になっていた。(仲間を呼ばなければ!)と答えをようやくはじき出し駆け出す。だがもう遅かった。気配を感じて振り返った時、すでに目の前に刃が迫っていた。彼が最後に見た光景の中に自分を斬る敵の肩の向こうで一文字三ツ星の旗が羽ばたいていた。
〈厳島塔ノ岡 大内軍 陶晴賢寝室〉
物音に目覚める晴賢。外から和紙を通して部屋をほのかな光が照らしていた。だが一緒に人の目を覚ますには十分な雑音も入ってきた。長閑な視界とは似ても似つかない音が晴賢の頭に流れ込んでくる。あまりにも騒がしい。昨夜の大雨にうんざりしていた晴賢のイライラした心にその音はぐさりと追い打ちをかける。
「誰かおらぬか!」
晴賢の不機嫌丸出しの声に、小姓が青ざめた顔で飛んでくる、はずだった。シンとした部屋に近づいて来る足音は聞こえず、代わりに外の音はますます大きくなる。よく耳を澄ました晴賢はその音の中に人の悲鳴を聞いた。彼はすぐさま自分の経験から状況を想像し、布団を跳ね除け刀を引き寄せた。甲冑を着る時間はなさそうだ。その時ようやく廊下を走る音が響いた。
「殿、敵襲です!」
「誰が裏切った?!」
「分かりません!間もなく隆正様方がいらっしゃいます」
「馬の準備をせい!」
裏切りと決めつけた晴賢は玄関へ走る。毛利家と協力しているとしても、体勢を立て直したらこちらの物。叩きつぶしてくれる!と意気込み、休息所として使っている屋敷を出た。そんな彼に複数の影が近寄る。隆正ら側近衆だ。早朝から働く予定だった彼らはすでに甲冑に身を固めていた。
「殿、お早く!」
「隆正、敵の旗印は?!」
「一文字に三ツ星!」
家中にそのような旗印はない。一瞬考えた晴賢は次の瞬間顔をひどく歪めた。
「も、元就か!!」
「正面・裏手から挟み撃ちになっておりまする!ひとまず大元浦にある船にお移り下さい」
船に移らずとも大丈夫だ、と言いかけるほど意固地になっていた晴賢の心は門を出た時大きく変わった。自分たちが育て上げた兵達は見苦しいほど逃げ惑っていた。状況が分からず武器さえ捨てて行く兵士。寝間着姿のまま叱咤激励している武将。さらに悪いことに味方同士で斬り合いをしている者もいる。地面が湿っているおかげで砂埃が立たないのがせめてもの救いだった。その様子を呆然と見る晴賢を側近達は馬に押し上げ、大元浦へと急いだ。
〈大元浦〉
「なんだ、これは!!」
晴賢一行は絶望に満ちた混乱の声を上げた。船を泊めているはずの海岸線は白い砂浜が隠れるほど黒く塗りつぶされていた。甲冑さえ来ていない兵士達(兵士かどうかも予想にすぎなかったが)はまるで餓鬼のように船に群がっている。その姿は晴賢に恐怖を与えた。まるで地獄絵図だ。これでは大将の晴賢でさえも船には乗れないだろう。
「船がこれだけのはずはあるまい!他の船はどうした!」
「晴賢様!晴賢様でございますか!?」
隆正が悲鳴に近い問いを部下に質した時、遠くから晴賢を呼ぶ声が聞こえた。大内水軍をまとめる三浦房清だった。
「房清!お主、水軍はどうした!」
「申し訳ございません!ぜ、全滅にございます!」
「そ、そんな馬鹿な!!」
晴賢の馬の下で土下座する房清は鎧もつけずにずぶ濡れの状態だった。房清の報告に人一倍神経質な隆正は目の前が真っ青になった。晴賢や他の側近達も目が点になる。そんな一同に対して房清は弁解とも泣き言ともつかないような言葉を叫んだ。
「突如村上水軍と思われる船から攻撃を受け、わが軍は大混乱。他の水軍も混乱し、そのほとんどが戦わず逃げました!我が船は沈没し、命からがらここまで来た所存にございまする…」
息を荒げて房清は報告した。隆正は眩暈までしてきた。(まさか村上水軍が)という思いもあったが、それよりも彼らの心を占めていたのが
(脱出する船がない)
ということだった。騒ぐ部下達を後目に黙りこむ晴賢。すると独り言のように言葉をこぼした。
「たしか、大江浦に漁村があった」
起死回生とも思える晴賢の言葉に一同振り向く。
「!!それです、晴賢様!そこならば…」
「よし!駆けるぞ!」
走り出そうとする晴賢らの後ろで房清は覚悟を決めた。彼が汚名返上する機会はここしかなかった。
「晴賢様、ここは私にお任せください!敵を防ぎまする!」
晴賢は振り向き房清の顔を見つめる。彼は房清の瞳の中に青白い炎が燃えているような気がした。ゆっくりと頷く。
「…房清、頼んだ!」
と言うや否や走り出す晴賢達。それを見送った房清は大内家直臣達をまとめ、迫りくる吉川軍に突撃して行った。
〈厳島 大江浦〉
大江浦に辿り着いた晴賢達はとりあえず浜の近くに位置する漁村に漁師、もしくは適当な漁船を探した。しかし誰一人として姿を見せない静まり返った漁村。船も嵐で流されたのか、戦火から守るために隠しているのか、どこにも見当たらなかった。
一同は片っ端から小屋をあら捜しした。なかなか見つからぬ舟に諦めかけたその時
「あそこにあります!」
と浜辺を見た側近の一人が歓喜の声を上げた。海岸線に打ち上げられたように放置されている小舟がそこにはあった。見た目は小さいが、晴賢一人を逃すには十分であろう。その近くにはその持ち主であろうか、腰が曲がった老人がいた。小舟の下に急ぐ。もう安心だ。
すると、どうしたことであろうか!その舟に老人が乗り海へ出ていくではないか。
「待て!舟待て!」
「待て!待たぬか!」
叫びながら走り寄る晴賢たち。馬なら十分間に合う距離のはず。しかし不思議なことにその老人の出船には間に合わなかった。浜辺で声を荒げる。
「待てと言っているのが聞こえぬか!」
「泳いでその方を叩き斬るぞ!戻れ!」
そんな声を嘲笑うかのようにスルスルと沖に出ていく舟。老人の顔は何も聞こえていないように無表情だったが、その眼はじっと晴賢を見つめていた。目を凝らした晴賢はハッと気づいた。
「戻れ、ジジイ!」
「止めぬか!」
「えっ?晴賢様?」
「あれは…」
息を飲み込む晴賢。側近達は初めて晴賢の青ざめた顔を見た。
「あ、あの方は義隆様よ…」
そんな馬鹿な!老人の顔を注視する一同。そんな主従の様子に気付いたのか、顔の皺の形を変えてにたりと笑う翁。ゆらりゆらりと去っていく舟を、晴賢はただ呆然と見送っている。徐々に小さくなっていく舟。輝く海原。場違いなほどさわやかな海風が晴賢の髪を撫ぜた。
晴賢は自害した。伊香賀隆正の介錯で自害したと伝えられる。義隆であろう老人の姿に自分の定めを知ったのか、脱出できないことを悟り絶望したのか、それは誰にもわからない。
ただ一つ言えることは、彼は義隆の殺害など自分の人生に対して一切反省も後悔もしなかったということだ。彼の辞世の句は『何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に』とある。この運命を割り切って考えた心持ちは彼に一時的とはいえ中国地方の覇権を握らせた。最後の最後で敗北という結果になったが、彼もまた下剋上の戦国の世を生きた男であった。
〈宮尾城 元就本陣 十月二日〉
「元就様、晴賢の首が見つかりました」
強くなってきた海風が幕を揺らしている本陣に入ってきた就忠は実に楽しそうな様子で報告を始めた。しかしそれとは対照的に元就は出陣前のぼんやりした老人の姿に戻っていた。空には奇妙なほど一つも雲が無かった。
「そうか」
「晴賢の側近の伊香賀隆正、柿並隆正、山崎隆方らは晴賢の体の隣で自刃しておりました」
「そうか」
「あの、元就様?」
「なんじゃ」
「…いえ…失礼します」
「報告ご苦労であった」
感慨なく答える元就の姿に就忠は物足りなく感じた。これで就忠は中国地方を取ったようなものだぞ。もう少し嬉しがっても良いではないか、と不満に思いつつ就忠は本陣から去った。その入れ違いに隆景が入ってきた。
「父上、三浦房清の首を持ってまいりました」
「ご苦労。……隆景」
「はい」
「やっと、勝ったな」
その言葉を聞いた隆景はジッと父親の顔を見つめて、そして高らかに笑い声をあげ始めた。周りに控えている家臣達はキョトンとしていた。
「はっはっは、御冗談を。父上らしからぬお言葉ですな」
「うん?何を言っておるのだ?」
「だってそうではございませんか。父上は常日頃から戦の勝敗は始まる前にすでについておるとお教えくださいました。すでに勝っている敵に対して二度勝つことはできませんよ」
笑う隆景の言葉に元就は腑に落ちた顔をした。
「…なるほどな。だから、か」
「何がですか?」
「いや、勝った心地がせぬでな。そうか、すでに勝っておったからか」
ふふ、と鼻で笑う元就。とりあえず問題は解決したらしいその姿に隆景は満足して去って行こうとした。出ていく後ろ姿に元就は問いかける。
「まだ抵抗している敵は居るか?」
「いえ。ほとんどが逃げたか、降伏しました。しかし」
「なんじゃ?」
「兄上が追っていると思いますが、大聖院の奥の絵馬ヶ岳に逃げ込んだ部隊がおりまして」
「それは誰の部隊じゃ?」
「おそらく、弘中家の部隊かと」
「…隆兼殿か」
〈厳島 絵馬ヶ岳 十月三日〉
「父上、また降伏勧告です」
「無視せい」
絵馬ヶ岳の山頂付近。暗く湿った森の中。上空から降り注がれるはずの光はうっそうと茂る木々に遮られていた。その木々の根本に弘中隆兼とその家臣達は居た。全員ボロボロになっていた。ある者は片目を包帯で覆い、ある者は地面にうつ伏せに寝そべってもう起き上がる気配がなかった。またある者は足を引きずり、ある者は鎧の紐を固く結びなおしていたが力が入らず何度も解ける紐に苦戦していた。誰もが疲れ果てていた。
仕方のないことであろう。何せ彼らは三日間昼夜問わず戦い続けていたのだ。毛利軍の奇襲を予感していた隆兼は予めその備えをしており、混乱し逃げ惑う味方の傍で奮戦していた。しかし多勢に無勢、全滅する前に退却した弘中軍は追いすがる毛利軍を振り切り、滝小路から絵馬ヶ岳へと逃げてきた。だがこれが限界だろう。隆兼は暗澹とした思いでいた。
そんな隆兼の気持ちを察し、申し訳なさそうな表情で隆助は言った。一昨日の雨はまだぐしゃりと音を立てる隆助の足元の苔に残っているようだった。
「……父上。お気づきかと思いますがここまでのようです。もう十分です。晴賢様への面目も立ちましょう」
「…馬鹿が!だから降伏しても良いと申すのか!」
「私も悔しいです!悔しいですよ!!でも周りをご覧ください!」
ちらりと周りを見る隆兼の目に満足に戦えそうな者は映らなかった。荒い息で座り込む兵士達。まだ彼らの目に気力の欠片が残っていたが、次戦えば必ず全滅する。何より隆兼の刃こぼれした刀がそれを物語っていた。
「父上、もう限界です!降伏、しましょう」
「……隆助。儂はな、死なねばならんのよ」
何を言っているのだ、と隆助は不思議がる素振りをした。隆兼は目を瞑って語りだした。
「隆助。房栄殿を覚えているか」
「当たり前です。実の息子の様に可愛がってくださいました」
「そうだな。儂にとっても兄のような人だった。……だが、儂はその兄を殺してしまった」
「………」
「その兄を殺したとき、自分の刀で切った時、儂は死んだのだ。自分を切り捨てたようなものだな。ここにいる儂はただの抜け殻よ」
くっくっく、と隆兼は笑う。隆助は今までの人生の中でこれほど悲しい笑い声を聞いたことがなかった。
「分かったか、隆助。すでに死んでいる儂がこれ以上この世に居てはいけない、いけないのだ」
「あ、あれは仕方なかったこと!房栄様が恨んでいるとは思えません!」
必死に父を説得、そして慰める。その姿に隆兼は少し感動した。
「…そうかもな」
「そうです!その通りです!」
説得できたと笑みを浮かべる隆助。だが父の決意は固かった。
「そうであっても、儂は降伏できぬ」
「どうして…!」
黙ってグイッと息子を引き寄せる父親。顔を近づけ目を見つめた。先ほどまで鳴いていた鳥の声も、隆兼の言葉を待つように止んでいた。息子を見つめる父の目に涙が光る。
「儂は…儂も……大内家の弘中隆兼なのだ…」
隆兼は死んだ。降伏を丁寧に断ってから、毛利軍がひしめく山のふもとに隆助ら突撃していったという。隆助ら弘中家一同も隆兼に殉じた。鬼の様に戦い死んでいった隆兼らの勇姿、そしてその悲劇は語り継がれることになった。そして隆兼の首を取った毛利軍は、神を慰めると云う意味をこめて厳島の表土に付いた血を削り取り帰って行ったという。毛利家はこれ以降厳島神社を厚く信奉し、今日の繁栄まで至っている。
蛇足かもしれないがその後について話しておこう。厳島の戦い後、大黒柱を失った大内家は分裂した。名声も実績も、正統性さえなかった大内義長にくい止めることはできず、あれほど栄華を誇った陶家の嫡流はその中で滅んでいった。元就がその隙を突かないはずもなく、すぐさま大内領に出兵した。『防長経路』という。大内義長は自害し、1557年4月大内家はその長い歴史に幕を下ろした。毛利家は悲願を達成した。
そんな中でも弘中家は滅ばなかった。いや、一度は滅んだが再興したといった方が良いだろう。元就は隆兼の死を惜しみ、弘中家一門の保護を積極的に行った。その甲斐あって隆兼の子孫は今地家と改名し、白崎八幡宮の宮司として保護されたという。
名将の絶対条件は“運が良い”ことだと言われている。しかし元就は決して運が良かったから勝ったわけではない。彼は磨きぬいた知能によって晴賢の勝利という“if”を潰していった。天性の閃きより地味な努力こそ、実は人にとって最良の武器なのかもしれない。この話はここまでにしておこう。
私が“厳島の戦い”という地味な題材を選んだのにはそれなりに意味があります。それは桶狭間の様に「いっちょやったれ!」といった運だめしのような奇襲ではなく、元就は足掛け5年もの歳月をかけて「勝つための絶対条件」をそろえて行った緻密さにありました。本文の中でも書いたように、私が一番言いたかったことは「戦う前に勝つ」ということです。実際に戦うまで長々と書きましたが、むしろあれこそ元就にとって“本当の”戦いであったと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!




